第50話 雨のあと
朝になっても、雨はやんでいなかった。
十一月十七日の月曜日。目覚まし時計が鳴ったのは、いつもと同じ七時だった。布団の中で目を開けると、窓の外は灰色で、屋根を叩く雨の音が夜中と同じように続いていた。
体が重かった。眠ったのは、一時を過ぎてからだった。階段の下のテレビの音を聞いているうちに、いつのまにか眠っていた。
階段を降りると、台所で母が朝ごはんの支度をしていた。父はもう出かけたあとだった。
「お父さん、六時に出ていったわよ。ほとんど寝てないのに」
母はあくびをかみ殺しながら言った。母の目も、少し赤かった。
「帰りに、スポーツ新聞、全部買ってくるって。ゆうべのこと、ずっと言ってたわよ」
ソファの端に、ゆうべの毛布が畳んで置いてあった。居間のテーブルには、湯呑みの丸い跡が三つ残っていた。
食卓につくと、母がご飯をよそってくれた。
「お父さん、けさ、ごはんおかわりしてったのよ。二杯目なんか、立ったまま」
俺は納豆をかき混ぜた。かき混ぜているうちに箸の動きがのろくなって、まぶたが下りてきた。母が食卓を指で二度叩いた。
「さく、寝ないの。遅れるわよ」
「……おきてる」
傘をさして、学校へ向かった。
田んぼの一本道は、水たまりだらけだった。用水路の水がいつもより茶色く、速く流れていた。雨粒が傘を叩く音が、頭の上でずっと鳴っていた。
水たまりをよけて歩いたのに、運動靴の先から水がしみてきた。濡れた靴下が足の指に張りついて、一歩ごとに靴の中でくちゅっと鳴る。傘の柄を持つ手が、眠さでだんだん下がっていった。傘のふちから垂れたしずくが、ランドセルの肩ベルトに落ちて黒いしみを作った。
あくびが、何度も出た。
◇
昇降口の傘立ての下に、水たまりができていた。誰かの傘のしずくで、上履きのつま先が濡れた。
教室は、朝からその話でもちきりだった。
「みた? さいごの!」
「みた! すべりこんで、どーん!」
前歯の子が、教室の後ろの床に本当に滑りこんでみせた。ズボンの膝が、床の上でずるっと鳴った。何人かが笑って、何人かがまねをした。
まねをした子たちのズボンの膝が、床のほこりで白っぽくなっていた。教室の後ろの壁には、体育の日の運動会の絵が並んで貼ってある。どの絵の子も、腕を大きく振って走っていた。窓ガラスは雨と教室じゅうの息で、白く曇っていた。誰かがそこに、指で「フランス」と書いた。書いたそばから、字の下の端が細い筋になって垂れていった。
「ジョホールバル!」
「ジョホールバル! フランス!」
誰かが町の名前を叫ぶと、ほかの誰かが同じように叫んだ。言いにくい名前なのに、みんなちゃんと言えていた。田村先生が出席をとるあいだも、後ろのほうで誰かが小さく「ジョホールバル」と言って、くすくす笑いが起きた。
俺は自分の席でランドセルを下ろしながら、また、あくびをした。
斜め前の席で、ひかりが振り向いた。ひかりの目の下にも、うっすらと影があった。
「さくくん、みた?」
「……みた」
「ひかりも、みたよ。おとうさんと」
ひかりは少し得意そうに、胸を張った。
「とちゅうで、ねちゃったの。でも、おとうさんが、おこしてくれた。さいごのとき」
「……さいごの、すべりこむの?」
「うん。おきたら、はいった」
ひかりは自分でもそれがおかしかったらしく、くすくす笑った。それから、急にまじめな顔になった。
「ねえ、さくくん。このまえの、たいかいの、さくくんの、ひだりのも、すごかったけど」
「……うん」
「ゆうべのも、すごかった。おなじくらい」
ひかりはそれだけ言って、前に向き直った。同じくらい、の意味を、俺はしばらく考えていた。
休み時間に、廊下で蓮に会った。蓮は目が半分しか開いていなかった。
「蓮、みた?」
「ねてた!」
蓮は大きな声で言った。悔しがっているのか、自慢しているのか、分からない声だった。
「じゅうじに、おきてたの。ほんとに、おきてたの」
蓮は両手を広げてみせた。
「でも、きがついたら、あさだった! おかあさんが、かったって、いってた!」
「さくは?」
蓮の目が急に全部開いた。
「……さいごまで」
「ずるい!」
蓮の声が廊下に響いて、通りかかった上級生が振り返った。蓮のほっぺたに、枕の跡が赤く残っていた。蓮はそこを手でこすったが、跡は消えなかった。
蓮は廊下の窓から雨の校庭を見て、「つぎは、ぜったい、おきてる!」と言った。次の試合は、来年の夏のフランスだった。
田村先生も一時間目の国語の途中で、一度だけ小さくあくびをした。先生は口を手で押さえて、「ごめんね、先生も、ちょっと寝不足」と言った。教室じゅうが笑った。
◇
雨は、三時ごろにやんだ。
帰り道は、傘をたたんで歩いた。空はまだ灰色で、田んぼの一本道の水たまりに、低い雲が映っていた。
八月に小石を五つ落とした用水路の縁で、足が止まった。水かさが上がって、岸の枯れ草が流れのほうへ寝ていた。濁った水の底は見えなかった。流れに乗った稲わらが一本、くるりと回って先へ行った。ランドセルを背負い直して、また歩きだした。
家に帰ると、ナップザックの内側の小さなポケットから、六つ目の小石を出した。
決勝の日から、入れっぱなしだった。灰色で、片側だけが平たい小石。八月の選ばれなかった日の帰り道に、用水路に落とさずに握って帰った小石だ。
手のひらにのせて、一度握った。それから、机の引き出しの鉛筆と消しゴムのあいだに戻した。捨てる気には、ならなかった。
夕方、父が帰ってきた。
玄関の戸が開く音がして、廊下に父の足音がした。いつもより早かった。作業着の裾が、泥で汚れていた。父は洗面所に行く前に、居間に入ってきた。脇に、新聞を何部も抱えていた。
「スポーツ新聞だ。コンビニで、三つ買った」
父は食卓の上に、新聞を三部並べて広げた。インクの匂いがした。三部とも、一面に青いユニフォームの大きな写真が載っていた。大きな見出しの文字が、紙面の半分を埋めていた。食卓の端から背伸びしても、大きすぎる見出しは半分しか見えなかった。
父は三部の新聞を、端から順番に一枚ずつめくっていった。写真のページに来るたびに、めくる手が止まった。
母が台所から顔を出した。
「お父さん、手、洗ってから」
「ん」
父は返事をしたが、動かなかった。母はあきれた顔をして、台所に引っこんだ。しばらくして、父はようやく洗面所へ行った。水の音がした。
食卓には、三部の新聞が広げたまま残っていた。いちばん手前の一部を、自分のほうへ引き寄せた。紙は思っていたより薄くて、端を持つとすぐにたわんだ。青い写真の上を、指でなぞってみた。指の腹がうっすら黒くなった。
「さくも、あとで手、洗いなさいよ」
台所の母はこちらに背中を向けたままだった。
夕飯のあいだも、父はスポーツ新聞を手放さなかった。母に「お父さん、ごはんのときくらい」と言われて、ようやく新聞を膝の上に置いた。置いたまま、ときどき見下ろしていた。
テレビでは、夕方のニュースが始まっていた。最初のニュースは、北海道の大きな銀行だった。つぶれたのだという。
アナウンサーの顔が、硬かった。
父の箸が止まった。顔を上げて、テレビを見た。膝の上の新聞が、ずり落ちかけた。
俺は父の横顔を見ていた。来週には大きな証券会社がつぶれることを、知っていた。
父はしばらくテレビを見ていた。それから膝の上の新聞に目を戻して、端をそろえるように畳み直した。箸を取って、残りのごはんを食べた。
「学校、眠くなかったか」
新聞を見たまま、父が訊いた。
「……ねむかった」
父は新聞から顔を上げずに、小さく笑った。
布団に入る前に窓を開けると、雲が切れはじめていた。その切れ目に、星が一つだけ見えた。
◇
十一月十八日の火曜日は、朝から晴れていた。
昨日の雨が、空気の中のほこりを全部洗い流してしまったみたいに、窓の外の景色がくっきりしていた。
階段を降りると、食卓で父が新聞を広げていた。今朝の新聞にも、青いユニフォームの写真が大きく載っていた。
台所で、母が炊飯器の蓋を開けた。白い湯気が天井まで上がって、母は流しの上の窓を細く開けた。外の冷えた空気が床を伝って、靴下の足首まで来た。窓のすきまから、外の明るさが細く入っていた。
父の手には、はさみがあった。
父は今朝の記事を、丁寧に切り抜いていた。写真の四角い輪郭どおりに、はさみをゆっくり動かして。紙を切る音が、静かな台所に続いた。それから、テレビの横の棚から青いファイルを出して、新しい透明なポケットに入れた。
胸ポケットのボールペンを抜いた。余白に、日付を書いた。日付の下に、もう一行、何かを書き足した。
俺は食卓の自分の席に座った。父の手もとは、見ようと思えば見える距離だった。
見なかった。
読まなくても、よかった。
父はファイルを閉じて、背表紙を親指で一度押した。それから、棚に戻した。
学校へ行く前の十五分、いつものように、家の横の塀の前に立った。
駐車スペースには、まだ父の白い車が停まっていた。車の後ろから、塀までは三歩。昨日の雨と夜の霧で、塀のブロックはまだ湿っていて、いつもより色が濃かった。六月に描いたチョークの枠は、雨に流されて、ほとんど見えなくなっていた。腰の高さに、ボールの跡の重なりだけがぼんやりと残っていた。九日の朝、出かける前の父が触れていったあたりだった。
朝の光が、低いところから塀を照らしていた。
三号球を、右足の前に置いた。蹴った。ボールは塀に当たって、ぽん、と雨上がりの湿った音を立てた。戻ってきたボールを、左の足の裏で止めた。左で蹴った。右で止めた。右、左、右、左。
濡れた三号球を蹴るたびに、表面の水が細かく散った。靴の内側の布が濡れて、色を変えていった。縫い目には、アスファルトの砂粒が入りこんでいた。左で蹴ったボールは、濡れているぶんだけひと呼吸遅れて塀から返ってきた。
玄関の戸が開く音がした。
父が出てきた。作業着を着て、工具の入った鞄を肩にかけていた。安全靴の底が、濡れた地面を踏む音がした。父は車のほうへ歩いていった。
車のドアの前で、父は立ち止まった。鞄を、車の屋根の上に置いた。
それから、こちらへ歩いてきた。塀の前の、俺の横まで。
父の目が、塀のボールの跡の上で止まった。
「……お前、毎朝、これ、やってるのか」
「うん。がっこうの、まえと、かえってから」
父はしばらく塀を見ていた。それから、俺の足もとのボールを見た。
「……貸してみろ」
俺は足もとのボールを、父のほうへ転がした。
父はボールを右足の裏で止めた。安全靴の、ごつごつした底で。それからボールを見下ろして、軸足の左をボールの横に置いた。
一年半前の五月、スポーツ用品店の駐車場で、父は言葉を使わずにこの軸足の置き方を見せてくれた。それを見て、俺はまっすぐ一本、父へ蹴り返した。
父が蹴った。右足の内側で。
ボールは、まっすぐ俺の足もとへ転がってきた。安全靴で蹴ったとは思えないくらい、やわらかいボールだった。
俺は右足の裏で止めた。それから、右足の内側で、父の足もとへ返した。
父が止める。父が返す。俺が止める。俺が返す。
父と蹴るのは、駐車場の、あの一本以来だった。
朝の光の中で、ボールが行って、戻ってくる。父の安全靴がボールを止めるたびに、濡れた地面がじゃりっと鳴った。
何本目かで、父が車のほうを見た。腕時計に目を落とした。
それから、もう一本、蹴ってきた。
そのボールが、俺の左側へ転がってきた。
わざとだった。父の軸足の向きで、分かった。父は俺の左足のほうへ蹴ったのだ。
俺は体を半分だけ横に向けた。ボールが左足の前に来た。左の足の裏で止めて、左足の内側で、父の足もとへ返した。
まっすぐに。揺れずに。
父の安全靴のちょうどつま先の前で、ボールが止まった。
父はボールを見下ろしたまま、しばらく動かなかった。
それから、鼻から短く息を抜いた。
「……母さんの、言ったとおりだ」
父はそう言って、もう一度、ボールを俺の左へ転がした。
俺は、左で返した。
父が、右で返す。俺が、左で返す。右。左。右。左。
父の顔は、見なかった。見なくても、分かった。
台所の窓が、少しだけ開いていた。母がそこにいるのかどうかは、分からなかった。
塀の前の濡れた地面の上を、朝の低い光の中を、父と俺のあいだを、ボールが行って、戻ってくる。




