第52話 雪の日の蓮
帰りの会の途中で、窓の外が白くなりはじめた。
一月八日、木曜日。三学期の始業式の日だった。朝からどんよりと曇っていて、教室の蛍光灯は昼間なのに全部点いていた。田村先生が冬休みの宿題を集めているあいだに、灰色の空から、最初の一粒が落ちてきた。
教室の後ろの壁には、冬休みの書き初めが並んで貼られていた。二年生は鉛筆で、細長い紙にます目の字を書く。「はつひので」「たこあげ」「おもち」。ひかりの紙には、大きく「シュート」と書いてあった。先生に「お正月らしい言葉にしましょうね」と言われて、それでも直さなかったらしい。俺の紙は「はしる」だった。何枚か書いた中で、一番まっすぐに書けた一枚を選んだ。
窓際の席の誰かが「あっ」と言った。
それで全員が窓を見た。一粒が二粒になり、二粒が数えきれなくなるまで、ほとんど時間はかからなかった。校庭の向こうの木が、みるみる白い点にかすんでいく。
「ゆきだ!」
「つもる? つもる?」
「はいはい、座って。雪は逃げないから」
田村先生が手を叩いたけれど、誰も座りきらなかった。先生自身も、宿題の束を抱えたまま窓のほうを見ていた。
帰り道はもう白かった。
道に沿った塀の上や生け垣が、手前から順に白く塗りつぶされていく。ランドセルの上に雪が積もって、歩くたびに肩からこぼれ落ちた。隣を歩くひかりは、毛糸の手袋をはめた両手を前に出して、落ちてくる雪を受けていた。
「みて。とけない」
手袋の毛糸の上に、白い粒がいくつもとどまっていた。ひかりはそれを、顔に近づけてじっと見る。息がかかると、粒は一つずつ小さくなって消えた。
「あしたも、ふったら、ゆきがっせんね。こうえんで。れんくんも、りくくんも、よぶ」
「学校、あるよ」
「かえってから!」
ひかりは手袋を振って、雪を払った。田んぼの一本道に出る手前の角まで来ると、もう一度「ぜったいね」と言ってから、公園のほうへ走っていった。走った跡に、小さな靴の形が並んで、すぐに雪に埋もれていった。
◇
次の日の朝、外は一面の白だった。
夜のあいだに降りつづいた雪が、塀の上にも父の車の屋根にも分厚く積もっていた。空はうそのように晴れていて、雪に反射した光で目が痛かった。
放課後、公園に行くと、岳のほかはもうみんな来ていた。
土の広場は雪の下に隠れていた。柱時計の針の上にも雪がのっていて、どこがサンダルのゴールだったのか、もう分からない。蓮と陸とひかりが、広場の真ん中で雪玉を作っていた。遅れて、岳が橋のほうから歩いてきた。黒い長靴の口から、ズボンの裾が雪で濡れてはみ出していた。
「さく、おそい!」
蓮が雪玉を投げてきた。肩の横をかすめて、後ろの生け垣にぼすっと刺さった。
組はすぐに決まった。蓮と陸と、俺と岳とひかり。ひかりが「わたし、ふたりぶん、なげる」と言った。
雪で小さな壁を作って、その陰から投げ合った。
岳は投げるより、壁を作るほうに回った。手袋の両手で雪をすくって壁の上に重ね、手袋の甲で叩いて固める。俺の前のところまで来ると、そこだけもう一段高くした。
「……ここ、ひくい」
叩いたあとの雪の面は、固く光っていた。
蓮の雪玉は遠くまで届いた。俺が投げると広場の真ん中あたりで落ちるのに、蓮のはこちらの壁を越えて後ろの生け垣まで飛んでくる。腕を大きく後ろに引いて、体ごと前へ投げる。その腕が長かった。
投げるたびに、蓮のジャンパーの袖が上へずれた。手首がむき出しになる。冷たい雪に触れつづけた手首は、真っ赤になっていた。
去年の冬の初めには、あの袖はちょうどよかったはずだ。同じジャンパーだった。紺色で、胸に白い線が一本入っている。手首が出るのは、蓮の腕のほうが伸びたからだった。
蓮は投げる前に、かならず当てる相手の顔を見る。見てから腕を引く。引いた腕が後ろで止まったところで、俺は壁の陰を横へ二歩ずれた。蓮の雪玉はさっきまで俺の頭があった壁の角を削って、後ろへ飛んでいった。
蓮が広場の真ん中まで出てきて、落ちていた雪玉を拾おうとかがんだ。そこへ、こちらから一つ投げた。雪玉は蓮の背中で白く散った。
「さく、なんで、よけれるの!」
次の一つは、腕を引くのが見えなかった。
「さく、あたった! いま、あたった!」
蓮の雪玉が俺の帽子に当たった。帽子の毛糸の上で雪が砕けて、首の後ろへ冷たいものが流れこんだ。
「あたってない!」
「あたった! ひかり、みたよな!」
「みてない。わたし、なげてた」
ひかりが壁の陰から、本当に二人ぶんの速さで雪玉を投げた。半分は蓮に、半分は陸に当たった。陸が「ひかりちゃん、つよすぎ」と言って、雪の上にしゃがみこんだ。
雪の上を走る蓮は重かった。
一歩ごとに、雪の中へ足が沈む。それでも蓮は止まらない。沈んだ足を力ずくで引き抜いて、また前へ出る。俺も同じように走ってみた。足は沈むのに、体が前へ出ていかない。軽い体は雪を押す力も弱かった。
やがて雪玉の山が、どちらもなくなった。
「つくってる、ひま、ない!」
蓮が壁を乗り越えて、こちらへ突っこんできた。陸もついてくる。岳がひかりの前に立った。俺の前には、蓮が来た。
蓮は笑いながら、両手で俺の肩を押した。
押し返そうとした。足を踏んばって、両手で蓮の胸を押す。
びくとも、しなかった。
蓮の胸は壁のように動かなかった。俺の両腕だけが曲がって、肘がたたまれていく。蓮がもう一度、軽く押した。それだけで、俺の足は雪の上をすべって、背中から倒れた。
背中に雪の冷たさが来た。でも、冷たさより先に来たのは、驚きだった。
重い。
蓮は重かった。同じ二年生なのに、押されたときの重さは、隣のコートで見た高学年の当たりを思い出させた。
四月生まれの蓮と、三月生まれの俺。同じ学年の中で、ほとんど一年ぶん違う。分かっていたことだった。分かっていたのに、その一年の重さを両手で受けたのは、これが初めてだった。
「さく、よわっ!」
蓮が笑った。笑いながら、手を伸ばしてきた。
蓮は俺のジャンパーの襟をつかむと、片手で、ぐいと引き上げた。首の後ろで布が締まって、俺の体は雪の上から軽々と持ち上がった。足が地面に着くまで、ほとんど力を入れなかった。
壁の陰から、ひかりが顔を出した。
「さくくん、ゆきだるま、みたい」
背中から足まで、雪で真っ白になっていたらしい。ひかりは笑わなかった。本当にそう見えた、という顔だった。
俺は蓮の顔を見上げた。
蓮の頭のてっぺんは、俺の頭より手のひら一枚ぶんほど上にあった。秋の大会のころは、ここまで違わなかった気がする。
蓮の手がまだ俺の襟をつかんでいた。指の一本一本が太い。爪の先まで、赤くなっている。
「つめたっ!」
蓮が手を離して、自分の手首を振った。ジャンパーの袖が、また上へずれていた。
「もういっかい」
俺は言った。
先月、隣のコートで見た大きな五年生を思い出していた。あの子は当たる前に、腰を落としていた。落としてから、肩を相手の肩の下に入れていた。
蓮が「いいよ!」と言って、両手を前に出した。俺は膝を曲げて、腰を落とした。肩を前に出して、蓮の胸の下へもぐりこむように押す。
一瞬だけ、蓮の体が止まった気がした。
次の瞬間、俺の足が雪の上ですべった。腰は落としたのに、足が体の下になかった。押す力は雪の上に逃げていった。蓮は「おっ」と言っただけで、一歩も下がらずに、俺の両肩を横へ流した。俺は前のめりに、雪の中へ顔から突っこんだ。
口の中に、冷たい雪の味がした。
「さく、いまの、ちょっと、つよかった!」
蓮が笑いながら言った。ちょっと、という言葉が雪より冷たかった。
足がどこにあればいいのかを、俺の体はまだ知らなかった。
岳のほうを見ると、岳は陸と押し合ったまま、二人とも動かなくなっていた。ひかりが横から、陸の背中に雪をかけていた。
首筋に入った雪が溶けて、背中のほうへ冷たく流れていった。俺はジャンパーの襟を手で直した。蓮につかまれたところが、まだよれていた。
◇
次の日曜は校庭にまだ雪が残っていて、練習は中止になった。園田さんから連絡網の電話が回ってきて、母が「はい、はい、わかりました」と言いながら、電話台のメモに「中止」と書いた。
一月十五日、木曜日。成人の日で、学校は休みだった。
朝から大粒の雪が降りつづいて、窓の外はずっと白く動いていた。テレビのニュースは、どこかの町の成人式に、振袖の人たちが雪の中を歩いていく映像を映していた。
昼過ぎ、母に頼まれて、玄関の前の雪をかいた。小さなスコップで駐車スペースの端まで道を作ると、手袋の中まで濡れてしまった。
父も外に出ていた。今日は現場が休みになったらしい。長い柄のほうきで、車の屋根の雪を落としている。どさっと音を立てて、雪のかたまりが足もとに落ちた。
「……重い雪だ」
父は空を見上げた。
「こういう雪が続くと、古い家は、軒がやられる」
それだけ言って、また屋根の雪を落としはじめた。明日から、父の仕事が増えるのかもしれなかった。
俺は玄関の三号球を持ち出してみた。かいたばかりの道の上にボールを置いて、塀のほうへ軽く蹴る。ボールは道の端の雪にぶつかって、そこで止まった。転がりもしない。拾い上げると、表面に雪がまとわりついて、重くなっていた。
雪を払って、今度は蹴らずに足の裏で転がしてみた。かいた道はスコップ二つぶんの幅しかない。右へ出して、左へ戻す。三度目に引いたとき、ボールは道の端の雪に乗り上げて半分埋まった。引き出すと、表面にまた白いものが貼りついていた。
あきらめて家に入った。濡れた手袋を、居間の石油ストーブのそばに干した。ストーブの熱で、手袋から湯気がゆっくりと立ちのぼっていく。
ジャンパーを脱ごうとして、腕を前に伸ばしてみた。
袖口から、手首は出なかった。
腕をいっぱいに伸ばしても、深緑の袖は手の甲の半分まで届いていた。去年の冬に買ってもらったジャンパーだ。袖口のゴムの跡が、手首の上に赤い輪になって残っていた。
公園で見た、蓮の赤い手首を思い出した。投げるたびに袖からはみ出していた、太い手首。同じように一年近く着てきたはずのジャンパーで、蓮の手首だけが外に出ていた。
台所では、母が昼の洗い物をしていた。
「おかあさん」
「なあに?」
母が蛇口を止めて、こちらを振り返った。
「……ぼく、ちい」
言いかけて、口を閉じた。
ちいさい、と訊いたら、母は何と答えるだろう。三月生まれだから、と言うかもしれない。これから大きくなるわよ、と言うかもしれない。どちらの答えも、俺はもう知っている。知っている答えを、母の口から聞きたくなかった。
「なあに、さく」
「……ゆき、まだ、ふる?」
母は窓の外を見た。
「夜まで、ふるって。夜は、みぞれになるかもって、テレビで言ってたわよ」
「……そっか」
母は蛇口をひねって、また洗い物に戻った。
俺はジャンパーを脱いで、ストーブのそばの手袋の隣に掛けた。袖がちょうど手袋の上に重なった。
窓の外では、雪がまだ降りつづいていた。塀の上の雪が昼前よりも一段高くなっている。あの塀の前で、ボールを蹴れるのはいつになるだろう。雪は音もなく積もって、駐車スペースに作ったばかりの道を、端からゆっくりと埋めていった。




