第2話 ぼくは、そこに立っていた
昼休みの校庭で、一年生が十三人、ひとつのボールを追いかけていた。
入学して二週間と少しがたっていた。教室の後ろのかごに入っている、空気の少し抜けた学級のボールを、誰かが蹴る。蹴った先へ、全員が走る。狙っているのは、校庭の西の端にある子ども用の小さいゴールだ。どっちのチームなのかは、たぶん誰も気にしていない。
この二週間で分かったことがある。昼休みのこの遊びには、入れてと言わなくても入れる。誰が味方で誰が敵かも決まっていないから、輪のそばに立っていれば、それで仲間だ。学校の中でボールに触れられる場所は、ここしかなかった。だから俺は毎日ここに来ている。来て、輪には入らない。
俺はその輪から七歩離れた、右の少し後ろに立っていた。朝の体育で引いた白線が、半分消えかけている。その内側だ。
十三人が左へ流れれば、右の後ろが空く。誰かが焦って蹴りそこねれば、ボールは蹴ろうとした向きの反対へ逃げる。四十年分の頭が、そう言っていた。テレビの前で何千試合も見てきた、ボールの転がり方だ。
輪の中から、砂ぼこりと甲高い声が上がり続けている。こっち、おれの、いたい。誰も前を見ていない。ボールしか見ていない。それでいい、と思う。六歳はそれでいい。俺だけが、輪の外から輪の形を見ていた。
自分で決めたこの場所に、このところ一本も来ていない。十三人の団子は、思っていたよりずっと、ボールを外に出さなかった。四月の日差しが、首の後ろに当たっている。マジックテープの運動靴の中で、足の指を動かしてみた。小さな指が、靴の中で頼りなく動いた。
「さくくん、なにしてんの」
同じクラスの男の子だった。前歯が一本ない。輪からはじき出されたのか、息を切らして、膝に手をついている。名前は知っている。呼び方だけが、まだ分からない。
「サッカー」
「してないじゃん。たってるだけじゃん」
「見てるんだよ」
「ボール、あっちだよ」
「うん。でも、たぶん、こっちに来るから」
その子はまばたきを二回して、口を開けて笑った。歯の抜けたところから、舌の先がのぞいた。
「へんなの」
「変じゃないよ。俺はね、ああいうのは、追いかけるより待ってたほうが早いと思って——」
言ってから、しまったと思った。その子は笑うのをやめて、俺の顔をじっと見た。
「おれ、だって」
「……ぼく」
「さくくん、しゃべりかた、おとうさんみたい」
そう言うと、その子はまたけらけらと笑って、輪のほうへ走って戻っていった。訊いて、要らないと思って、行く。六歳の判断は速い。
おとうさんみたい、か。
中身は、あの子の父親よりたぶん年上だ。顔が熱くなった。正体がばれたわけではない。ばれようがない。それでも、背中を冷たい汗が一筋流れた。気をつけなければいけない。この二週間、ずっとそう思ってきたのに、口はすぐに四十歳に戻ろうとする。
六歳の自分がどんな言葉でしゃべっていたのか、俺は覚えていない。だから一言ごとに、頭の中で子どもの言い方に直してから口に出す。直しているうちに、たいてい相手はもう別の話をしている。
かたまりが崩れた。
誰かが強く蹴った。つま先に当たったのか、ボールは前ではなく、斜め後ろへ浮いた。人の頭より少し低いところを、ぐらつきながら飛んでくる。右の、後ろ。こっちだ。胃のあたりが、すっと軽くなった。合っていた。落ちる場所も、そこに誰もいないことも。
ボールは俺の二歩手前で一度はねて、勢いを落としながら右へ転がった。俺の体の前を、左から右へ横切っていく。
ゴールは左の前だ。右足の内側の、平らなところで当てればいい。転がってくる力を、左へ向け直すだけだ。膝を軽く曲げ、左の軸足をボールの横に置いて、右のつま先を外へ開く。頭の中では、もう蹴り終わっていた。網のないゴールの、左の隅。
当たらなかった。
軸足が、ボール一個ぶん遠かった。届かせようとして伸ばした右足の、開いたはずのつま先が、当たる瞬間に閉じていた。膝の裏が突っぱって、それ以上は曲がらなかった。靴の先が土を削り、細い溝ができる。ボールはその溝のすぐ先を、何もなかったように転がっていき、白線を越えて、フェンスのほうへ逃げていった。
足を振った形のまま、俺は片足で立っていた。右の靴のつま先が白く汚れて、土が少し詰まっていた。
誰も見ていなかった。フェンスの前でボールを拾った子のほうへ、十三人はもう走っている。笑われもしないし、怒られもしない。それが、いちばんこたえた。顔は熱いのに、喉の奥だけが冷たかった。俺は靴の裏で、自分がつけた溝をこすって消した。消しても、誰も見ていないのは同じだった。
悔しかった。四十年生きてきて、こんなことで、こんなに悔しいのかと思うくらい、悔しかった。
見えている。全部、見えているのに。
体だけが、六歳だった。
◇
そのあと、ボールは一度も来なかった。
俺は白線の内側の同じ場所に戻って、昼休みが終わるまでそこに立っていた。この場所に決めるまでにも、いくつか試した。最初は、ゴールの横に立った。ボールは最後には、必ずそこへ行く。行ったが、ボールより先に十三人が来た。俺はゴールの柱にしがみついたまま団子に呑まれて、誰かの膝でゴールの裏まで押し出された。次は、輪のすぐそばで、輪と一緒に動いてみた。輪は、六歳の足より速く形を変えた。こぼれたボールには、いつも輪の端の子のほうが一歩近かった。
それで、数えた。輪の端の子は、みんなゴールのほうを向いている。後ろへ逃げたボールには、振り向くぶんだけ遅れる。数えた日には、そういうボールが昼休みに一本ずつあった。その一本に、振り向いた子より先に着ける場所が、右の後ろの七歩だった。
決めてから、さっきのが初めての一本だった。何日か数えただけで決めたのが、早すぎたのかもしれない。それでも、輪の中に入って、十三人の足のあいだでボールに触れるとは思えなかった。ここにいれば、もう一度来るかもしれない。そう思って待って、来なかった。輪は左へ流れ、右へ流れ、ゴールの前で団子になって、誰かのすねに当たったボールが枠の中に転がりこんだ。わあっと声が上がり、入れた子が両手を挙げて走り回った。
昼休みの終わりのチャイムが鳴ると、十三人はいっせいに水飲み場へ走った。
俺は、最後に並んだ。
校舎の脇の水飲み場には、蛇口が六つ並んでいる。前の子たちは、飲むより先に、指で蛇口の口をふさいで水を飛ばし合っていた。きゃあ、と声が上がる。濡れた子が濡らした子を追いかけ、追いかけられた子が、また別の子を濡らす。前歯のない子もその中にいた。シャツの胸をびしょびしょにして、腹を抱えて笑っている。
何がそんなに面白いのか、分からなかった。
分からないことが、少し寂しかった。一度目の六歳の俺は、たぶんあの中にいた。あの中で、ああやって笑っていたはずだ。覚えていないだけで。
前歯のない子の名前は、出席番号の順に覚えた。一度目の俺は、この子と仲がよかったのだろうか。思い出せなかった。四十年のあいだに、六歳のころの友だちの顔は、一人残らず抜け落ちていた。
前が空いた。蛇口をひねって、口をつける。春の日に当たった管を通ってきた水は、ぬるくて、かすかに鉄の味がした。それでも、飲むと息が戻ってきた。走ってもいないのに、喉が渇いていた。
顔を上げると、汗で湿ったシャツの背中に、四月の風が当たって冷たかった。
前の子たちは、もう校舎のほうへ駆けていく。濡れた背中が、日に光っている。誰も、俺には水をかけなかった。
みんながいなくなった水飲み場で、俺はもう一度蛇口をひねった。人差し指で、蛇口の口を半分ふさいでみる。
水が、扇の形に飛び散った。思っていたより勢いがあって、半分は自分の袖にかかった。残りはコンクリートの上に細かく散らばって、日の光を受け、一瞬だけ、小さな虹ができた。
きれいだった。
四十年生きてきて、こんなものを見るために足を止めたことは、たぶん一度もない。袖が冷たい。その冷たさが少しおかしくて、俺は一人で、少しだけ笑った。笑ってから、一緒に笑う相手がどこにもいないことに気づいた。
蛇口を閉めた。最後の一滴が、ステンレスの流しに落ちて、小さな音を立てた。
「三上くん、チャイム鳴ったよ。教室に入ろうね」
校舎の入口で、担任の田村先生が手を叩いていた。俺は濡れた袖を体の後ろに隠して、走った。
◇
夕方、自分の部屋の床に座って、昼休みの一本を頭の中で巻き戻した。
ボールが浮く。二歩手前ではねる。右へ転がる。左足を置く。——ここだ。ここで、もうボール一個ぶん遠い。
もう一度、巻き戻す。何度巻き戻しても、同じところで同じことが起きる。
理屈は、全部分かっている。軸足をどこに置けばいいか。膝をどれくらい曲げればいいか。足首をどう固めればいいか。何百本も映像で見て、何十冊も本で読んで、人に説明までしてきた。
分からないのは、足のほうだ。足が、知らない。
どれくらいの強さで踏みこめば、軸足がボールの横にちょうど止まるのか。転がってくるボールが、どのくらいの速さで、いつ自分の足もとに届くのか。そういうことは、本にも映像にも書いていなかった。書きようがない。蹴った回数だけ、足が覚えることだからだ。
そして俺の足は、まだ何も覚えていない。四十年分の頭の下に、六年分の、それもほとんど何も蹴ってこなかった足がついている。
机の上に、作りかけの、電池で走る小さな車の模型が転がっていた。青いボディに、シールが半分だけ貼ってある。一度目の俺が、この春に夢中になっていたものだ。そんなことは、すっかり忘れていた。
手に取って、外れかけたタイヤをはめ直した。小さな部品が、小さな指にぴたりと収まる。この手は、こういうものを組み立てるのに、ちょうどいい大きさにできていた。
防災無線のスピーカーから、夕方五時のチャイムが流れてきた。少し音の割れた、ゆっくりした曲だった。窓の外で、自転車のブレーキがきいと鳴り、どこかの家の子が「ただいま」と叫んだ。
俺は、右手の指を一本ずつ折りはじめた。
一九九七、一九九八、一九九九、二〇〇〇、二〇〇一。右手が終わる。左手に移る。二〇〇二、二〇〇三、二〇〇四、二〇〇五、二〇〇六。両手が、握りこぶしになった。
あの試合まで。
二〇一八年の夏、ロストフという町で、日本は先に二点を取り、そこから三点を返されて負けた。最後の一点は、試合が終わる数秒前だった。俺はその試合を、一人の部屋で観た。テレビの前で、立ち上がることもできなかった。
その夏、俺は二十八になっている。あの夜、芝に膝をついていた選手たちと、そう変わらない年だ。
今度は、テレビの前ではなく、あの芝の上にいたい。あの最後の数秒に、自分の足が届くところに。
あの年は、父がいなくなった年でもある。
こぶしを開いて、もう一度、右手から折る。二〇〇七、二〇〇八、二〇〇九……。二〇一六で、また両手がこぶしになった。
二十二年。両手を二回使っても、まだ足りない。
長いのか短いのか、分からなかった。六歳の体には、気の遠くなるような長さだ。四十年生きた頭は、それがあっという間に過ぎることを知っている。今日の一本も満足に蹴れない足で、そこまでに何ができるのか。
怖かった。二十二年は長い。けれど一度目の四十年だって、始まる前は長かったはずだ。気がついたら、四十になっていた。気がついたら、父はいなかった。
握ったこぶしを、膝の上に置いた。昼休みに突っぱった膝の裏が、まだ少し、こわばっている気がした。
喉が渇いて、台所へ降りた。
母は流しの前で、夕飯の支度をしていた。まな板の上で、包丁が規則正しく鳴っている。俺は冷蔵庫の前に立って、扉を開けようとして、手を止めた。
扉には、学校からのお知らせが、磁石で何枚も留めてある。給食の献立表、学級だより、交通安全の注意。帰りの会で配られた紙を、俺は中も見ずにランドセルに入れていた。母が出して、貼ったのだろう。
その一番下に、今日、紙が一枚増えていた。
黄色い紙だった。へたくそな絵で、男の子がボールを蹴っていた。




