第56話 端にいろ
四月十九日の日曜日も、高学年のコートに入った。
一週間、考えていた。見てから離していては間に合わない。だったら、もっと早く離せばいい。受ける前に周りを見て、受けたらすぐに出す。足の内側で一回触れたら、もうボールは足もとにない。それから、人のいるところに立たない。五年生や六年生のそばにいなければ、肩は届かない。
家の塀でも、その形をやった。塀から戻ってくる四号球を止めずに、右足の内側で一回だけ触って、左の電柱のほうへ流す。流したらボールを拾いに走って、また塀の前に戻る。止めないで触ると、重いボールは足の内側に当たった角度のまま素直に転がっていった。母が窓から「さく、ごはん」と呼ぶまで、それを続けた。
練習の最後の四人と四人で、それをやった。
ボールが来た。来る前に、首を振って二回見た。一回目で寄せてくる六年生の場所を、二回目で味方の五年生の場所を。受けた足で、そのまま横へ流す。ボールは五年生の足もとに収まった。寄せてきた六年生の靴が、俺の横の土をこすった。肩はどこにも当たらなかった。
次もそうした。来る前に見て、一回で離す。離したら、人のいないほうへ下がる。三歩、四歩。そこで次を待つ。
パスは通った。肩にも背中にも、何も当たっていない。これなら、と思った。
そのうちに、ボールが来なくなった。五年生たちは前を向いてボールを持つと、近くの五年生に出した。俺のいるところは、誰の近くでもなかった。四角の隅で、俺は首を振りつづけた。振るたびに、ボールはいつも俺から遠いところにあった。
「おい」
低い声がした。味方の五年生だった。腰に手を当てて、こっちを見ている。背は石井ほど高くないのに、胸が厚い。肩の幅がそのまま腰まで落ちてくるような体つきで、さっきから相手の六年生に何度も正面から当たっていた。当たられた六年生のほうがよろけるのを、俺は何度か見ていた。監督には「野口」と呼ばれていた。
野口は顎を横へしゃくった。四角い、よく張った顎だった。先のところに、白く小さな傷の跡がある。顎の先は、四角のいちばん端のコーンとコーンを結んだあたりを指していた。
「ちびは、端にいろ」
低くて、ざらざらした声だった。三年生の教室で聞くどの声とも違った。
野口はもうボールを追って、四角の真ん中へ戻っていた。
顎の向いていた先を、もう一度見た。コーンの向こうは、誰も走っていない土だった。俺はコーンのきわまで下がった。
そこからは、四角の中が全部見えた。見えるのに、どこにも俺の足は届かなかった。
言い返す言葉は浮かばなかった。それに、端なら当たらない。俺がこの一週間考えてきた場所を、野口の顎が先に指していた。
四角の反対の端では、蓮が六年生にぶつかっていた。ぶつかって、弾かれて、土の上を転がる。転がりながら笑って、次の瞬間には、また同じ六年生の前にいる。蓮の肘にも膝にも、土の色がついていた。
「いってえ! もう一回!」
高学年の低い声のあいだで、蓮の声だけが高かった。六年生の一人が「あの三年、まだ来るぞ」と言った。そう言った六年生の目は笑っていた。
蓮は四月生まれだ。弾かれても、転がるだけで済む体だった。俺が同じことをしたら、と考えただけで、先週の尻の骨が鈍く思い出された。コーンの横で、片方のかかとを上げて下ろした。
練習が終わるまで、俺は四角の端にいた。誰も俺に当たらなかった。肩にも背中にも、何も来ない。それなのに、十二月の紅白戦のときのようには体が温まってこなかった。
◇
その週の体育は、ラインサッカーだった。
石灰で引いた細長い四角の中で、五人と五人が蹴る。残りの子は横の線の上に、赤と白が一人おきに並んだ。
「線の上のやつは、足で中へ返すだけだ。向こうの端の線を越えたら一点」
脇でひもを結ぶ赤い布のゼッケンを、俺と蓮が着けた。
最初のボールは俺のところへ来た。白のゼッケンの子が寄ってくる前に、横の線の上へ出した。線の上にいたのは、背の順でいちばん前の眼鏡の子だった。その子は両手を胸の前で縮めたまま片足を出した。ボールは靴の横に当たって、中へ戻ってきた。
それを一回で前へ流す。走りこんだ蓮は止まらずに、白を二人押しのけてボールごと向こうの線を越えた。
「さく! いまの、もう一回!」
宮本先生が「三上、出すの早いな」と言った。眼鏡の子はボールの当たった自分の靴の横を見ていた。寄せてくる子の足は、そのたびにボールのなくなった土を蹴った。
体育倉庫の戸のすきまから、日曜の四角を囲む赤いコーンが重なってのぞいていた。
◇
四月二十九日、みどりの日の練習では、高学年の紅白戦に入った。
黄色のビブスを頭からかぶると、裾が膝の上まで来た。五年生の誰かのお下がりらしく、首のところが伸びている。蓮は水色の組だった。
石井が黄色の組を見回して、場所を決めていった。六年生から順に、指で一人ずつ。俺の番は最後で、石井の指は俺の上には来なかった。好きなところにいろ、ということらしかった。
俺は最初から端に立った。
黄色の組の右の端。白線のすぐ内側。先週、野口の顎が指した線のきわだ。そこなら誰も来ない。笛が鳴る前から、それは分かっていた。
笛が鳴った。試合は、俺の前を通り過ぎていった。肩と肩がぶつかる音も、こぼれたボールに寄っていく足音も、全部が俺の立っている線から四、五歩内側で起きていた。俺のところまでは、何も届かなかった。白線の後ろの藤棚で、太った黒い蜂が低くうなっていた。真ん中の声より、その羽音のほうが近かった。
蓮は真ん中にいた。水色のビブスで、弾かれて、転がって、また寄っていく。蓮のいるところには、いつもボールがあった。
前半の終わり近くに、黄色の組がボールを奪った。拾ったのは航だった。航は顔を上げた。
「朔!」
航の目は、たしかに右の端の俺に向いていた。
呼ばれた瞬間、膝が勝手に曲がった。曲がっただけで、足は前へ出なかった。
航の足もとから俺までのあいだに、水色の五年生が一人立っていた。俺が一歩内側に入っていれば、その脇に一本だけ、細い道ができていたはずだった。俺は一歩も動いていなかった。
航は一瞬だけ俺を見て、足の裏でボールを止めたまま待った。それから体の向きを変えて、反対側の六年生に出した。ボールはそのまま前へ運ばれていって、俺の前からまた遠くなった。
後半、真ん中を運んでくる石井の正面に、蓮がいたことがあった。蓮は体ごと右足を突き出して、ボールを石井の足もとからつついた。次の瞬間には石井の胸に当たって、あおむけに転がっていた。石井はこぼれたボールを、振り返りもせずにもう一度足もとへ収めた。
一度、こぼれたボールが俺のすぐ前で止まりかけた。
真ん中から野口が来ていた。反対からは、水色の六年生が来ていた。俺のほうが近い。二人より先に着ける。着いたら、そのあとは——。
かかとが、土から離れなかった。
野口と六年生がボールの上でぶつかった。鈍い音がして、ボールは二人の足のあいだから真ん中へ戻っていった。野口の背中が俺の目の前で一度大きく揺れて、すぐにまた走りだした。俺は線のきわに立ったまま、両手を体の横で握っていた。
向こうのゴールの前で、短い歓声が上がった。手を挙げていたのは、水色のビブスだった。
終わりの笛が鳴った。監督が「集まれ」と短く言った。
五年生たちがビブスを脱ぎながら集まってくる。俺もビブスの裾をつかんで、頭から抜こうとした。その手が途中で止まった。
周りでは、五年生や六年生が息を切らして膝に手をついていた。どの背中も大きく波打っている。俺の息はどこも乱れていなかった。
足もとを見た。白に赤い線の靴は、朝、家を出たときのままだった。つま先に土の汚れがない。靴の縁には、白線の外の誰も踏んでいない土の色をした砂が、うっすらついているだけだった。きょう、この靴はボールに触れていない。
端に立てと言われたのは、たしかだった。でも、白線のきわに立ちつづけたのは俺の足だった。航が呼んだとき、一歩内側に入らなかったのも、俺の足だった。小さな選手が大きな守り手より先に着いて、相手とボールのあいだに体を入れる映像なら、一度目の人生で何度も止めて見た。その置き方を、きょうの俺は一度も選ばなかった。
ビブスを脱いだ。首の伸びたところが、耳に引っかかった。
◇
帰り道は蓮と二人だった。
昼前の道に、どこかの家の台所から魚を焼く匂いが流れてきた。蓮は歩きながら、さっきの紅白戦の話をしていた。体操着の背中に、誰かの手の形の土が一つ、くっきりついていた。
「六年のでっかいの、いるじゃん。キャプテン。何回も、とばされた」
蓮は両手で自分の胸を突いて、後ろへよろけてみせた。
「でも一回、ボール取った。見た?」
「見た。キャプテンの足から、つついた」
「でしょ! こう、足出して、ばしって」
蓮は道の真ん中で、右足を前へ突き出してみせた。突き出した右の膝が、すりむけていた。
皮がめくれたところに土が入りこんで、まわりが黒っぽくなっている。真ん中から赤いものがにじんで、すねのほうへ細く一本、筋になって固まりかけていた。
「蓮、ひざ」
「ん? あ、ほんとだ」
蓮は自分の膝に目をやって、指でつついた。
「いて。……いつだろ。わかんない」
人差し指をなめて、傷のまわりの土をこする。こすったところだけ、肌の色が出た。
「しみる!」
蓮は片足で跳ねて、それから笑った。蓮の靴は白いところが残っていないくらい、つま先からかかとまで土の色になっていた。
蓮はすぐに、また紅白戦の話に戻った。航が「やるじゃん」と言ったこと。来週はもっと取りたいこと。そこまで言ってから、急に思い出したようにこっちを向いた。
「あした体育、ラインのやつだったら、おれ、さくと同じチームがいい。さく、パスくれるから」
蓮は当たり前のことのように言って、また前を向いた。俺はナップザックの肩ひもを握り直した。肩ひもの布が指の腹にざらついた。
「来週も高学年、行こうな!」
「……うん」
歩きながら、自分の膝を見下ろした。
半ズボンの裾から交互に出てくる膝は、どちらも白かった。すり傷も、土の色も、血の筋もない。片手でなでると、つるりとして、ひんやりしていた。
隣で前へ出る蓮の膝の、黒っぽい土と赤い一本の筋が、俺の白い膝の上に重なって見えた。




