第55話 三年一組
昇降口のガラス戸に、白い紙が何枚も並んで貼ってあった。
四月六日、月曜日。始業式の朝は雨だった。昇降口の床はみんなの傘から落ちた水で黒く濡れていて、傘立てに差しきれない傘が壁に何本も立てかけてある。濡れた布とビニールの匂いが、狭い昇降口にこもっていた。
紙の前には、ランドセルの背中が何重にも重なっていた。三年一組から順に、名前が縦に並んでいる。人のあいだから首を伸ばしても、前の子の濡れた頭しか見えない。
「さく!」
人の頭の向こうから、声が飛んできた。
蓮だった。紙のいちばん近くにいて、こっちを振り返っている。黄色い傘を閉じたまま、柄のほうを振り回していた。
「さく! 同じ! 一組!」
昇降口の天井に、声が跳ね返った。何人かが振り向いた。蓮は人のあいだを肩でかき分けて、こっちへ出てきた。傘の先から飛んだしずくが、俺の頬に当たった。
「ほら、あそこ。おれとさく、いっしょ」
蓮の指の先を追った。三年一組の紙の上のほうに「駒井蓮」、真ん中より下に「三上朔」。
一年生のときも二年生のときも、蓮は別の組だった。廊下ですれ違うか、休み時間の校庭で会うか。教室の中で蓮を見たことは、一度もない。
「きょうから、ずっといっしょ!」
「……うん」
蓮は俺の肩を傘の柄でつついて、「せき、となりかな」と言いながら、上履きに履き替えに行った。
体育館へ向かう廊下で、ひかりに会った。
「さくくん、一組?」
「うん」
「わたし、二組。……れんくんも一組でしょ」
ひかりはそう確かめると、唇をきゅっと結んで、二組の列へ戻っていった。結んだ髪の先が雨の湿気ではねていた。
体育館では、クラスごとに背の順で並んだ。
俺は前から二番目だった。いちばん前は、俺より背の低い、眼鏡の男の子だった。式のあいだ、つま先の前に体育館の床の線があって、それを見ているしかなかった。
途中で一度だけ振り返った。
男子の列はずっと後ろまで続いていて、後ろから三番目あたりに、蓮の頭が一つ飛び出していた。蓮は隣の子に何か話しかけていて、先生に肩を叩かれていた。同じ一組の列なのに、蓮の顔はひどく遠かった。
担任の発表で、校長先生が「三年一組、宮本先生」と言った。
壇の横に並んでいた先生たちの中から、背広を着た男の先生が一歩前へ出た。三十代の半ばくらいに見えた。四月なのに、首から上がよく日に焼けていて、背広の袖口から出た手首まで黒い。お辞儀をしたあとで顔を上げると、白い歯がやけに目立った。
教室は二階の、階段のすぐ横だった。席は出席番号の順で、蓮は廊下側の前のほう、俺は窓側の後ろのほうになった。蓮は座るなり振り返って、教室の対角から俺に手を振った。先生は出席簿を開いて、名前を読み上げた。
「駒井」
「はい!」
蓮の返事は廊下の向こうの二組まで届きそうだった。
「声はいい。もう少し、小さくていい」
何人かが笑った。蓮も笑った。
「三上」
「……はい」
先生は名前を呼び終えると、黒板に大きく「宮本」と書いた。最後の一画で、チョークが折れた。
「先生は、体育がいちばん好きだ。算数も、ちゃんとやるぞ」
呼び捨てで呼ばれたのは、学校では初めてだった。宮本先生は男子を全員、名字だけで呼んだ。
その週のうちに、社会と理科の新しい教科書と、リコーダーが配られた。細長い布の袋の名札に、自分で「三上さく」と書いた。朔の字は学校ではまだ習わない。
教室の蓮は落ち着かなかった。
先生が黒板に向かうと、椅子を後ろに傾けて、斜め後ろの席の子に話しかける。休み時間になると、もう教室の真ん中にいる。誰とでも話した。サッカーをしない子とも、女子とも。窓際のいちばん後ろの席で、一人で図鑑を広げている子の机にも、蓮は手をついてのぞきこんだ。
「なに、それ。むし? かっけえ」
その子は驚いた顔をしてから、図鑑のページを蓮のほうへ向けた。
「駒井、椅子」
授業中に宮本先生が言うと、蓮は傾けていた椅子を、がたんと戻した。
リコーダーが配られた日の休み時間には、袋から出したばかりの一本を、廊下側の席から窓側の俺のほうへ吹いた。ぴいっ、と裏返った音が天井に当たった。
「さく! いまの、何の音?」
教室のどこにいても、蓮の声は聞こえた。
◇
四月十二日の日曜日から、練習のボールも四号球になった。
おとといときのうは、四月とは思えない暑さだった。半袖で来た子が何人もいて、園田さんに「まだ四月だぞ」と笑われていた。
園田さんが網の袋の口をほどくと、中から新しい四号球がいくつも転がり出てきた。
家の塀で、三週間あまり蹴ってきたボールだった。それでも、校庭で走りながら受けると勝手が違った。塀から戻ってくるボールは、いつも同じ場所に同じ速さで来る。走っている足に横から来るボールは、足の内側で受けた瞬間、こちらへ寄りかかってきた。押し返されたぶんだけ、足首が外へ逃げた。
対面パスの相手は陸だった。陸は三年生になって、また背が伸びていた。長い脚から蹴り出される四号球は、まっすぐで速い。三本目でようやく、足首を固めて受け止められるようになった。
蓮は最初から気にしていなかった。重いボールを、軽いボールと同じ強さで蹴って、遠くまで飛ばしては笑っていた。
「蓮。それ、とりに行くの、おまえだからな」
園田さんに言われて、蓮は「はーい」と叫びながら、校庭の端までボールを追いかけていった。
準備運動が終わったころ、大河原監督がやってきた。監督は中学年の列を見て、それから横の園田さんに言った。
「駒井と三上は、ときどき高学年に入れ」
列の前にいた俺たちにも、そのまま聞こえる声だった。
「今日から、ですか」
「今日からだ」
監督は背を向けて、高学年のコートへ戻った。理由は言わなかった。
人数が足りないのか。園田さんが前から話をしていたのか。園田さんの顔を見ると、首のタオルの端をいじりながら、「だってさ」とだけ言った。
「やった!」
蓮が跳びはねた。
◇
高学年のコートは、同じ校庭なのに、別の場所のようだった。
五年生と六年生が、二十人近くいた。列に入ると、左右の肩がみんな俺の頭より上にあった。話し声が上から降ってくる。三年生は俺と蓮の二人だけだった。
蓮はさっそく、隣にいた六年生を見上げて「ねえ、名前、なに?」と訊いた。六年生は返事のかわりに、蓮の頭を片手で横へどけた。六年生の手は蓮の頭の半分を覆っていた。蓮は「なんで!」と言って、どけられた頭をすぐ元の場所へ戻した。
「お、朔、来たのか」
別の組の列から、航が手を挙げた。五年生になった航は、去年より肩幅が広くなっていた。俺が手を挙げ返すと、航はもう隣の五年生と話しはじめていた。
監督が笛を一度吹いた。
「石井。四人ずつに分けろ」
呼ばれた六年生が前に出た。
大きかった。俺の目の高さに、その子の胸があった。肩は俺の頭のてっぺんより上にある。前に出てくるときの、上体がまったくぶれない走り方で思い出した。十二月の日曜日に、隣のコートで四年生を肩で弾き飛ばしていた五年生だった。六年生になって、キャプテンになっていた。
石井の目は俺と蓮の頭の上を通り過ぎた。組を手早く分けて、俺を五年生の三人の組に入れ、自分は向かいの組に入った。蓮は別の四角へ行った。航はさらに向こうの四角だった。
コーンで囲った四角の中で、四人と四人がボールを取り合う。
「こっち」「はやく」「出せって」
五年生たちの声は短くて、低かった。最初のうち、ボールは来なかった。五年生たちは、俺なら両足で踏んばって蹴るような強さのボールを片足で軽く互いの足もとへ通していった。速い。止めて、すぐ出す。一度も下を見ない。
俺は四角の端を回りながら、首を振った。誰がどこにいるのか。石井がどこを向いているのか。
「三年、そこ、じゃま」
味方の五年生が手の甲で横を払うしぐさをした。俺の立っていたところが、ちょうど五年生どうしのボールの通り道だった。二歩、横へずれた。
ずれた先で、向かいの五年生と、ボールを持った味方の五年生のあいだが空いた。味方の顔が上がった。上がるのを見てから、半身で動いた。蹴った足が下りるころに、そこに着いた。
来たボールを止めなかった。右の内側で一度だけ触って、横の五年生へ流す。寄せてきた五年生の靴が、ボールのなくなった土をこすった。
「お」
流した先の五年生が、短く言った。次のボールも来た。同じように流した。今度は、誰の靴も俺の足に届かなかった。
三本目は、さっき「お」と言った五年生が、足の内側で俺の足もとへ転がした。
石井は五、六歩向こうにいた。体は別のほうを向いている。
間に合う、と思った。さっきの二本と同じだ。受けて、横の五年生へ出す。
ボールが転がってくる。右足の内側を、ボールの来る線の上に置いた。
顔を上げた。
目の前に、石井の胸があった。
白い体操着の布と、その上の顎。石井の目は俺の足もとに転がってくるボールだけを見ていた。
石井はボールが五年生の足を離れたときに、もう動きだしていたのだ。俺がボールを見ているあいだに、長い脚で五、六歩を詰めていた。俺が見たのは、その終わりだけだった。
足の内側にボールが当たった。横へ出そうとして、膝を曲げた。
肩が来た。
石井の肩は俺の肩の上からかぶさるように来た。ぶつかったのは肩と肩なのに、耳のすぐ横で、石井のシャツが俺の髪をこする音がした。汗と土ぼこりの匂いが、鼻の先をかすめた。固い。土の詰まった袋を、横から叩きつけられたようだった。
足が地面から離れた。校舎の窓が斜めに傾いた。
気がつくと、尻から土の上に落ちていた。尻の骨に、どん、と響いた。四号球が俺の足もとから離れて、ころころと四角の外へ転がっていく。
石井はそのボールに追いついて、足の裏で止めた。振り返らなかった。止めたボールをそのまま横の味方へ出して、もう自分の組の真ん中へ戻っていく。走っても、背中がまったく揺れなかった。
監督の首の笛は胸の上で揺れたままだった。正面から、肩と肩で来た。笛を吹く理由はどこにもない。
誰も手を貸さなかった。五年生たちは次のボールを追いかけていた。
俺はもう、四角の端に立っていた。
「とられんなよ、三年」
さっきボールをくれた五年生が、前を向いたまま言った。俺の名前はたぶん知らない。
尻がじんじんしていた。両手はいつのまにか体操着の裾を握りしめていた。
先に離せばいい、と思っていた。十二月の紅白戦でも、さっきの二本でも、それで一度も当たらなかった。でも、離す前に来られたら、離しようがない。立っている足の裏が、土の上でうまく落ち着かなかった。
隣の四角で、蓮が六年生にぶつかっていた。正面から、体ごと。蓮の体は横へ飛ばされた。
「いってえ!」
蓮の声は笑っていた。
次に見たとき、蓮はもうその六年生の前に立っていた。両手を広げて、腰を落としていた。
俺は首を振って、四角の中を見た。次はどこに立っていればいいのか。答えが出る前に、ボールが来た。味方の五年生が俺の足もとへ強く転がしてくる。右のほうで、白い体操着が動いた気がした。足の内側に当たった瞬間、俺は前へ蹴りだしていた。誰もいないところへ。四号球はコーンのあいだを抜けて、四角の外の土まで出ていった。
「どこ、けってんだ」
五年生は自分で拾いに行った。
ふと、隣の中学年のコートを見た。
園田さんがいた。コーンの束を脇に抱えたまま、こっちのコートに顔を向けていた。目が合ったと思ったときには、園田さんはもう自分のコートの子どもたちのほうを向いていた。
俺は片足を上げて、靴の裏についた土を手で払った。白に赤い線の靴の溝に、校庭の土が詰まっていた。




