第57話 図書室の本
図書室の戸は、引くとレールが低く鳴った。
五月一日、金曜日の昼休みだった。給食の食器を返してすぐ、一人で廊下をいちばん端まで歩いてきた。校庭からは、ドッジボールの声と、ボールが地面を打つ音が聞こえてくる。蓮はそっちにいるはずだった。教室を出るときに「さく、ドッジ!」と誘われた。「あとで」と答えると、蓮は「早くな!」と叫んで、階段を一段とばしで下りていった。
中には、六年生の図書委員が二人と、窓際で本を広げている女の子が一人いるだけだった。女の子がページをめくる音が、部屋の奥まで聞こえた。
図鑑の棚の隣に、背に白いシールを貼った本が並んでいた。シールには数字が書いてある。動物、植物、星、虫。指で背をたどりながら、棚を一段ずつ下へ見ていった。いちばん下の段の端に、人の体の本が何冊かまとまっていた。
骨の写真が表紙の本は、字が細かすぎた。病気の本は母に見せる本ではない。三冊目を抜いたところで、手が止まった。
『じょうぶな からだの ひみつ』
背の赤い色が日に焼けて、桃色に近くなっていた。表紙には、ご飯を食べる子どもと布団で眠る子どもと走る子どもの絵が、三つ並んでいる。開くと、どのページも半分以上が写真か絵で、字は大きなひらがなと三年生で習うくらいの漢字だった。
しゃがんだまま、ページをめくった。長いあいだ誰も開かなかったらしく、背がぱりっと乾いた音を立てた。
「ねむる」のページには、布団で眠る子どもの絵があった。月と時計の絵が添えてある。
ねむっている あいだに、からだを 大きくする ものが 出ます。
「たべる」のページには、茶碗と味噌汁と焼き魚と牛乳の写真。朝ごはんを食べないと、頭も体も目をさましません、と書いてある。「うごく」のページには、子どもの絵が順番に並んでいた。片足で立つ子。しゃがんでから立ち上がる子。友だちに足首を持ってもらって、手で歩く子。
知っていることの、半分くらいだった。残りの半分は、この本には載っていない。それでよかった。どこで聞いたのかと訊かれても、この本を見せればいい。
これなら、母に見せられる。
大人の頭で子どもの本を選んで、言いわけの代わりにする。そう思うと、どこか後ろめたかった。それでも、本を棚に戻す気にはならなかった。
本を持ってカウンターへ行った。裏表紙の内側に茶色い紙のポケットが貼ってあって、細長いカードが差してある。カードを抜くと、前に借りた人の名前が三つ、鉛筆とボールペンで書いてあった。いちばん新しい名前の横の日付でも、二年前の秋だった。鉛筆の字はこすれて薄くなっている。
その下の空いている欄に、「3年1組 三上さく」と書いた。
図書委員の六年生が、ゴム印をインクの台に押しつけて、カードの横の欄に返す日を押した。五月十五日。
「二週間ね。遅れたら、だめだよ」
「……はい」
本を胸に抱えて廊下に出た。表紙の紙が、端のところでめくれかけていた。階段の窓から、校庭が見えた。蓮がドッジボールの外野で、両手を挙げて何か叫んでいた。
◇
五月四日の月曜日は、振替休日だった。
朝から曇っていて、昼前から霧のような雨が降りはじめた。傘をさすほどでもないのに、窓ガラスの外側が、いつのまにか細かい粒でびっしり白くなっている。月曜日だから、どのみち塀の前には出ない。
台所で、母が昼の焼きそばのキャベツを切っていた。
「おかあさん」
「なあに?」
図書室の本を開いて、流しの横の台に置いた。「たべる」のページ。茶碗と味噌汁と、焼き魚と牛乳の写真。
「朝ごはん、もうすこし食べたい」
母が包丁を止めた。
「練習のあとに、おにぎり」
「あら」
母は本をのぞきこんだ。濡れた手を前かけで拭いて、ページを一枚めくる。次のページには、走り終えた子どもが、木の下でおにぎりを食べている絵があった。
母はそれを見てから顔を上げた。どこで見つけたのとも、どうしてとも、訊かなかった。
「中に、なにか入れる?」
「……しおだけで、いい」
母の目は台所の棚のほうへ行った。米びつと、海苔の缶と、アルミホイルの箱が並んでいる段だった。母はしばらくその段を見て、それから包丁を持ち直した。
キャベツを切る音が、また始まった。
昼過ぎに、呼び鈴が鳴った。
岳だった。黄色い合羽のフードを頭にかぶって、玄関の外に立っている。合羽の肩に、細かい雨の粒が白く光っていた。
「……公園、ぬれてる」
「うん」
「……だから、来た」
岳は合羽を脱いで、玄関でていねいにたたんだ。
居間のカーペットの上で、図書室の本を開いた。岳はすぐに「うごく」のページを見つけて、指でさした。
「……これ、やる?」
「やる」
やる、と答えてから、月曜日だということが引っかかった。二年生のころから、月曜日は何もしない日にしてある。体を休ませる日だ。でも、本の「うごく」のページには、まいにち、と書いてあった。片足で立つのも、しゃがんで立つのも、ボールを蹴るのとは使うところが違う。だから、決め直した。月曜日は、ボールを蹴らない日。本の体操は、月曜もやる。
まず、片足で立った。本の絵のとおりに両手を横に広げて、片方の膝を上げる。岳はすぐにぐらついて、上げた足を床についた。俺も目を閉じると、十も数えないうちに体が傾いた。目を開けたまま、二人で窓のほうを向いて立った。窓の外の霧雨が、隣の家の屋根をぼんやりかすませていた。
次は、しゃがんでから立つ。十回。岳は七回目あたりから、立ち上がるたびに「……ん」と声をもらした。
最後が、手押し車だった。
「……さく、先」
俺は両手をカーペットについて、うつ伏せになった。岳が後ろから、俺の足首を両手でつかんで持ち上げる。足が床から浮いたとたん、体の重さが全部腕に来た。
重かった。
自分の体がこんなに重いとは、思っていなかった。肘が震える。右の手を前に出すと、左の腕一本で体を支えることになって、肩がきしんだ。手のひらの下で、カーペットの毛足がつぶれてちくちくした。
「……いち。……に」
岳が数える。三歩目で、肘が折れた。顎がカーペットに着いて、毛足の埃っぽい匂いがした。
「さく、テーブル、ぶつけないでよ。カーペットの上だけね」
台所から母の声がした。腕の内側がまだじんじんしていた。交代して、今度は俺が岳の足首を持った。岳の足首は細かった。骨の丸いところが、手のひらにじかに当たる。岳は歯を食いしばって、四歩進んだ。
「……四歩」
「……うん」
岳は床に寝そべったまま、本を引き寄せた。めくって、めくって、あるページで止まる。体の中の骨を描いたページだった。白い骨の絵の横に、「ほねは、ねむっている あいだに のびます」と書いてある。
「これ、ぼくの絵本と、同じこと書いてある」
岳は寝そべったまま、その字を指でなぞった。二月のこたつの中のように、一字ずつ、ゆっくりと。
三時に、母が牛乳をコップに二つ注いで、テーブルに置いていった。岳は両手でコップを持って、半分まで一気に飲んで、白いひげをつけた。
夕方、岳は玄関で合羽をかぶり直した。フードの紐を顎の下で結んでから、振り返った。
「……また、やる」
「うん」
岳は霧雨の中へ出ていった。黄色い合羽が、隣の家の角を曲がるまで見えていた。
夕飯のあと、母が米びつを開けて、あしたの朝の米を量っていた。計量カップが米をすくう音が、いつもより一回多かった。
食卓の端には、図書室の本が「たべる」のページを開いたまま置いてあった。濡れないように、下に乾いた布巾が一枚敷いてある。母は米びつのふたを閉めると、そのページをもう一度のぞきこんでから台所の明かりを消した。
その夜も、九時に布団に入った。
九時に寝ると母に言ったのは、一年生の五月だった。来週の水曜日で、ちょうど二年になる。二年前は、頭の中の理屈のための約束だった。今は、居間の柱の、あの細い線のための約束でもあった。
◇
五月十日の日曜日。七時に起きて下りていくと、母が台所にいた。
食卓の椅子に、俺のナップザックが口を開けて置いてあった。母は背中をこちらに向けて、何かを手の中で丸めていた。流しの横の皿に、白い塩の小さな山があった。母の手のひらが水でぬれて光っている。指のあいだに、塩の粒が白くついていた。母は手の中のものを、もう二、三度握った。それから振り返って、ナップザックの口に手を入れた。
紺色の大きな水筒の横に、銀色のかたまりが一つ、押しこまれた。アルミホイルだった。にぎりこぶしより一回り小さい、丸いかたまり。
俺は台所の戸口で、それを見ていた。母と目が合った。母は指のあいだに残った塩の粒を、親指で一度こすって落とした。
母はナップザックの口を閉じると、もう一度背中を向けて、コンロの火をつけた。味噌汁の鍋がことことと鳴りはじめた。前かけの紐の結び目が、背中の真ん中で、母が動くたびに揺れていた。
朝ごはんの茶碗は、本を見せた次の朝から、ひと口ぶん重くなっていた。卵焼きの隣に、牛乳のコップが置いてあった。
学校までの道を歩くあいだ、ナップザックの中の丸いかたまりは一歩ごとに背中の右側へ寄った。肩ひもを引いて背負い直しても、かたまりはまた同じところへ戻ってきた。
その日の練習は、中学年のコートだけだった。四号球で対面パスをして、最後に短いゲームをした。
ゲームのあいだに、俺は寄せられる前に二度ボールを離した。三度目は蓮へ出したあと、そのまま前へ走った。蓮の返したボールは強すぎて、俺の前を抜けてコートの角へ転がっていく。追いつく前に、ボールは白線を越えて止まった。
「わりい、さく!」
蓮が手を挙げた。俺は息が上がって、舌が上あごに貼りついていた。練習が終わったのは、昼の前だった。
片づけのあと、みんなが水飲み場に並んでいるあいだに、校庭の隅の鉄棒のところへ行った。ナップザックを下ろして、水筒の横から銀色のかたまりを出した。
ホイルは、母の指の形にくしゃくしゃになっていた。開く音が、校庭の隅で思ったより大きく鳴った。しわの一本一本が、きらきらと光を返した。中から出てきたのは、白いおにぎりだった。海苔は巻いていない。形は、手の中で握ったままの、つぶれた丸だった。
かじった。
冷めて表面が締まったご飯の粒を、塩がまとめていた。塩の味は思っていたより強かった。走ったあとの口の中に、それがまっすぐしみてきた。二口目で、舌の両側がきゅっと縮んだ。
うまかった。
ご飯の固まり方に、朝の母の手の形が残っていた。指の当たったところだけ、粒がぎゅっと寄っている。そこだけ、歯ごたえが固かった。
ホイルの上に、ご飯の粒が三つ残った。指でつまんで、口に入れた。
「……それ」
声がして振り向くと、岳が水筒を持って立っていた。岳は俺の手の中のホイルを見ていた。
「……本に、書いてあった。走ったあとの、おにぎり」
「うん」
岳はそれだけ言うと、自分の水筒の麦茶を一口飲んだ。それから、また水飲み場の列のほうを見た。蓮が樹の頭に水をかけて、園田さんに怒られていた。
ホイルを小さくたたんで、ナップザックのポケットにしまった。捨てずに持って帰るのが、なんとなく正しい気がした。
家に帰ると、父の車はなかった。日曜も現場らしい。母は台所で昼の支度をしていた。
「ただいま」
「おかえり。手、洗ってきなさい」
たたんだホイルを流しの横に置いた。母はそれを手に取ると、手のひらで一度平らにのばしてから、台所の引き出しにしまった。引き出しの中に、父の平たい鉛筆が見えた。
洗面所へ行く途中で、居間と台所の境の柱の前を通った。
足を止めて、柱に背中をつけた。シャツ越しに、木の冷たさが来た。目は台所の窓に向けたまま、頭のてっぺんを天井から糸で引かれるように伸ばす。背伸びはしなかった。
台所で、まな板を叩く包丁の音がやんだ。
「さく。二十三日の土曜日ね、お母さん、町内の用事で一日いないの」
母は窓のほうを向いたまま、包丁をまな板の上に寝かせた。
「お父さんの現場に、ついていってね」
父の現場には、まだ一度も行ったことがなかった。柱に背中をつけたまま、俺は「うん」と言った。




