第51話 H組
窓ガラスの下のほうが、白く曇っていた。
十二月五日、金曜日の朝。七時に起きて、まず塀の前に出た。空は高く晴れていて、そのぶん空気が刺すように冷たかった。蹴ったボールは固く、塀から戻ってくる音もいつもより乾いていた。右で十五本、左で十五本。三十本目を左の足の裏で止めたときには、指の先の感覚がほとんどなくなっていた。
家に入ると、居間の石油ストーブはもう点いていた。台所から味噌汁の匂いがする。ストーブの前に手をかざすと、かじかんだ指の先が、じんじんとしびれながら戻ってきた。
食卓に着くと、テレビの音が耳に入った。朝のニュースが外国の大きな会場を映していた。客席の上のほうまで人が詰まっていて、照明が明るい。壇の上に背広の男の人たちが並び、大きなガラスの器から、小さな玉を一つずつ取り出していた。玉の中の紙を開くたびに、会場がどよめく。
ワールドカップの組み合わせ抽選は、日本の時間で今朝の三時からだったらしい。アナウンサーの声の後ろで、国の名前を並べた表が画面いっぱいに出た。
父は作業着の上にジャンパーを羽織ったまま、新聞を広げていた。新聞は開いているのに、目はテレビの表を追っていた。
「……アルゼンチン」
父が表の国の名前を、一つずつ読んだ。
「クロアチア。ジャマイカ」
読み終えると、新聞を膝の上に下ろした。表の一番上に、日本の名前があった。父はしばらくそれを見ていた。
「……勝てるかもしれんな」
声の終わりがわずかに上がっていた。
三つとも、負ける。俺はそれを知っていた。
味噌汁をすすった。熱くて、すぐには飲みこめなかった。
「アルゼンチンって、強いんでしょ」
母が台所から、卵焼きの皿を持って出てきた。父の前に皿を置きながら、画面をのぞきこむ。
「強い。でも、やってみなきゃ分からん」
「初めて出るのに、もう勝つ気でいるの」
「勝つ気で出なきゃ、出る意味がない」
母は「はいはい」と言って、俺の茶碗にご飯を足した。父は卵焼きの皿に手を伸ばさずに、まだ画面の表を見ていた。表が消えて、スタジオのアナウンサーに戻っても、父の目はしばらく同じ場所に残っていた。
一度目の二年生の冬、俺はこの組み合わせを、いつ知ったのだろう。覚えていない。父がこうして朝のテレビの表を読んでいた日が、一度目にもあったはずだ。そのとき俺は父の顔を見ていなかった。
「お父さん、時間」
母に言われて、父は新聞を畳んで立ち上がった。ジャンパーの襟を直して、玄関へ向かう。廊下の途中で、もう一度、居間のテレビのほうを振り返った。テレビはもう天気予報で、関東の地図に晴れのしるしが並んでいた。
玄関の戸が閉まる音がした。車のエンジンがかかって、遠ざかっていく。
母が父の茶碗を片づけながら、小さく笑った。
「お父さん、うれしそうだったわね」
「……新聞、ひらいたまま、だった」
「ほんとね。テレビばっかり見て」
母はそれから、少しだけ声を落とした。
「ああいう顔、また見られた。このところ、また仕事のことばっかりだったから」
母はそれ以上言わずに、流しへ茶碗を運んでいった。蛇口から水の出る音がした。
俺はご飯の残りを口に入れた。父が読み上げた三つの国の名前が、頭の中で同じ順番に並んだままだった。六月になれば、父はあの表の一番上の名前に、また同じ顔をするのだろう。三回。
◇
日曜日の校庭は冷えていた。
朝九時。土は固く締まっていて、走るたびに靴の裏が硬い音を立てた。手袋をしてきた子が何人かいて、監督に「手袋は、いい。足は手袋しとらん」と言われ、あわててナップザックにしまっていた。
低学年はいつもの半分のコートで、対面パスから始めた。俺の相手は陸だった。陸の返すボールは去年よりずっと速い。止めると、冷えた足の内側に、じんと響いた。
隣のコートでは、高学年が紅白戦をしていた。
五年生と六年生は、体が違った。肩が厚く、走る音が重い。蹴ったボールが低くうなって飛んでいく。声も低い。
中でも一人、大きな五年生がいた。走っても上体がぶれず、頭の位置がほとんど変わらない。腕をあまり振らないのに、速い。その子がボールを持った四年生に、横から肩で当たった。
くぐもった音がした。
四年生の体が横へ飛んだ。ボールだけがその場に残る。大きな五年生はそのボールを拾って、振り返りもせずに前へ運んでいった。笛は鳴らなかった。正面からの、まっとうな当たりだった。
低学年のコートでも、何人かが手を止めてそちらを見ていた。樹が「うわ、いたそう」と言って、自分の肩を両手で抱えた。
「おれ、あのひと、こわい」
「樹、ボール、ボール」
園田さんの声で、樹はあわてて対面の相手のほうを向いた。
俺は対面パスのボールを止めたまま、隣のコートを見ていた。
大きな五年生は当たる前に一度、腰を落としていた。落としてから、肩を相手の肩の下に入れていた。だから四年生の体は、横ではなく、少し上へ浮いてから飛んだ。
あれに当たれば、ああなる。四年生であれなら、二年生の俺はもっと遠くへ飛ぶ。
当たらなければいい、と思った。
相手が来る前に、ボールを離せばいい。来るのが分かっていれば、先に動ける。先に動けば、当たらない。体の大きさはぶつかったときにしか意味がない。だったら、ぶつかる前に終わらせればいい。
「さくくん、ボール!」
対面の陸が手を振っていた。俺は止めたままのボールを、陸の足もとへ返した。
練習の最後は、一年と二年の紅白戦だった。
蓮は相手の組にいた。一年生の樹も、相手の組だった。樹は一年生なのに、もう俺より背が高い。こちらの組には陸とひかりと岳がいた。
最初にボールが俺の足もとに来たとき、蓮が寄せてくるのが見えた。蓮の肩がまっすぐ俺のほうを向いている。蓮は止まらない。いつも、ボールまで一直線に来る。
蓮が着く前に、ボールを横へ出した。陸の足もとへ。蓮の伸ばした足の先には、もうボールがなかった。
「あっ!」
蓮が声を上げて、くるりと向きを変える。陸を追いかけていく。
次に来たときは、樹だった。樹は背丈のぶん、足が遠くまで届く。その足が届く前に、俺は後ろのひかりへ戻した。ひかりが前を向いて、また俺に返す。今度は誰も寄ってこない場所で受けて、前の陸へ通した。
陸が蹴ったボールは、キーパーの子の横を抜けた。
「はいった!」
陸が両手を挙げた。岳が後ろから小走りに来て、陸の背中を軽く叩いた。
ひかりは手を挙げずに、まっすぐ俺の前まで来た。
「いまの、ひかりも、さわった」
後ろへ戻したボールを、ひかりが前を向いて返した一本だった。ひかりは言い終えるより先に、自分の場所へ駆けだしていた。
相手の一年生がこぼれ球を拾って、こちらのゴールへ走ってきた。岳がその前に立った。岳は逃げなかった。正面から体を寄せて、一年生とボールのあいだに入る。二人の体がぶつかって、一年生のほうがよろけた。ボールは岳の足もとに残った。
岳は一瞬顔をしかめてから、ボールを俺のほうへ転がした。
「……さく」
受けて、すぐに前へ出した。岳は自分の肩を一度手でさすって、もう元の場所へ戻っていた。
それからも同じだった。
ボールが来る。誰かが寄せてくる。その子が着く前に、離す。離した直後に、遅れて相手の靴が来て、何もない地面をかすめる。肩にも、背中にも、何も当たらない。そのたびに、体が軽かった。
樹は三度目も届かなかった。伸ばした足を戻すと、俺の顔と足もとを代わる代わる見た。
「さくくん、いま、ボール、どこ、やったの」
ボールはもう陸の前を転がっていた。樹は口を開けたまま、陸のほうへ首を回した。
一度だけ、蓮が先に着きそうになった。蓮の足がボールに届く寸前に、俺は足の裏でボールを引いて、蓮の届かないほうへ出した。蓮の体が俺の横を通り過ぎていく。蓮のジャンパーの袖が、俺の袖にかすった。当たったのは、それだけだった。
「さく、ずるい!」
蓮は笑いながら叫んでいた。
後半も、来る前に離した。来る前に動く。パスは何本も通った。陸がもう一点取り、蓮が二点取って、紅白戦は二対二で終わった。
蓮の二点目は岳の横をまっすぐ抜けた一本だった。岳は今度も肩から寄せていった。蓮の足は緩まなかった。肩をつけたまま二人で三歩進んで、岳だけがそこに残った。蓮は蹴りこむと、両手を広げてコートの端まで走った。
それでも、俺のほうはうまくいった、と思った。
頭の中の理屈がそのまま体で通じた。冷えていた足の指が、いつのまにか温まっていた。
ボールを片づけていると、園田さんが首のタオルの端をいじりながら近づいてきた。
「朔くん、きょうは、ひとつも、ぶつからなかったな」
「……うん」
「蓮があんなに追いかけても、一回も。うまいもんだ」
園田さんは細い目で、紅白戦のコートのほうを見た。それから、俺の顔に目を戻した。
「でもさ。ぶつからないのと、ぶつからなくて済むのは、ちょっと違うかもしれないな。……朔くんは、どう思う?」
「……ぶつからなかったら、とられないよ」
園田さんは「そっか」と目をもっと細くして、それ以上は言わなかった。「ま、寒いから、早く帰れよ」と言って、コーンを集めに行った。
隣のコートでは、高学年の紅白戦がまだ続いていた。コートを出るとき、そちらでまた誰かが倒れる音がした。俺は見なかった。
◇
帰り道、蓮と並んで校門を出た。
蓮の家は校門を出て最初の角を左に曲がった先にある。俺は角をまっすぐだ。だから二人で歩けるのは、角までの短いあいだだけだった。
「おれ、にてん! さっきの、にてんめ、みた? こう、ぐって、いって、ばん!」
蓮は歩きながら、さっきの自分のシュートを足でやってみせた。寒さで頬が真っ赤になっている。鼻の頭も赤い。
「みたよ」
「さいごの、あれ、いれたかったなあ。りくに、とられた」
「陸くんの、あれ、ぼくのパス」
「しってる!」
蓮は口をとがらせた。それから急に、何かを思い出したように俺のほうを見た。
「さく、ぜんぜん、ぶつかんないね」
見たものを、そのまま言った声だった。
俺は返事に迷った。
褒められたのか、そうでないのか、分からない。ぶつからないように動いたのだから、ぶつからなかったのは当たり前だ。それなのに蓮の口から出ると、別の言葉のように聞こえた。
「……うん」
やっとそれだけ言った。
「おれは、ぶつかるの、すき。どーんって、なるの、おもしろい」
蓮はそう言って、道の脇の電柱を自分の肩で軽く押してみせた。電柱はもちろん動かない。蓮は「かてない!」と言って、一人で笑った。
「あ、きょう、ばんごはん、ハンバーグなんだ。おれ、みっつ、たべる」
「みっつも」
「みっつ! おおきいの!」
蓮は指を三本立ててみせた。手袋をしていない指が、赤く腫れたようになっている。
「それとね、おとうさんが、いってた。にっぽん、ワールドカップで、アルゼンチンと、やるんだって!」
「……けさ、テレビで、やってた」
「なんだ、しってたの。アルゼンチン、つよいんだって。でも、おとうさん、かつかもって」
蓮のお父さんも、父と似たことを言ったらしい。
「おれ、ぜんぶ、みる! よる、おそくても、みる!」
蓮は白いガードレールの上に手をすべらせながら、跳ねるように歩いた。日本が三つとも負けることを、この町の誰も知らない。蓮も、蓮のお父さんも、俺の父も。
角に着いた。蓮は「じゃあね!」と手を振って、左の道へ駆けだした。ジャンパーの背中が、走るたびに左右に揺れる。
俺は角を、まっすぐ歩きだした。
さく、ぜんぜん、ぶつかんないね。
答えを出せないまま、田んぼの一本道に出た。




