第53話 骨のページ
廊下の電話が鳴ったのは、二月十六日の月曜日、夕飯のあとだった。
母が出て、「あら」と声を上げた。それから受話器を手で押さえて、居間の俺のほうを振り向いた。
「さく。岳くんから」
岳が電話をかけてくるのは、初めてだった。岳は橋の向こうの、別の小学校に通っている。少年団の練習のほかで会うのは、公園に来たときくらいだった。
受話器を耳に当てると、しばらく何も聞こえなかった。岳の息の音だけがした。
「……さく?」
「うん」
「……あした、うち、くる?」
岳の声はいつもより小さかった。受話器の向こうで、テレビの音がしていた。
「……えほん、ある。ほねの、とこ」
去年の夏、熱を出した岳を見舞いに行ったとき、布団の横に人体の絵本があった。おばあさんが買ってくれた本で、岳は心臓のページをじっと見ていた。あの本のことだと分かった。
「いく」
「……うん」
それで電話は切れた。受話器を置くと、母が台所から顔を出していた。
「岳くん、なんだって?」
「あした、あそびにきてって」
「あら、よかったわね。おばあさんに、ちゃんとご挨拶するのよ」
◇
次の日の放課後は、晴れていた。
教室では、朝からオリンピックの話ばかりだった。休み時間になると、男の子たちが机の上にしゃがみ、両手を体の脇につけて前へ倒れこむまねをした。ジャンプの選手の形らしい。誰が一番遠くまで飛べるかで、机から床へ跳び下りては、田村先生に叱られていた。
いちばん遠くまで飛んだのは、背の順で前のほうのやせた男の子だった。床に着いたとたんに膝が折れて、両手をついた。体の大きい子は飛んでもすぐ下に落ちる。そのかわり、着いた足はそこでぐらつかなかった。
「かるいほうが、とぶんだって。テレビで、いってた」
誰かが言った。俺は自分の席に座ったまま、二人が着いたところを見比べていた。
帰りの会が終わると、ひかりが俺の机の横に来た。
「さくくん、きょう、こうえん、いく?」
「きょうは、岳くんち」
「がくくんち? なんで?」
「えほん、みる」
ひかりは目を丸くしてから、「へんなの」と言って笑った。それから「じゃあ、あした、こうえんね」と言って、ランドセルを背負って出ていった。
二月の日差しは明るいのに、空気はまだ冷たい。ランドセルを置いて、すぐに家を出た。家の前の道を分かれ道まで歩いて、用水路の橋のほうへ。用水路の水は少なく、底の石の上を細く流れていた。岸の枯れ草の根もとには、日陰のところだけ、先月の雪がまだ灰色に固まって残っていた。
小さな橋を渡って、二つ目の角。古い二階建てが並ぶ中の一軒に、「北村」の表札がかかっている。玄関の脇の植木鉢には、紫と黄色の小さな花が、寒そうに肩を寄せて咲いていた。
呼び鈴を押すと、すぐに戸が開いた。岳が待っていたらしい。その後ろから、白い髪のおばあさんが出てきた。
「いらっしゃい。寒かったでしょう。さあ、あがって、あがって」
「おじゃまします」
頭を下げると、おばあさんは目を細めて、何度もうなずいた。
玄関を上がってすぐの和室には、こたつが出ていた。夏に熱を出した岳が寝ていたのと同じ部屋だった。こたつ布団は厚くて重く、足を入れると、中は赤い光でぼんやりと明るかった。向かいから入ってきた岳の足の先が、俺の足に当たった。岳の足は外から帰ったばかりの俺の足より冷たかった。
おばあさんが湯呑みに温かいお茶を淹れて持ってきた。お盆の上には、薄い紙に包んだおせんべいが二枚のっていた。
「ゆっくりしていってね。岳はね、きのうから、ずっと待ってたのよ」
「……いわないで」
岳がこたつ布団に顎までもぐった。おばあさんは笑いながら、こたつの角に膝をついて、俺の湯呑みに手をかざした。熱すぎないか確かめるような手つきだった。
「この子ね、生まれたとき、小さかったのよ。ほら、こんなに」
おばあさんは両手で小さな丸を作ってみせた。
「すぐ熱を出すし、ミルクも飲まないし。お医者さんに、何回も通ったの。それが今は、ボールを蹴って、走って。おばあちゃん、びっくりしちゃう」
「……いわないでって」
岳の声がこたつ布団の中からくぐもって聞こえた。おばあさんは「はいはい」と言って立ち上がり、戸を閉めて出ていった。
岳は布団から顔を半分だけ出して、閉まった戸のほうをにらんでいた。耳が赤かった。
◇
部屋の隅のテレビでは、夕方のニュースが始まっていた。
スキーのジャンプだった。長野のオリンピックで、日本が団体で金メダルを取ったらしい。午前中のことで、学校にいた時間だ。ニュースは同じ場面を何度もくり返した。
選手が坂の上から滑り下りてくる。台の端で、ふわりと体が浮く。両手を体の脇につけ、板を開いて、空の中を前へ前へと運ばれていく。画面の端の人影が、空の大きさに比べて、とても小さかった。
「とんでる」
岳はこたつから首を出して、テレビを見ていた。
「……あのひとたち、かるいの?」
「かるいほうが、とおくまで、とぶんだって」
「……そっか」
岳は画面の中の、坂の上を見上げるような顔をした。カメラが台の上から見下ろした景色を映していた。下のほうに、豆粒のような人の頭が並んでいる。
「……あんなに、たかいとこ。こわくないの?」
「……こわいと、おもうよ」
「……こわいのに、とぶの」
「うん。とぶんだよ」
岳は返事をしなかった。台の端で浮き上がる選手の体を、まばたきもせずに見ていた。
それから、こたつの横に置いてあった絵本を引き寄せた。
表紙の角が丸くすり切れていた。見舞いのときより、もっと丸くなっている。岳はページの端を指でつまんで、慣れた手つきでめくっていった。心臓のページ、肺のページ、胃のページ。それから、骨と筋肉のページで手を止めた。
白い骨の絵がページいっぱいに描いてあった。頭の骨、背骨、腕の骨、脚の骨。その上に、赤い筋肉の絵が半分だけ重ねてある。絵の横に、大きなひらがなで説明が書いてあった。
「……ほね、のびるの?」
岳が訊いた。指が脚の長い骨の上に置かれていた。
「のびるよ」
「……どうやって」
俺は絵本の、脚の骨の絵を見た。骨の両方の端のところに、小さな線がいくつも描いてある。その横に、矢印と説明があった。
「ここ。ほねの、はしっこで、のびるんだって」
絵本の言葉を、そのまま読んだ。本当はもっと細かいことを知っている。でも、今ここで岳に話すのは、絵本の言葉で足りた。
「……いつ?」
「いつも、すこしずつ」
「……ねてるとき?」
岳が顔を上げた。絵本の隣のページに、布団で眠る子どもの絵があった。
「……ねてるときが、おおいって」
「……うん」
岳はページの反対側の、赤い筋肉の絵を指さした。
「……きんにく、は?」
「うごかすと、ふとくなる。でも、うごかしすぎると、いたくなる」
「……どっち」
「……ちょうどいいくらい」
岳はセーターの袖をまくって、細い腕を曲げてみせた。肘の上が小さく盛り上がる。反対の手の指でそこを押してから、俺の腕に目をやった。
「……さくの、も」
俺も袖をまくって、腕を曲げた。岳の人差し指が俺の腕の盛り上がったところを押した。自分の腕を押したときと、たいして変わらない深さまで指が沈んだ。
「……おなじ」
岳は眉を寄せた。ちょうどいい、がどれくらいなのか、絵本には書いていない。岳はしばらく考えてから、また骨のページに目を戻した。
岳は骨の端の絵を指でなぞりはじめた。
ゆっくりだった。爪の先で、骨の輪郭を一周する。端のところで一度止まって、小さな線を一本ずつたどる。それから反対の端へ。また止まって、また一本ずつ。
その指を見ていた。
岳の指は急がなかった。骨の端の線は絵本の中で何本も描かれているのに、一本ずつしかなぞれない。一本なぞるあいだに、絵の骨が伸びるわけではなかった。
こたつの中で、自分の膝に手を当ててみた。
ズボンの上から、膝の骨の丸い形が分かった。その下の、すねの骨。指でたどると固くまっすぐで、どこにも伸びていく途中には見えなかった。この骨の端のどこかで、今も少しずつ何かが起きているはずだった。でも、触っても分からない。分かるほどの速さでは、起きていない。
体は、すぐには変わらない。
頭では、ずっと前から知っていた。一年で何センチ。それも知っている。こたつの中で自分の膝の骨を握っていると、その何センチがひどく遠くに感じられた。雪の公園で見上げた蓮の頭のてっぺんまでの、手のひら一枚ぶん。そこへ届くまでに、骨の端の線を、何本なぞればいいのだろう。
「……さく?」
岳が絵本から顔を上げていた。
「……ねむいの?」
「ねむくない」
俺は膝から手を離した。こたつの赤い光が、指の先を照らしていた。
テレビのニュースは、もう別の話題になっていた。おせんべいの紙を開くと、ぱりっと乾いた音がした。岳が一枚取って、半分に割って、大きいほうを俺にくれた。
かじると、細かいかけらが絵本の上に落ちた。岳はあわてて、手の横で骨の絵の上からかけらを払った。払ったあとも、ページを斜めにして残っていないか確かめていた。
「……かってもらった、ほん、だから」
◇
帰るころには、外は暗くなりかけていた。
二月の夕方はまだ早い。玄関で靴を履いていると、おばあさんが奥から出てきて、「また来てね」と言った。岳は橋まで送ると言って、サンダルを突っかけてついてきた。
二つ目の角を曲がると、小さな橋が見えた。用水路の上の、欄干の低いコンクリートの橋だ。
橋の真ん中で、岳が立ち止まった。
俺も止まった。欄干に手を置くと、昼の日差しの温かさはもう残っていなくて、指に冷たさが染みた。下を流れる細い水が、暗くなりかけた空の色を映していた。
岳は欄干に両腕をのせて、しばらく水を見ていた。鼻の頭が赤かった。サンダルの足が寒そうに縮こまっていた。
「……さく、こないだの、こうはくせん」
「うん」
「……いっかいも、ぶつかってなかった」
岳も見ていたのだ。
「……ぼくは、ぶつかった。かたが、いたかった」
岳は自分の左の肩に、右手をそっと置いた。冬の紅白戦で、一年生とボールのあいだに体を入れたところだ。
「……さくは、ぶつからないの、うまい」
褒めているのか、そうでないのか。蓮のときと同じで、分からなかった。岳の声には、ただ見たものを数えているような響きがあった。
「……さくは」
岳が水のほうを見たまま言った。
「……おおきく、なりたいの?」
すぐには、答えられなかった。
なりたい、と言葉にしたことは一度もなかった。体の差は頭で埋められる。ぶつからなければいい。そう思って、この冬を過ごしてきた。大きくなりたいと口にしたら、その考えがどこかで崩れてしまう気がしていた。
でも、雪の公園で蓮に押されたときの重さが、まだ体のどこかに残っていた。
「……うん」
声に出すと、思っていたより小さな声だった。
岳はこちらを見なかった。水を見たまま、一度だけ、こくりとうなずいた。
それから欄干から腕を下ろして、「……じゃあね」と言った。サンダルの音を立てて、来た道を戻っていく。二つ目の角の手前で一度振り返って、手を小さく上げた。
俺も手を上げた。岳の姿が角の向こうに消えるまで、欄干の冷たさを手のひらに感じていた。




