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観るだけだった俺の、二周目のサッカー人生 —— 「やっておけばよかった」を、六歳から取り返す  作者: 八夜巡
第1章 小学一年生

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第4話 はじめての日曜日

 日曜の朝の校庭は、平日とは匂いが違った。


 誰も踏んでいない土が、夜の湿り気をまだ抱えている。そこに朝の日が当たって、ぬるい土の匂いが立ちのぼっていた。母の隣を歩きながら、俺は何度もすね当ての位置を直した。先週、母がスーパーの二階で買ってきた青いプラスチックのすね当てだ。靴下の中でずれて、歩くたびに足首のほうへ下がってくる。


 母は大きな水筒を肩から下げ、紙コップの束が入った袋を手に持っていた。入団して最初の日曜から、母の名前は当番表に書かれていた。


「緊張してる?」


「してない」


「うそ。さっきから、すね当てばっかりさわってる」


 母は前を向いたまま笑った。


 玄関の隅には、あの夜から父の五号球が置いてある。空気は固く入っていた。父は何も言わないし、俺もまだ触っていない。触ったら、何か言わなければいけない気がした。何を言えばいいのかは、分からなかった。


 校庭の端に、子どもが二十人ほど集まっていた。体操服の子、Tシャツの子、ジャージの子。上級生はそろいのユニフォームを着ているが、一年生と二年生はてんでばらばらだった。野球のバックネットの前では、少年野球の子たちがこちらとは反対の向きに整列している。校庭は野球とサッカーで半分ずつ分けて使うらしい。


 子どもたちの前に、男が一人立っていた。五十を過ぎたくらいの、よく日に焼けた男だ。色の褪せた紺のジャージの上下に、首から銀色の笛を下げている。腕を組んで、集まってくる子どもを一人ずつ目で数えていた。監督の大河原さんだと、母が小声で教えてくれた。


 その横で、若い男がしゃがんでいた。三十くらいだろうか。新しい一年生の一人と同じ目の高さになって、何か話しかけている。その子が笑うと、男も笑った。


「あの人が園田さん。三年生の子のお父さんでね、コーチしてくれてるの」


 母はそう言って、俺の背中を軽く押した。


   ◇


「整列!」


 笛が鳴って、大河原監督の声が校庭に響いた。子どもたちがばらばらと横一列に並ぶ。


「おねがいします!」


 上級生の声に合わせて頭を下げた。顔を上げると、もう次の声が飛んできた。


「校庭三周!」


 走り出して半周で、俺は列のいちばん後ろになった。


 足が前に出ない。出ているのに進まない。歩幅が狭くて、腕の振りと足が合っていない。体のどこに力を入れればいいか、頭では分かっている。分かっているのに、体はばたばたと手足を振り回すばかりで、少しも前に行かなかった。前を走る背中がどんどん小さくなっていく。


 二周目の途中で、俺の前を走っていた子が急に止まり、そのまま土の上に座りこんだ。


 知らない子だった。坊主に近い短い髪で、膝の泥を見つめたまま立とうとしない。横を通り過ぎるときに、ちらりと顔を見た。泣いてはいなかった。もういい、という顔をしていた。


「北村! 座るな!」


 監督の声が飛んだ。その子は肩をびくりと震わせ、のろのろと立ち上がって、また走りはじめた。俺のさらに後ろを。


 三周を終えると息が喉に詰まって、しばらく声が出なかった。


 体操のあとは対面パスだった。二人一組になり、五歩ほど離れて向かい合って、足の内側でボールを蹴り合う。


「さく、やろ」


 声をかけてきたのは駒井蓮だった。同じ若宮小の、隣のクラスの子だ。昼休みの団子の中にいつもいる。いちばん大きな声で笑い、いちばん速く走り、いちばん多くボールを蹴っている子だった。くん付けもしないで、最初から俺を呼び捨てにした。


「うん。蓮くん」


「いくぞ」


 蓮の蹴ったボールは、まっすぐ来た。地面をすべるように転がってきて、俺の足もとでぴたりと勢いを落とす。強すぎず、弱すぎない。考えて蹴っている感じはしなかった。蓮はボールを見て、足を出しただけだ。


 止めるなら、足の裏だと決めていた。六歳の足首は、まだ固めきれない。内側で受ければ、ボールは足に当たって跳ね返る。上から足の裏をかぶせれば、跳ね返りようがない。あの夜、父が畳の上で止めたのも、足の裏だった。


 来たボールを、足の裏で止めようとした。止まらなかった。ボールは足の裏の手前をすり抜けて、後ろへ転がっていく。走って拾い、元の場所に戻って、置いて蹴る。ボールは蓮の一歩右へ逸れていった。


「さく、どこ蹴ってんの」


 蓮は笑いながら走って取りにいった。悪気のない笑い方だった。戻ってきて、またまっすぐな一本を蹴ってくる。俺はまた止められず、また逸らした。


 七本目は、まっすぐ行った。蓮は何も言わずに、当たり前の顔で蹴り返してきた。それだけで、少し息がしやすくなった。


 十本やって、まっすぐ蹴れたのは二本だった。蓮は十本とも、まっすぐだった。


 最後は紅白戦だった。一年生と二年生を混ぜて、八人ずつ。ビブスの色で敵と味方を分ける。俺は黄色いほうだった。


 キックオフの前は、みんなきちんと自分の場所に立っていた。前に二人、真ん中に三人、後ろに二人。監督に言われた場所に、まっすぐ立っている。


 笛が鳴った。その瞬間、十五人が一つのボールに向かって走った。


 あっという間に、校庭の真ん中に団子ができた。砂ぼこりが上がり、甲高い声が重なる。誰かが蹴ったボールは隣の誰かのすねに当たって、また団子の中に戻っていく。前も後ろもない。敵も味方も同じ方向に走っている。


 俺は団子に入らなかった。昼休みと同じように、団子の外の、ボールが逃げてきそうなところに立つ。右の少し後ろ。そこに立っていれば、いつか来る。


 来た。


 誰かが大きく蹴り出したボールが、団子の外へ転がってきた。俺のほうへ、足もとへ。止めればいい。止めて前を向いて、空いているところに転がせばいい。


 足の裏を出した。ボールはその下をくぐり抜けて、そのまま後ろへ転がっていった。


 振り向いたときには、もう団子がこちらに押し寄せてきていた。十五人の足が俺の横を通り過ぎていく。誰かの肘が肩に当たって、俺は尻もちをついた。


 団子の中から、ひときわ大きな笑い声が聞こえた。蓮だった。ボールを足にくっつけたまま団子の真ん中から抜け出し、一人をかわして、二人目の足のあいだを通す。そのまま走って、小さいほうのゴールに蹴りこんだ。網のない枠の中をボールが転がっていく。


「よっしゃあ!」


 蓮は両手を挙げて、校庭を一周するような勢いで走り回った。心の底から楽しそうだった。


 点が入ると、みんなはまた自分の場所に戻っていった。前に二人、真ん中に三人、後ろに二人。キックオフの笛が鳴ると、また一つの団子になった。


 尻もちをついたまま見ていると、横に誰かが来た。一年生でただ一人の女の子で、同じクラスの東ひかりだ。髪を後ろで一つに結んで、膝に土をつけている。団子から押し出されてきたらしい。息を弾ませながら、俺の顔をのぞきこんだ。


「さくくん、ボール、こわいの?」


「……こわくないよ」


「ふうん」


 ひかりは本当かどうか確かめるように、もう一度俺の顔を見た。それから黙って団子のほうへ走っていった。結んだ髪が背中で跳ねていた。


 こわいわけではない。ボールのほうから来てくれるのを待っているだけだ。そう言い返したかったが、言い返す相手はもう団子の中だった。


   ◇


「よし、終わり! 整列!」


 紅白戦は蓮の三点で終わった。黄色いビブスを脱いで、一年生が先に集まる。


 隣に蓮が来た。まだ息が荒い。蓮は汗で濡れた手のひらを、ぽん、と俺の頭の上に乗せた。


「さく、ちっちゃ」


 並んで立つと、蓮とは頭半分違う。


「一年生、背の順!」


 監督の声で一年生が並び直した。小さい子が前、大きい子が後ろ。みんなが互いの頭を見比べて、前へ行ったり後ろへ行ったりする。


 俺はいちばん前になった。誰とも比べる必要がなかった。誰と並んでも、俺のほうが小さい。さっき座りこんでいた北村という子も、ひかりも、俺より少し大きかった。蓮は、いちばん後ろの背の高い子の一つ前にいた。


 理由は知っている。蓮は四月の生まれだと、さっき誰かが話していた。俺は三月の生まれで、同じ一年生でもほとんど一年違う。背が違う。走る速さも、蹴る強さも、転んだときの起き上がり方も違う。六歳の一年は、それまでの人生の六分の一だ。生まれた月でこれだけ差がつくことを、一度目の俺は何度も読み、人に説明までした。


 知っていても、俺の背は一ミリも伸びない。頭の中でいくら数字を並べても、蓮の背は縮まない。


 整理体操が終わると、最後のお茶の時間になった。母が校庭のすみの木陰で、紙コップに麦茶を注いでいる。子どもたちが一列に並んで、一杯ずつ受け取っていく。紙コップは小さくて、麦茶は半分ほどしか入っていなかった。飲んでいいのは休憩のときだけらしい。練習の途中の休憩でも、配られたのは同じ一杯だけで、それ以外の時間に水を飲んでいる子は一人もいなかった。


 五月でこれなら、と思った。真夏はどうなるのだろう。


 俺の番が来た。母は俺に紙コップを渡しながら、声を落として言った。


「お疲れさま。がんばってたね」


「……うん」


 がんばってはいなかった。止められず、蹴れず、尻もちをついていただけだ。それでも母はそう言った。麦茶は冷たくて、一口で終わった。


「次から、すいとう、もってきていい?」


「水筒?」


「じぶんの」


 母は少し考える顔をして、「いいよ」と言った。


 紙コップを返して振り向くと、目の前に誰かがしゃがんでいた。園田さんだった。日に焼けた顔に、細い目。首にかけたタオルで額の汗を拭いて、俺と同じ高さでにこにこ笑っている。


「朔くん、だっけ。どうだった? 初めての練習」


 どうだったか。頭の中に、今日の練習が全部並んだ。


「みんながボールに集まるから、外がずっと空いてて。そこに来るボールを、ちゃんと止められたら、前に誰もいないから——」


 言いながら、園田さんの細い目がだんだん丸くなっていくのが分かった。しまったと思ったが、言葉はもう半分出てしまっていた。園田さんは肩を揺らして、声を出して笑った。


「そうかそうか。よく見てるなあ」


 それから、俺の頭に大きな手をぽんと置いた。


「でもさ、そういうことじゃなくて。楽しかった?」


 答えようとして、口を開いた。楽しかった、と言えばいい。六歳の子どもならそう言うだろう。そう言えば、この人は笑ってうなずいて、次の子のところへ行く。


 言葉が出てこなかった。


 楽しかったのかどうか、自分でも分からない。ずっと、できないことを数えていた。まっすぐ蹴れたのは十本のうち二本。止められたボールはゼロ。団子の外に立って、来たボールは一本。そればかり数えていて、楽しいかどうかなんて一度も考えていなかった。


 園田さんは少し待ってから、「まあ、いいや」と笑って立ち上がった。


「また来週な」


 大きな背中がほかの子のほうへ歩いていく。


 紙コップを返したあとの手を、俺はどうしていいか分からずに、握ったり開いたりしていた。校庭の真ん中では、練習が終わったばかりなのに、蓮たちが残ったボールをもう追いかけはじめていた。蓮の笑い声がいちばん大きく聞こえた。


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