第54話 八歳
紙袋の口から、新しいボールの白い肩がのぞいていた。
三月十八日、水曜日の夜。八歳の誕生日だった。父はいつもどおり七時すぎに帰ってきて、作業着のまま食卓についた。夕飯の唐揚げを食べ終えて、駅前の洋菓子屋の小さなケーキのろうそくを吹き消した。八本だった。そのあとで、母が和室の押し入れから大きな紙袋を出してきた。袋の横には、国道沿いのスポーツ用品店の名前が青い字で刷ってある。
「お父さんと、お母さんから」
両手で引き出すと、白地に紺の模様のボールが出てきた。
四号球だった。腕に抱えてみると、指の先の届くところが三号球よりずっと外へずれた。表面の皮はまだつるつるで、縫い目のあいだに土の色が一つもない。鼻を近づけると、店の棚の、ゴムと新しい革の匂いがした。
「三年生からは、それなんですって。お茶当番のとき、園田さんに聞いたの」
母が言った。父は湯呑みを持ったまま、テレビのほうに顔を向けていた。作業着の胸ポケットで、ボールペンの頭が二つ、蛍光灯の光を返していた。
「……ありがとう」
母に言った。父の顔はテレビを向いたままだった。湯呑みを置く手だけが、いつもよりゆっくりだった。
ボールをカーペットの上に置いて、足の裏をのせてみた。前へ転がして、引き戻す。三号球なら足の裏にくっついてくるところで、四号球は重さが一拍遅れてついてきた。
「家の中で、蹴らないでよ」
「ころがすだけ」
母は笑って、ケーキの皿を重ねはじめた。
窓の外はもう暗い。蹴りに出るのは、明日の朝まで我慢することにした。転がすたびに、新しい皮がカーペットの毛足を撫でて、しゅっと乾いた音を立てた。
玄関の三号球は靴箱の横の段ボールの箱にしまうことにした。おととしの五月に父と買ったボールで、白に青の模様はもうほとんど茶色だった。
皿を片づけ終えると、母が食器棚の引き出しから、薄い紙のアルバムを出してきた。写真屋に現像を頼むと、おまけにくれるアルバムだ。
「ほら。去年の」
開いたページに、ケーキの前に座った俺がいた。ろうそくの煙が細く残っていて、俺はレンズのほうを見て笑っている。父が撮った一枚だった。頬が持ち上がって、目がほとんど線になっていた。自分の笑った顔を紙の上で見るのは、くすぐったかった。
去年、父は「こっち見ろ」と言って、テーブルの向こうでカメラを構えた。その父は今、アルバムのほうを見ずに、湯呑みの底に残ったお茶を回していた。
母は写真の細く残った煙のところに指を置いた。
さっきの八本は、蛍光灯をつけたまま吹いた。明かりの下の火は色が薄い。消えたことは、ろうそくの先から煙が立ってから分かった。煙はケーキの上で一度まとまって、すぐにほどけた。
「大きくなったかしら」
母がアルバムと俺の顔を見比べた。大きく、という言葉は二月の小さな橋の上で岳も口にした。
写真の俺は食卓の椅子に座っていた。テーブルの縁が胸の下を横切っていて、そこから下は写っていない。後ろには食器棚の戸が半分。頭の上には、天井も柱も写っていなかった。
「……座ってると、わかんないわね」
母は首をかしげて、居間を見回した。その目が台所との境の柱で止まった。
「そうだ。柱に、しるし、つけようか」
父が湯呑みを置いた。作業着の胸ポケットに指を入れて、ボールペン二本の横から、平たい鉛筆を一本抜く。現場で使っている鉛筆だった。断面が細長い四角で、芯まで平たい。先は刃物で削ったらしく、木の削り跡が斜めに並んでいた。
父はそれを黙って母に渡した。母も黙って受け取った。
柱は居間と台所の境に立っている。毎日その横を通っているのに、背中をつけて立つのは初めてだった。
かかとを柱の根もとにつけた。背中をつけて、頭の後ろもつける。木はシャツ越しにひんやりしていた。つるつるしたところと木目の筋のところで、背中に当たる感じが違う。
「まっすぐね。あご、引いて。かかと、ちゃんとついてる?」
靴下のかかとを、柱の根もとに押しつけた。
母の手のひらが頭の上に来た。
髪の上に、平らに置かれた。指をそろえて、柱に向かってまっすぐに伸ばしている。手のひらの温かさが、頭のてっぺんにじかに降りてきた。さっきまで洗い物をしていた、少し湿った温かさだった。母の息が額の上のほうに当たった。
母の手の下で、鉛筆の芯が柱に触れる音がした。じっ、と一度だけ木目に引っかかって、それから横へ滑っていった。
「はい。いいわよ」
手のひらが離れた。頭のてっぺんが急に涼しくなった。息を止めていたことに、そのとき気づいた。
柱から一歩離れて、振り返った。
茶色い木目の上に、細い線が一本、横に引いてあった。平たい芯の角で引いた線は、思っていたよりずっと細い。母が鉛筆を持ち直して、線の右に数字を書いた。
98.3.18
母の字だった。丸くて、8の上の輪が下の輪と同じくらい大きい。
「どのくらい?」
訊くと、母は線を見て、それから自分の手を見た。
「さあ。巻き尺、どこにしまったかしら。……でも、ここまでよ。今日のさくは」
母の人差し指が線の上に横に置かれた。
父がテレビから顔を戻して、柱のほうに目をやった。線と、母の指と、母の字を見た。それから、またテレビのほうへ向き直った。
離れて見ると、線はずいぶん低いところにあった。あそこまでが、俺だ。
一月の雪の公園で、襟をつかまれて引き上げられたとき、首の後ろで布が締まった。あのとき見上げた蓮の頭のてっぺんは、俺の頭より手のひら一枚ぶんほど上にあった。あれから二か月たっている。蓮の線を引くなら、この線よりずっと上になる。
線の上の何も書いていない木目が、急に広く見えた。
一度目の八歳の誕生日に何をもらったのか、覚えていない。この柱に線が引かれたことは、一度もなかった。一度目の俺が知っているこの柱は、上から下まで同じ茶色の、ただの柱だった。
「来年も、ここに書こうね」
母が鉛筆の尻で、線の上の木目を軽く叩いた。来年の線が来るあたりを、指しているらしかった。
「……うん」
母は鉛筆を父に返さずに、台所の引き出しにしまった。テレビでは天気予報が始まっていた。
◇
三月三十一日、火曜日。四号球を蹴りはじめて、十三日になる。つるつるだった皮は、もう縫い目のあいだから土の色に変わりはじめていた。塀に当たって戻ってくるまでが、三号球よりわずかに遅い。止めるときは、足の内側を少し引いてやらないと、ボールが膝のほうへ跳ね上がった。それでも、新しいボールを蹴るのは楽しかった。皮が土を吸って、だんだん自分のボールの色になっていく。
昼過ぎ、そのボールを抱えて公園へ行った。蓮が先に来ていた。自分の三号球を柱時計の下に転がしたまま、サンダルのゴールを足で並べ直している。
「それ、よんごう? けらせて!」
渡すと、蓮は助走もつけずに地面のボールを蹴った。ボールは低く飛んで、広場の反対の端で二度弾んだ。
「おもっ。でも、いい!」
蓮は拾いに走り、戻る途中でボールを抱えたまま足を止めた。
「おれも、らいげつから、これ!」
返してもらったボールの白い皮に、蓮の靴の形の土が一つついていた。
六時前に、父の白い車が駐車スペースに入ってきた。俺は居間のテーブルで、春休みのドリルの最後のページを広げていた。
このところ、父は早く帰る日が多い。作業着のまま洗面所で手を洗って、冷蔵庫から缶ビールを一本出し、ソファの左の端に座る。台所では母が鍋の火を弱めていた。
居間の窓の外には、まだ明るさが残っていた。三学期の初めには、この時間はもう真っ暗だった。ガラスの向こうに、隣の家の屋根の形がはっきり見える。土曜日に桜が咲いたと、母が昼に言っていた。
父がプルタブを引いた。ぷしっ、と音がした。父はそれを口へ運ばずに、リモコンでテレビをつけた。
夕方のニュースだった。
アナウンサーが大きな証券会社の名前を言った。店を閉じると決めていたその会社が、今日で全国のすべての店の営業を終えたという。短くそう伝えると、画面は次のニュースに変わった。
「去年、社長さんが泣いてたとこでしょ」
母が台所の戸口から顔を出した。菜箸を持ったままだった。
「うちは株なんか持ってないから、関係ないけど。大変よね、働いてた人たち」
父は答えなかった。母も答えを待たずに、鍋のほうへ戻っていった。
父は缶を持ったまま、画面を見ていた。ニュースはとうに別の話になっている。それでも、缶を持った手は膝の上から動かなかった。
去年の六月、父は「新築が、ほとんどないからな」と言っていた。証券会社と町の工務店の仕事がどこでどうつながっているのかを、八歳の口で父に話せるはずもない。
この会社がこうなることは、ジョホールバルの次の日の夕飯のときから、頭の隅にあった。そのとおりに、ただ起きた。
ドリルの答えの欄に、鉛筆の先を置いたまま動かせなかった。缶の表面の細かい水滴は、父の指が当たっているところだけ、指の形に乾いていた。
「おとうさん」
父の目が、画面から俺のほうへ来た。呼んでから、そのあとに続ける言葉を一つも持っていないことに気づいた。
「……ビール、ぬるくなるよ」
父は手の中の缶を見下ろした。持っていたのを、いま思い出したような目だった。
「……ああ」
父は缶を口に運んで、一口飲んだ。眉が寄った。もう、ぬるくなっていたらしい。父は缶の口を一度見て、それでも残りをゆっくり飲んだ。
「さく、お皿、出して。三枚ね」
台所から母の声がした。ドリルを閉じて立った。食器棚から平たい皿を三枚出して、食卓に並べる。皿の触れ合う音が、テレビの声の上で鳴った。夕飯の支度ができると、父は空になった缶をテーブルに置いて食卓に移り、いつものように味噌汁から先にすすった。
母は俺の茶碗にご飯をよそいながら言った。
「来週から、三年生ね。クラス替え、あるんでしょ。蓮くんと、いっしょだといいわね」
「……蓮、うるさいよ」
「いっしょになったら、もっとうるさいわよ」
母はそう言って、自分の茶碗を取った。
玄関の箱の横に置いた四号球には、昼に蓮がつけた靴の形の土をそのまま残してあった。
窓の外はいつのまにか暗くなっていた。
◇
二年生の最後の夜だった。九時の前に、二階へ上がった。
机の引き出しを開けて、鉛筆を一本出した。鉛筆と消しゴムのあいだに、灰色の小石が入ったままになっていた。
鉛筆の先は丸くなっていた。手回しの削り器に差しこんで、ハンドルを回す。削りかすの、木の匂いがした。抜いてみると、先がとがっていた。
階段の板は靴下の裏に冷たかった。下りると、父はソファで新聞を広げていた。柱はソファから見ると父の背中の側になる。母は風呂場にいるらしく、湯を流す音がしていた。居間のテレビから、夜のニュースの声が聞こえた。また、あの証券会社の名前を言っていた。
柱の前に立った。
線は俺の頭の高さにある。その右に、母の書いた「98.3.18」が並んでいた。そこに字を書こうとすると、肘が肩より上に上がった。何を書くかは、階段を下りる前から決めていた。
八歳、と漢字で書けば、二年生の字ではなくなる。自由帳にいつも書くように、数字とひらがなにする。
母の数字の横に、鉛筆の先を当てた。
8、と書いた。それから、さ、と、い。「い」の二画目で、芯が木目の溝に引っかかって、線の先がよれた。
8さい
母の数字の半分ほどの大きさだった。俺の鉛筆の線は平たい芯で引いた母の線より細くて、色も薄い。
父の背中の向こうで、新聞をめくる音がした。
鉛筆を持ち直して、よれた「い」の二画目を、もう一度上からなぞった。
来年の線がどこに来るのかは、俺も知らない。




