第5話 計画
自由帳のいちばん上に、「けいかく」と書いた。
漢字で書くつもりだった。計画。画数は多くない。四十年、何千回と書いてきた字だ。それなのに、鉛筆の先は思ったところに行かなかった。言べんの横棒が斜めに傾いて、隣の字とぶつかる。消しゴムで消すと、紙が毛羽立って薄く破れかけた。
鉛筆の持ち方がおぼつかない。指が短くて、鉛筆が長すぎる。正しく持とうとすると力が入らず、力を入れると握りこむような持ち方になる。一年生の教室で習っているひらがなの「あ」の練習を、俺は内心ばかにしていた。ばかにできるような手ではなかった。
だから、ひらがなで書いた。表紙にパンダの写真がついた自由帳は、一ページ目からマス目のない白い紙だった。月曜の夜で、窓の外は暗い。机の電気スタンドの丸い光の中で、一行ずつゆっくり書いていった。
りょうあし
ボールにさわる まいにち
はやくねる
すくないにんずう
四行書いただけで、手首が疲れた。
頭の中では、もっと長い文になっていた。右足と左足を同じだけ使う。利き足ができてしまう前に、両方の足にボールを覚えさせる。うまく蹴ることより、とにかく回数だ。一日に何百回でもボールに触る。体は寝ているあいだに大きくなるから、夜は九時に寝て、朝は七時に起きる。練習は大勢で一つのボールを追いかけるより、二人か三人で、一人が何度も触れる形がいい。
そういう全部が、紙の上ではひらがなの四行になった。
四行を眺めながら、昨日の練習を思い出した。三周で最後尾。まっすぐ蹴れたのは十本のうち二本。止められたボールは一本もない。背の順で、いちばん前。
それに比べて、この四行はずいぶん頼りなかった。それでも、ほかに書くことは思いつかない。正しいことは、たぶんここに全部書いてある。あとはやるだけだ。
「さく、なに書いてるの」
後ろから母がのぞきこんだ。洗濯物を畳み終えたところらしく、タオルを一枚肩にかけている。
俺は自由帳を手で隠そうとして、やめた。隠すようなものではない。
「けいかく」
「計画?」
母は俺の肩越しに四行を読んで、「すくないにんずう」のところで首をかしげた。
「なんの計画?」
「……サッカー」
「ふうん。はやくねる、は?」
「きょうから、九時にねる」
母は目を丸くした。
「九時? いつも、テレビ見て十時すぎまで起きてるじゃない」
「九時にねる」
時計を見ると、八時四十分だった。母は「九時……」と繰り返して、俺の顔をじっと見た。不思議なものを見る目だった。
「……じゃあ、歯みがきしてきなさい」
布団に入ったのは九時ちょうどだった。居間のほうから、テレビの笑い声がかすかに聞こえる。一度目の俺は、この時間にはあの笑い声の中にいた。眠くはなかった。四十年分の頭は、九時に眠るようにはできていない。天井のしみを見ていると、明日やることが次々に浮かんできた。
玄関の隅の、父の五号球。明日、あれを使う。父には言わずに。
眠れるはずがない、と思っていた。目を閉じて明日の手順をなぞっているうちに、気がつくとカーテンの隙間が白くなっていた。六歳の体は、頭の言うことはちっとも聞かないくせに、眠ることだけはひと晩で覚えてしまった。
◇
次の日の帰りに校庭の横を通ると、高学年の子たちが練習していた。平日の放課後は五、六年生だけが残って練習するのだと、園田さんが話していた。
五年生の蹴ったボールが、ぱん、と乾いた音を立ててまっすぐ相手の足もとに収まる。受けた子は一度で止めて、すぐに蹴り返す。あの子たちのボールは四号だ。俺たちのより一回り大きく、父のより一回り小さい。足の大きさに合ったボールを、足の大きさに合った強さで蹴っている。フェンス越しに、そう見えた。
家に帰ると、ランドセルを置いて、玄関の隅から五号球を持ち上げた。
重かった。
片手では持てない。両腕で抱えると胸の前がボールでいっぱいになり、足もとが見えなくなった。黒と白の革は表面に細かいひびが入っていて、ひびのあいだに古い泥が詰まっている。父が空気を入れたせいで、固く張りつめていた。
家の横に、父の車を停める場所がある。奥はブロック塀で、車のない昼間はそこが空いている。塀までは五歩ほど。おとといの対面パスと同じくらいの距離だ。
大きさが合わないことは知っていた。小学生は四号、低学年なら三号。一度目の人生で、いくらでも読んだことだ。それでも、家にあるボールはこれ一つだった。それに、これは父のボールだ。父が夜中に黙って空気を入れたボールだった。
ボールを地面に置いた。左足を横に。右足の内側で、押し出すように。
蹴った。足の内側に、どん、と重いものが当たる。ボールは塀まで届かず、二歩ほど転がって止まった。足首がじんとしびれた。蹴ったというより、重いものを足で押したような感じだった。
もう一度、今度はもっと強く。振った足はボールの真ん中ではなく、上のほうをこすった。ボールは横へ逃げ、俺は勢いあまって片足でたたらを踏んだ。
三度目で、ようやく塀に当たった。ぼん、という鈍い音がして、ボールが跳ね返ってくる。思っていたより、ずっと速い。止めようと足の裏を出したが、間に合わなかった。ボールはすねに当たって、後ろへ転がっていった。
拾いに行き、戻ってきて、置いて蹴る。届かない。置いて、蹴る。横へ逸れる。置いて、蹴る。当たる。戻りが速すぎて、止められない。
やり方を変えた。塀までの距離を五歩から三歩に縮める。近ければ、弱く蹴っても届く。届いた。ぼん、と当たったボールは、さっきよりもっと速く戻ってきて足もとを抜けていった。近いぶん、戻るまでの時間がないのだ。当たり前のことだった。
四歩に戻して、今度は蹴る強さを半分にした。ボールは塀の手前で止まった。もう一段強くすると、届いた。けれど、戻ってきたボールは止めようとした足の裏に当たって、横へ跳ねた。
一本ごとに、何が悪かったかは頭で分かった。距離。強さ。軸足の向き。足首の固さ。止めるときの足の角度。分かるたびに一つずつ直した。すると、直したところとは別のところが毎回だめになる。直したはずのところも、次の一本ではまた元に戻っていた。
足の内側がひりひりしてきた。ボールの縫い目が当たるところが赤くなっている。
塀に、丸い跡が一つずつ増えていった。ボールの泥が灰色のブロックに薄く写るのだ。跡は塀のあちこちに散らばって、一つとして同じところになかった。
何十回目だったか、分からない。跳ね返ってきたボールを止めようとして、足を伸ばしすぎた。軸足がずるりと滑る。体が横に倒れ、手をつく前に右の膝が地面に落ちた。
膝が焼けるように熱くなった。
見ると、膝の皿のあたりの皮がすりむけて、白っぽい傷に細かい砂がめりこんでいる。じわじわと赤いものがにじんでくる。痛かった。泣くほどではない、と頭は言っていた。四十年生きてきた頭は、この程度の傷がどれくらいで治るかも知っている。
それなのに、塀の灰色がにじんで見えた。俺は塀の前に座りこんだ。
ボールは少し離れたところで止まっていた。黒と白の、ひびだらけの大きなボール。正しいことを、俺は知っている。両足で蹴ればいい。毎日触ればいい。足の内側で、軸足をボールの横に置いて。全部、知っている。映像で見て、何十冊も読んで知っている。
なのに、ボールは塀に届かない。届いても、戻ってきたボールを止められない。止めようとすれば転ぶ。
俺の知っていることは、この五号球に似ていた。正しくて、大きくて、重くて、今の俺には持ち上げるだけで精いっぱいだった。
悔しかった。膝の痛みより、そっちのほうがずっと痛かった。
◇
どれくらい座っていたのか、分からない。塀の影が長くなって、ブロックの丸い跡が見えにくくなってきたころ、道の向こうから聞き覚えのあるエンジンの音が近づいてきた。白い車が角を曲がって、こちらに入ってくる。
父の車だった。いつもより帰りが早い。
慌てて立ち上がろうとしたが、膝が突っぱって、また座りこんだ。車は俺とボールの手前で止まった。エンジンが切れる。ドアが開いて、作業着の父が降りてきた。
父は車の前に立ったまま、俺を見た。それから、少し離れたところに転がっている五号球を見た。それから塀を見た。あちこちに散らばった、丸い跡を。
何か言われる、と思った。勝手に使うな、かもしれない。危ないだろ、かもしれない。父のボールを、父に断らずに持ち出したのだ。夜中に父が一人で空気を入れていたボールだ。俺がそれを見ていたことを、父は知らない。知らないまま、自分のボールが塀の前に転がっているのを見ている。
父は塀の前まで歩いていって、丸い跡の一つに親指で触れた。灰色のブロックに薄く写った泥を、こするでもなく、なぞるでもなく、押さえるように触れる。それから、跡の散らばり方を端から端まで目で追った。一つとして同じところにない跡を。
父の顔は塀のほうを向いたままだった。膝を抱えて座っている俺には、父が何を思っているのか分からなかった。
父はボールのほうへ歩いていって、それを片手で拾い上げた。俺が両腕で抱えなければ持てなかったボールを、片手で。手のひらに乗せて、重さを確かめるように一度上下させた。
「それ、でかいだろ」
低くて平らな声だった。手の上の重さを、そのまま口にしたように聞こえた。
「……うん」
ほかに言葉は出なかった。
父の目が俺の膝で止まった。砂のめりこんだすり傷は、もう血が固まりかけて黒っぽくなっている。父は口を開いて、何か言いかけた。痛いか、なのか、洗っとけ、なのか。けれど、口はそのまま閉じた。
父はボールを抱えたまま、玄関のほうへ歩いていった。俺は座ったまま、その背中を見ていた。作業着の背中に、汗の跡が地図のように広がっている。
玄関の戸が開いて、中から母の声がした。
「あら、おかえり。早いのね。……あ、さくは?」
「そこにいる」
父の返事は短かった。母が顔を出して塀の前の俺を見つけ、それから膝を見て「あらあら」と言った。父はそのあいだ、ボールを抱えたまま戸口に立って動かなかった。
母が救急箱を取りに引っこんでも、父は戸に手をかけたまま中に入らなかった。背中を向けたまま、しばらくそうしていた。それから振り向いた。
「今度の休みの土曜、空いてるか」




