第1話 やっておけばよかった
試合終了の笛が鳴ると、画面の中の青いユニフォームが、一人、また一人と芝にしゃがみこんだ。
一点差だった。延長まで戦って、日本は準々決勝で負けた。実況の声が、さっきまでとは違う低さで選手たちをたたえている。胸を張っていい、と繰り返されるたびに、負けたことのほうがはっきりしていく。
俺はローテーブルのノートパソコンを引き寄せた。
週末に上げる動画のために、見返す場面の時間だけを打っておく。前半の三十一分。後半の十八分。延長に入ってからの、右の奥。指は勝手に動いた。十年以上、毎週こうしてきた。負けた夜ほど、指は速くなる。手を止めると、別のことを考えてしまうからだ。
部屋の明かりはつけていなかった。テレビの光が、天井と壁を白く塗っては、また色を変える。缶ビールは半分残ったまま、すっかりぬるくなっていた。窓の外のどこかで、まだ誰かが大きな声を出している。同じ試合を観ていた、顔も知らない誰かだ。
四十にもなって、一人の部屋で、知らない誰かと同じ場面で声を上げている。
中継が、スタジアムの外の映像に切り替わった。俺は画面から目をそらして、テレビの横の棚を見た。
いちばん下の段に、背の厚いファイルが三冊と、ビデオテープが十数本並んでいる。ファイルの背は古いセロハンテープで補強してあって、そのテープが黄色く変わり、角がめくれていた。ビデオのラベルには、日付と対戦相手が、角ばった几帳面な字で書いてある。
どれも、父の字だ。
父が死んで、十二年になる。
その十二年、俺は毎週サッカーを観てきた。選手の走った線を引き、パスの角度を数え、子どもの育て方の本を何十冊も読んだ。訊かれれば、どんな試合でも一時間は話せる。
それなのに、自分でボールを蹴ったことは、ほとんどない。体育の授業で順番が来たから蹴った。それくらいだ。父と並んで試合を観たことも、一度もなかった。
思い出すのは、いつも同じ夜だった。
十二歳の夏だ。仕事から帰ってきた父が、ネクタイもゆるめないまま、白い封筒をテーブルに置いた。日韓大会の、日本の試合の切符だった。申し込んだら当たったのだと、父は少し早口で言った。
「……行くか」
俺はゲームの画面から、顔も上げなかった。
「いい」
父は少し黙って、「そうか」とだけ言った。封筒は、そのまま父の鞄に戻った。あの切符で父が誰と行ったのか、一人で行ったのか、俺は訊かなかった。訊かないうちに、父はいなくなった。
やっておけばよかった、と思う。
蹴っておけばよかった。あの夜、行くと言っておけばよかった。思うたびに、もう遅い年になっている。四十年分のそれが、俺のいちばん底のほうに、泥のように沈んでいる。
「……やっておけばよかったな」
声に出すと、暗い部屋で、自分の声だけが妙に大きかった。返事はない。テレビの中では、まだ誰かが泣いていた。
リモコンを探して、見つからないまま、俺はソファに横になった。テレビを消さなきゃいけない。缶も片づけなきゃいけない。そう思ったのが、最後だった。
◇
天井の木目に、見覚えがあった。
右の隅に、茶色いしみがある。人の横顔のように見えるしみだ。子どものころ、眠れない夜に、俺はあれをずっと見ていた。それが、真上にあった。
いつもの癖で、枕もとに手を伸ばした。電話がない。指先が、ざらついた壁に触れた。
体を起こそうとして、布団の重さに驚いた。押しのけた手を見て、息が止まった。
小さい。指が短く、爪が小さく、甲がふっくらと丸い。握って、開く。言うことは聞く。ただ、思っていたよりずっと小さく閉じる。四十年使ってきた手ではなかった。
夢だ、と思った。そう思おうとした。けれど、夢にしては布団の重さも、喉の渇きも、はっきりしすぎていた。
ベッドの脇に、学習机があった。その上に、黒いランドセルが置いてある。かぶせの金具が、カーテンの隙間から入る光を受けて光っていた。部屋の中に、新しい革とビニールの匂いがした。
カーテンを指で少しだけ開けた。向かいに家はなかった。背の高い枯れ草の残る空き地が広がり、その先に田んぼが続いて、ずっと遠くに鉄塔が立っている。俺が大人になるころには、あの空き地には家が並び、角にはコンビニができているはずだった。その全部が、まだ、なかった。
「さく、起きなさい。今日、入学式でしょ」
一階から、声がした。
母の声だった。若い。張りがあって、少し早口で、語尾が上がる。
俺はベッドから降りた。床が近い。階段の手すりが、胸の高さにある。一段ずつ、両足をそろえて降りた。動くのが、かえって怖かった。動けば動くほど、これが本当になっていく気がした。
洗面所の鏡は、高いところにあった。足もとに、木の踏み台がある。乗ると、きし、と鳴った。
鏡の中に、子どもがいた。
寝ぐせで、頭の右側だけがつぶれている。目が大きくて、首が細い。アルバムの最初のほうでしか見たことのない顔が、口を半分開けて、こちらを見ていた。頬に触ると、鏡の子も触った。指が沈むほど柔らかかった。
まばたきをするのが怖かった。目を閉じて、開けたら、あのソファの上に戻っているかもしれない。戻っていないかもしれない。どちらが怖いのか、自分でも分からなかった。
洗面所の外の柱に、薬局でもらったカレンダーが掛かっていた。上に大きく、一九九六、と刷ってある。四月。桜の写真の下に並んだ日付の、八のところに、母の丸い字で「さく 入学式」と書いてあった。
居間のほうから、テレビの声が聞こえた。
「四月八日、月曜日です。おはようございます」
朝の番組だった。三十年以上前に毎朝聞いていた声が、当たり前の調子で、今日の天気を読み上げている。
一九九六年。俺は、六歳だった。
なぜ、と思った。答えは、どこからも来なかった。
◇
居間の戸を開けると、味噌汁の匂いがした。
テーブルに茶碗が三つ並んでいる。台所で、母がこちらに背を向けて何かを刻んでいた。
そして、テレビの前に、父が立っていた。
白いワイシャツに、紺のネクタイ。上着はまだ着ていない。黒いカメラを手に持って、裏蓋のあたりを親指でなぞっていた。フィルムがちゃんと入っているか、確かめているのだろう。眉のあいだに、小さなしわを寄せて。
若かった。
髪が黒い。首が太い。まくったシャツの袖から出た腕に、日焼けの境目がくっきりある。三十四歳の父だ。俺が最後に見たときより、二十以上も若い。
足が、敷居の上で止まった。
動けなかった。声も出なかった。喉の奥に、何か固いものがつかえていた。
父が顔を上げた。
「なんだ、寝ぼけてるのか」
低くて、少しかすれた声だった。語尾が短い。この声を、俺は十二年、聞いていなかった。
父はそれ以上何も言わず、カメラに目を戻した。
「ほら、早く着替えて、ごはん食べちゃいなさい」
母が振り向いた。エプロンの下に、薄い桃色のスーツを着ている。髪をきちんとまとめていて、口紅がいつもより赤い。
「お父さん、今日、半日お休み取ってくれたんだからね。遅れたら怒られるよ」
「怒らないよ」
「怒らなくても、困った顔するでしょ」
父は、困った顔をした。母が笑った。
俺は椅子によじのぼるようにして座った。味噌汁の湯気が顔に当たる。豆腐とわかめ。箸を持つと、指が箸の長さに負けていた。一口すすった。熱くて、少ししょっぱくて、母の味だった。
向かいに、父が座った。カメラを茶碗の横に置き、新聞を広げる。広げた新聞の上から、ときどき、こちらを見る。俺はそのたびに目を伏せた。
まともに見たら、だめになると思った。
俺が最後に見た父の顔は、乾いた土のような色をしていた。頬がこけて、目ばかりが大きくて、笑うと口のまわりの皮膚が足りなくなるみたいだった。
新聞の陰にある顔は、違う。頬に赤みがあって、あごにひげの剃り残しがあって、目の下にうっすらと寝不足のくまがある。普通の、元気な、三十四歳の男の顔だ。
それだけのことで、胸が詰まった。味噌汁の味が、分からなくなった。
食べ終えると、母が着替えを手伝ってくれた。白い丸襟のシャツに、紺の半ズボンと上着。最後に、二階から持ってきたランドセルを背負わせてくれた。何も入っていないのに、肩ひもが鎖骨に食いこんだ。
「似合う似合う。ほら、お父さん」
「ああ」
父はカメラを持って、先に玄関を出た。
家の前の道で、父がカメラを構えた。俺は門の前に立たされ、母が横から帽子のつばの角度を直した。四月の朝の空気は、まだ少し冷たい。隣の家の花壇で、チューリップが首を伸ばしていた。
「ほら、こっち見ろ」
父が言った。
レンズは黒くて丸い。そこを見ればいいことは分かっていた。四十年生きてきたのだから、写真の撮られ方くらい知っている。
なのに俺は、レンズの上の、父の顔を見ていた。
片目をつぶって、もう片方の目をファインダーに押しつけている。カメラを支える右手の人差し指が、シャッターの上で、押す瞬間を待っている。爪は短く切ってあって、指の節に小さな傷の痕があった。仕事でついた傷だろう。この指が少しずつ細くなっていくのを、一度目の俺は、遠くからしか見なかった。
生きている。
この人は、生きている。
視界がにじんだ。まばたきをすると、熱いものが頬を伝った。止めようとしても止まらなかった。喉が勝手にひくついて、肩が上下した。
「あら」
母がしゃがんで、俺の顔をのぞきこんだ。それから笑った。
「緊張してるの? 大丈夫よ、みんな初めてなんだから」
違う、と言いたかった。言えなかった。何をどう言っても、この人たちには届かない言葉しか、俺は持っていない。
父がファインダーから顔を離した。困った顔をしていた。さっき母にからかわれたときと、同じ顔だった。口を開いて、閉じて、それから、ぶっきらぼうに言った。
「泣くな。写真、撮るぞ」
それだけだった。父はもう一度、カメラを構えた。
俺は手の甲で目をこすって、レンズを見た。見ようとした。シャッターの音がして、フィルムを巻く、じい、という小さな音が続いた。
その写真に自分がどんな顔で写ったのか、俺はまだ知らない。
◇
入学式は体育館で、思っていたより長かった。
校長先生の話も、来賓の挨拶も、ほとんど耳に入らなかった。パイプ椅子に座った足が、床に届かない。後ろの保護者席のどこかに父と母がいることだけを、背中で感じていた。
帰りは、三人で歩いた。
校門を出て、校庭のフェンスに沿って歩く。その先は、田んぼの中の一本道だった。まだ水の入っていない田んぼに、れんげが薄紫に咲いている。用水路のそばの桜が、満開に近かった。風が吹くたびに、花びらが田んぼのほうへ流れていった。
父は少し前を歩いていた。上着の背中に、座っていたときのしわが一本、斜めに入っている。母は俺の手を引いていた。母の手は、思っていたよりずっと大きかった。
フェンスの向こうに、校庭が見えた。
土の校庭のいちばん奥、野球のバックネットの横に、サッカーゴールが立っていた。白いペンキがところどころはげて、錆の色がのぞいている。網は張っていない。枠だけが、春の光の中にぽつんと立っていた。
一度目のこの日も、俺はこの道を歩いたはずだ。同じように母に手を引かれ、同じように父の背中を見て。
なのに、あのゴールを見た覚えがない。見えていたはずなのに、見ていなかった。六歳の俺にとって、あれは校庭の隅にある、ただの白い枠だった。そのあとの四十年も、俺はずっと同じだった。誰かが蹴るのを見て、誰かが勝つのを見て、誰かが泣くのを見た。自分は、いつも枠の外にいた。
前を歩く父の背中を見た。
今度は、やる。
口の中だけで言った。声にはしなかった。六歳の口から出すには、重すぎる言葉だった。
「さく、どうしたの。疲れた?」
母が手を引いた。俺は首を振って、歩き出した。
数歩行ってから、もう一度だけ振り返った。白い枠は、田んぼの向こうで、さっきより小さくなっていた。それでも、ちゃんと見えた。
前を歩いていた父が、立ち止まってこちらを見ていた。
「どうした」
「……なんでもない」
俺は母の手を離して、父の背中のほうへ走った。肩の後ろでランドセルが跳ねて、金具が、かちゃかちゃと鳴った。




