第3話 冷蔵庫のチラシ
黄色い紙の上のほうに、太いマジックで「若宮サッカースポーツ少年団 団員募集!」と書いてあった。
その下の、ボールを蹴る男の子の絵は、足が体から変な角度で生えていて、ボールは男の子の頭より大きい。誰かのお父さんが描いたのだろう。日曜日と、学校が休みの土曜日の、朝九時から。若宮小の校庭。一年生から入れます。見学・体験、いつでも歓迎。いちばん下に、知らない人の名前と電話番号。
俺は冷蔵庫の扉に手をかけたまま、しばらく動けなかった。
一度目のときも、この紙はここに貼られていたはずだ。俺は見なかった。見ていたとしても、何も思わなかった。
背中で、包丁の音が続いている。鍋から、煮物の甘い匂いがした。
言うなら、今だ。
喉が渇いていたことを思い出した。思い出したら、よけいに渇いた。四十年生きてきて、人前で話したことも、知らない相手に頭を下げたこともある。なのに、母の背中に向かって、六歳の子どもが言うべき一言が出てこない。
サッカーやりたい。それだけでいい。六歳なら、それだけでいい。
「おかあさん」
「んー?」
母は振り向かずに返事をした。包丁の音は止まらない。
「ぼく、サッカーを、やりたいのですが」
包丁の音が止まった。
母がゆっくりと振り向いた。包丁を持ったまま、目を丸くしている。それから口の端がひくひくと動いて、こらえきれないように、ぷっと吹き出した。
「やりたいのですが、って」
「……やりたい」
「なに、どこで覚えたの、そんな言い方」
母は包丁を置いて、エプロンで手を拭きながら笑った。笑いながら、俺の顔を見ている。目だけは、笑っていなかった。笑っていない、というのとも少し違う。何かを確かめるような目だった。
しまった、と思った。この二週間、口には気をつけてきたつもりだった。昼休みには「俺」と言い、今度は「のですが」だ。言いたいことが大事なほど、子どもの言い方に直すのが間に合わない。
母は冷蔵庫の前まで来て、黄色い紙を指でとんとんと叩いた。
「これ?」
「うん」
「サッカー、好きだったっけ」
「……すきになった」
嘘ではなかった。好きになったのが、ずっと先のことだというだけだ。
「誰かに誘われたの?」
「ううん」
「じゃあ、どうして急に」
どうして。答えは、六歳の言葉にならなかった。父がいなくなってから、と言えるはずもない。
「……ひるやすみに、やってるから」
「やってるんだ」
「うん」
やっている、と言えるほどのことは、まだ何もしていない。今日、空振りを一本しただけだ。母は「ふうん」と言って、もう一度紙に目を戻した。上から下まで、ゆっくりと。最後のほうで、目が止まった。
「お母さん、お茶当番あるみたい」
独り言のような言い方だった。紙の下のほうに、小さな字で何か書いてあるらしい。俺の背では読めなかった。
当番。そうだ。少年団は、親の手で回っている。お茶を用意して、救急箱を持って、ラインを引いて、車を出す。日曜の朝の母の時間が、俺のために削られていく。一度目の俺は、母に一度もそれをさせなかった。させなかったことが、親孝行だったわけではないけれど。
「……ごめん」
口から出ていた。
母が紙から目を離して、俺を見た。
「なんで謝るの」
答えられなかった。母は少しのあいだ黙って、俺を見下ろしていた。それから、ふっと息を吐いて、俺の頭に手を置いた。濡れた手の、冷たさが残っていた。
「お父さんにも、聞いてみようね。ごはんのときに」
母はそう言って、まな板の前に戻った。包丁の音が、また鳴りはじめた。さっきより、少しだけゆっくりだった。
俺は冷蔵庫を開けて、麦茶をコップに注いだ。手がうまく言うことを聞かず、少しこぼれた。
◇
父が帰ってきたのは、七時を少し過ぎたころだった。
玄関の戸が開く音。靴を脱ぐ音。「ただいま」は、聞こえるか聞こえないかの低さだった。父はまっすぐ洗面所に行き、手を洗う。水の音が長い。作業着の袖をまくって、ひじまで洗っているのだと、音で分かった。一度目の家でも、毎晩聞いていた音だ。あのころは、気にしたこともなかった。
父は着替えないまま、作業着で食卓についた。胸のポケットにボールペンが二本差してあって、袖口に灰色のほこりがついている。母が缶ビールを一本とコップを置いた。煮物、焼き魚、ほうれん草のおひたし。テレビでは野球の中継が流れている。父は缶を開けてコップに注ぎ、半分ほどを一息に飲んだ。
俺は茶碗を持ったまま、父を見ていた。
言わなければいけない。さっき母に言えたのだから、父にも言えるはずだ。言葉は、喉のすぐ下まで来ている。それなのに、出てこない。父がテレビに目をやるたび、魚の骨を取るたび、今だと思って、そのたびに逃した。おとうさん、と呼びかけるところまで、口は二回開いた。二回とも、ごはんを入れて閉じた。
母に言うのと、父に言うのとでは、まるで違った。母には、言えばいいだけだった。父に言うのは、一度目の俺が断ったものを、今になって拾い直すことだった。父はそんなことを知らない。知らないのに、俺のほうだけが、ひどく怖かった。
母が、ちらりと俺を見た。それから、何でもないことのように言った。
「ねえ、さく、サッカーやりたいんだって」
父の箸が、止まった。
魚の身をつまんだまま、宙で止まっている。父は母を見て、それから俺を見た。
その顔を、俺は知っていた。
一度目の、六歳の春だった。日曜の昼に、父が押し入れの奥から古いボールを出してきた。空気の抜けかけた、黒と白の、表面がひび割れたボールだった。父はそれを両手で持って、テレビの前に寝そべっていた俺の横に、しゃがんだ。
「やってみるか」
俺は、テレビから目を離さずに答えた。
「いい」
父は「そうか」と言って、ボールを押し入れに戻した。それきり父は、俺をサッカーに誘わなかった。十二歳の夏の、あの切符のほかには。
あのとき父がどんな顔をしていたのか、俺は見ていない。テレビを見ていたからだ。なのに今、それが分かる。目の前にあるのと、同じ顔だったはずだ。驚いて、期待して、期待したことを恥ずかしがって、どこかで身構えている顔。
あの日、父がボールを出してきたのは、冷蔵庫のあの紙を見たからだったのかもしれない。今になって、そう思う。
父の喉が、一度、ごくりと動いた。
「……そうか」
父が言った。
それだけだった。箸の先の魚を口に運んで、噛んで、飲みこんで、テレビのほうに顔を向けた。画面の中で、打球が高く上がり、外野手が下がって、捕った。
父はそれ以上、何も言わなかった。俺も、何も言えなかった。
言いたいことは、山のようにあった。あのとき断ったのは俺だ、とか。あの夏、一緒に行かなくてごめん、とか。どれも、六歳の口から出せる言葉ではなかった。出せたとしても、この人には何のことか分からない。この人の中では、まだ何も起きていない。俺が一人で覚えているだけだ。
一度目に父が差し出して、俺が断ったものを、今度は俺のほうから欲しいと言った。言えたのに、テーブルのこちらと向こうのあいだにあるものは、何も変わっていない気がした。父はテレビを見ている。俺は茶碗を見ている。母は、黙っておひたしを口に運んでいる。
味噌汁が、冷めかけていた。
テレビの中で誰かがホームランを打って、球場が沸いた。父は画面を見ていた。見ているようで、見ていなかったのかもしれない。箸を持っていない左手の指が、テーブルの上で、とん、とん、と小さく動いていた。
父のコップが空になった。父は缶を手に取って軽く振り、もう残っていないのを確かめると、立ち上がった。冷蔵庫を開けて、もう一本取り出す。扉を閉めたあと、父は少しのあいだ、その前に立っていた。横顔の目が、扉のいちばん下の、黄色い紙のあたりで止まっていた。母が、あら、という顔をした。
「平日でしょ」
「……ああ」
父は返事になっていない返事をして、二本目を開けた。プシュ、という音が、さっきより大きく聞こえた。
父が平日に二本目を開けるのを、俺は見たことがなかった。一度目の家でも、たぶん一度も。
母はそれ以上何も言わず、自分の茶碗に目を落とした。口もとが、少しだけゆるんでいた。
◇
夜中に、目が覚めた。
寝る前に麦茶を飲みすぎたせいで、トイレに行きたかった。布団を出て、暗い階段を一段ずつ降りる。手すりの冷たさが、手のひらに貼りついた。
居間の戸のすりガラスが、ぼんやり明るかった。テレビの音はしない。
戸の隙間から、中が見えた。居間の奥の和室の襖が開いていて、押し入れの前に、パジャマ姿の父がしゃがんでいた。膝の前に、ボールが一つ置いてある。
黒と白の、表面のひび割れたボールだった。大人用の、五号球だ。
父は空気入れの細い針を、ボールの口に差しこんでいた。針の根もとを指で押さえ、もう片方の手で、空気入れの取っ手をゆっくり押し下げる。
しゅっ。
父は手を止めて、ボールを親指で押した。へこみ具合を確かめ、首をかしげて、もう一度押し下げる。
しゅっ、しゅっ。
声をかけようとした。おとうさん、と言うだけでいい。何してるの、と訊くだけでいい。六歳の子どもなら、何も考えずにそうするだろう。
足が、廊下の床から離れなかった。
声をかけたら、父はきっと、何でもない顔をする。ボールを背中に隠すかもしれない。早く寝ろ、と言うかもしれない。父が誰にも見せないつもりでしていることを、俺が見てしまったと知られたら、それはもう、父だけのものではなくなってしまう気がした。
蛍光灯の下で、父の背中が丸くなっている。作業着で帰ってきたときより、ずっと小さく見えた。ときどき、その肩が揺れた。笑っているのか、ただ力を入れているだけなのか、ここからでは分からなかった。
廊下の床は冷たかった。裸足の指先から、冷たさがのぼってくる。トイレに行きたかったことを、俺はほとんど忘れていた。
父がもう一度、ボールを親指で押した。今度は、首をかしげなかった。
父は空気入れを畳に置いて、立ち上がった。ボールを足もとに落とす。畳の上で小さく跳ねたボールを、父は裸足の裏で止めた。
足の裏をボールに乗せて、手前に引く。転がってきたボールを、足の甲ですくい上げる。ボールは膝の高さまで浮いて、父の両手の中に、すとんと収まった。
もう一度、畳に落とす。今度は反対の足で、同じことをした。
うまかった。少なくとも、俺の目にはそう見えた。何千試合も見てきた目だ。三十四歳の、作業着を脱いだ父の足が、ボールの扱い方を覚えていた。
三度目、ボールが足の甲から少しそれて、襖に当たった。とん、と音が鳴った。父は動きを止めて、天井のほうを見上げた。二階には、俺の部屋がある。俺は息を止めた。父の目は、廊下の戸のほうには来なかった。父は、ばつの悪そうな顔で首の後ろをかいて、ボールを拾い、またしゃがんだ。
もう一度ボールを親指で押して、それから、空気入れの針を差しこんだ。まだ足りない、と思ったらしかった。
俺は、音を立てないように階段を上った。布団にもぐっても、目は冴えたままだった。トイレに行きそびれたことは、そのときになって思い出した。もう一度降りていく気には、なれなかった。
しゅっ、しゅっ。
階段の下から、空気入れの音が、まだ小さく聞こえていた。




