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観るだけだった俺の、二周目のサッカー人生 —— 「やっておけばよかった」を、六歳から取り返す  作者: 八夜巡
第2章 小学二年生

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第49話 十一月十七日、午前零時半

 延長戦が始まって、すぐだった。


 長い髪の選手が、ボールを持って抜け出した。イランの守りの選手が追いかけたが、背中との間はみるみる開いていった。走るたびに、長い髪が後ろへなびいた。スタンドの音が、テレビのスピーカーの中でふくらんでいく。前には、キーパーしかいなかった。


 一対一。


 父がソファから腰を浮かせた。毛布の下で、俺の足の指が丸まった。


 キーパーが、両手を広げて前に出てきた。長い髪の選手が蹴った。ボールはキーパーの体に当たって、跳ね返った。


「あー!」


 父の声と一緒に、浮かせた腰がソファにどすんと落ちた。テーブルの湯呑みが、かたりと鳴った。


 壁の時計の針が、ちょうど十二時を回ったところだった。日付が変わった。十一月十七日、月曜日。いつもなら、とっくに眠っている時間だった。目は、冴えたままだった。


 居間の壁のカレンダーの十六日には、鉛筆の小さな丸と、その上から重ねたボールペンの丸がついていた。その丸はもう、きのうの日付についていた。隣の十七日のます目には、何も書いていなかった。そのます目の中に、俺たちはもう入っていた。


「……月曜日に、なっちゃったわね」


 母が時計を見上げた。父は「ああ」とだけ言って、画面を見たままだった。


 長い髪の選手は、そのあとも何度も前へ走った。足が速いから、イランの守りの選手が追いつけない。何度でも、ゴールの近くまで行けた。そのたびに父の背中がソファから離れて、ボールを奪われると、また背もたれに戻った。


「あいつ、速いな」


「速いけど、入らないのね」


 父のつぶやきに、母がぽつりと返した。父の肩がぴくりと動いた。母はそれ以上言わずに、湯呑みを両手で包んだ。


 延長は、前半と後半が十五分ずつある。アナウンサーの声が、だんだん高くなっていった。次の一点で、決まります。次の一点で。同じことを、何度も言っていた。


 前半の十三分ごろだった。


 また抜け出した。キーパーと一対一になりかけた。横には、味方の若い司令塔がいた。


「打て」


 父の口から、低い声が出た。


 長い髪の選手は、蹴らなかった。横の司令塔へ、パスを出した。そのパスは、イランの守りの選手にクリアされた。


「なんで、打たないんだ!」


 父は叫んで、両手で自分の膝を叩いた。ぱん、と大きな音がした。母が湯呑みを押さえた。


「打てば、いいんだ。打てば。なんで、出すんだ」


 父はテレビに向かって言っていた。画面の中の長い髪の選手に、届かない声で。


 先週の日曜の決勝で、蓮は打てる道を一本残したまま、俺を見て出した。遠いほうの柱の前へ転がってきたあのボールを、俺は左足の内側で蹴った。毛布の中で、左足の内側にあのボールの手ごたえが戻ってきた。


 俺は毛布の下で膝を抱えていた。父のパジャマの膝に、叩いたところだけしわが寄っていた。


「お父さん、膝、痛くないの」


「……痛い」


 父は画面を見たまま答えて、膝をさすった。母の肩が、小さく揺れた。


 前半の終わり間際だった。


 ゴールの前で、長い髪の選手の目の前にボールがこぼれた。蹴った。ボールは、バーの上を大きく越えていった。


 父が両手で頭を抱えた。指が、髪の中に食いこんでいた。


 声は、出なかった。居間がしんとした。


 画面が、日本のベンチを映した。十月に監督になったばかりの人が、両手で頭をかきむしっていた。


 延長の前半が、終わった。


   ◇


 前半が終わる笛と同時に、父が立ち上がった。


 台所で、蛇口をひねる音がした。明かりの中で、父の背中が丸く見えた。父はコップに水を汲んで、立ったまま一息に飲んだ。流しにコップを置く、こつん、という音がした。


 俺も喉がからからだった。毛布から手を出して、湯呑みのほうじ茶を一口飲んだ。冷めて、苦かった。


 戻ってきた父の目が、毛布にくるまった俺の顔の上で一度止まった。


 寝ろ、と言われるのかと思った。毛布の端を、両手でつかんだ。


 父はそのままソファに座った。膝に肘をついて、前にかがんだ。


 座るとき、父はソファに垂れていた毛布のもう一方の端を、自分の膝へ引き寄せていた。前にかがんだ父の肘の下に、その端が挟まった。父が身を乗り出すたびに、俺の肩の毛布がそっちへ引っぱられる。引っぱられるままにしておいた。


 延長の後半が始まった。


 後半の五分ごろだった。


 ゴールの前で、日本のフォワードとイランのキーパーがぶつかった。九十分のうちに、頭で同点のゴールを決めた選手だった。


 フォワードが倒れた。なかなか起き上がらなかった。


 父が息を止めた。母も、止めた。


 しばらくして、フォワードが起き上がった。ふらふらと、頭を押さえて。チームの人が駆け寄って、何か話しかけていた。父も自分の頭の同じところを、手のひらでさすっていた。


「頭、打ったんでしょ。休ませないの?」


「……代えられないんだ。もう、三人、代えてる」


 父は前にかがんだまま、画面に向かって低く答えた。


 フォワードは頭を押さえたまま、ピッチに戻っていった。足の運びが、さっきまでと違っていた。若い司令塔がその頭を両手で抱えるようにして、何か声をかけていた。


 時計が進んでいく。俺は壁の時計とテレビを、交互に見ていた。零時二十分を過ぎた。父も一度だけ、時計を見上げた。隣で、父の喉がごくりと鳴った。


 後半の十二分ごろだった。


 イランが、日本のゴールの前へボールを運んできた。


 イランの大きなフォワードが、シュートを打った。


 ボールが日本のゴールへ飛んでいった。父の両手が、膝をつかんだ。母が息をのむ音がした。


 父の体が固まった。俺の体も、固まった。


 ボールは、バーの上をかすめるように越えていった。


 指一本ぶん、上だった。


「……もう、見てられない」


 母はそうつぶやいたが、画面から目を離さなかった。


 父が息を吐いた。長く、長く。肩が、ゆっくりと下がっていった。


 俺も息を吐いていた。いつから止めていたのか、分からなかった。毛布の下で握りしめた手のひらが、汗で濡れていた。


 父の横顔を見た。こめかみに、汗が光っていた。唇が乾いて、白くなっていた。


 だいじょうぶだよ。


 そう言おうとして、息を吸った。口を開いた。声が、出てこなかった。


 吸った息が、開いた口からそのまま抜けていった。毛布の下で、濡れた手を握り直した。もう一度、口を開いた。だい、の形のまま、唇が動かなくなった。唾を飲みこむと、喉が鳴った。さっき隣で聞いたのと、同じ音だった。


 父は画面を見ていた。俺が何か言いかけたことには、気づかなかった。


   ◇


 残りは、三分もなかった。壁の時計の針が、零時半に近づいていた。


 アナウンサーが、残りの時間を口にした。父は前にかがんだまま、動かなかった。


 母もクッションを胸に抱えたまま、ソファの端で前かがみになっていた。父と母と俺の頭が、テレビのほうへ並んで傾いていた。


 若い司令塔が、遠めから蹴った。


 イランのキーパーが、弾いた。


 ボールが、ゴールの前へこぼれた。


 そこに、走りこんでくる影があった。


 長い髪の。


 延長の前半に、一対一で止められた。打たずに出した。こぼれ球を、バーの上へ外した。


 その選手が、滑りこんだ。


 足を伸ばして。こぼれたボールに。


 ボールが、ゴールの中に転がった。


 ネットが揺れる前に、画面の端で、日本のベンチの人たちがいっせいに飛び出していた。九十分のうちに下げられたエースも、その中にいた。


「——っ」


 父の口から、音が漏れた。


 それから、叫んだ。


「っし!」


 押し殺していなかった。


 三月の夜、布団の中で床越しに聞いた父の声は、押し殺されていた。誰にも聞かせないように、口の中で潰した声だった。あのとき俺は布団を顎まで引き上げて、ひとりで顔をゆるめた。


 今夜の父の声は、居間じゅうに響いた。床を抜けて、二階の部屋まで届きそうな声だった。


 俺も、叫んでいた。


「入った!」


 自分の声が父の声と重なった。入ったと言ったのか、勝ったと言ったのか、自分でも分からなかった。気がつくと、二人とも立ち上がっていた。七歳の声で、思い切り叫んでいた。


 知っている結果のことなんか、頭のどこにもなかった。さっきまで毛布の下で握りしめていた手と、隣で叫んでいる父だけがあった。


 父の手が、俺の肩をつかんだ。


 大きくて、重くて、熱い手だった。


 去年の十二月の暗い居間で、父の手は俺の頭に一瞬だけ乗って、すぐに離れた。今夜の手は、離れなかった。俺の肩をぎゅっとつかんだまま、揺さぶっていた。揺さぶられるたびに、俺の頭ががくがく揺れた。


「入った! 入ったぞ、朔! 入った!」


 父は俺の肩をつかんだまま、テレビに向かって叫んでいた。顔が、真っ赤だった。


 ソファの端で、母が両手で口を押さえていた。押さえた手の下で、笑っていた。笑いながら、目の端を指で拭っていた。


 テレビの中で、アナウンサーが言葉にならない声で叫んでいた。青いユニフォームの選手たちが、一つの輪になっていた。輪の真ん中に、長い髪の選手がいた。みんなが、その上に覆いかぶさっていた。スタンドの青い人たちが跳ねて、旗が揺れていた。画面の端では、イランの選手たちが審判を囲んで何か言っていた。試合が終わったことを、まだ分かっていないみたいだった。


 日本が、ワールドカップに出る。


 初めて。


 父はもう叫んでいなかった。立ったままテレビの中の輪を見て、何度も、何度もうなずいていた。肩の上の手は、まだそこにあった。父の指が、パジャマの上から肩に食いこんでいた。


「……だいじょうぶ、だったな」


 画面を見たまま、父がぽつりと言った。


 肩の手に、一度だけ力がこもった。俺は、うなずいた。


 二人で、ソファに座り直した。テレビは同じゴールを、何度も映した。滑りこむ足。転がるボール。ネットより先に飛び出すベンチ。映るたびに、父は自分の膝を軽く叩いた。母は画面と父の顔を、交互に見ていた。


「膝、痛いんじゃなかったの」


 母に言われて、父は膝を叩く手を止めた。叩いていた自分の膝に、目を落とした。


「……もう、痛くない」


 母は膝のクッションに顔をうずめた。うずめた顔の向こうで、背中が小刻みに揺れていた。


 父は床に目をやった。立ち上がったときに落ちたのか、青いファイルがソファの足もとに斜めに転がっていた。父はそれを拾い上げて、表紙をジャンパーの袖でぬぐった。それから、自分の脇に置き直した。


 壁の時計を見た。十二時半を、少し過ぎていた。


 クウェートとの試合が始まったのも、夜中の十二時半だった。目覚まし時計を一時に合わせて起きて、父の毛布に入れてもらって、負けるのを観た夜。


 一年前と同じ時刻に、今年の試合は終わった。


   ◇


 父の脇で、青いファイルが閉じたままになっていた。今夜の記事も、きっとそこに入る。


 一度目のファイルでは、この試合のページの余白に、日付しか書いていなかった。


 二〇一八年の春、父の部屋で初めて開いた三冊のファイル。黄色く変わったセロハンテープで、何度も背を補強してあった。日本代表の記事が二十年あまり分あって、どの記事の余白にも、父の角ばった字で日付が書いてあった。この夜の記事にも。


 日付だけ。


 初めてめくったときは、そのページも、ほかのページのように通り過ぎた。一度目の七歳の俺は、この夜、二階の布団の中で眠っていた。父がたぶんこの居間で、一人きりでこの試合を観ていたことも、知らなかった。


 今度は、隣にいた。


 肩の上の手は、いつのまにか離れていた。父がリモコンを取って、テレビの音を大きくした。


「お父さん、夜中よ」


 母に言われて、父は音を一つだけ小さくした。ソファの背にもたれて、天井を見上げた。長く息を吐いて、両手で顔をこすった。それから、こちらを向いた。目が合った。


「……寝ろ。明日、学校だ」


 そう言いながら、父は笑っていた。こすったばかりの頬が、赤くなっていた。


 母が床に落ちていた毛布を拾って、畳んだ。「はい、もう寝る時間、とっくに過ぎてるわよ」と言って、俺の背中を押した。


 廊下に出て、居間の戸を引いた。閉まりきる前の細いすきまから、中が見えた。父はまた、テレビのほうへ身を乗り出していた。画面の中では、若い司令塔がマイクの前で、落ち着いた声で何か答えていた。父の横で、母も画面をのぞきこんでいた。


 階段を上った。二階の部屋に入って、布団にもぐりこんだ。電気は、つけなかった。


 布団の中は冷たかった。体のほうは、まだ熱かった。肩に、父の手の形が残っていた。


 自分の手を、肩に当ててみた。俺の手は小さすぎて、父の手の形をなぞりきれなかった。目を閉じると、まぶたの裏で、ボールがもう一度ゴールの中へ転がった。長い髪の選手が、何度でも滑りこんだ。


 布団の中で、右の足をそっと伸ばしてみた。かかとが敷布の上を滑って、まだ冷たいところまで届いた。テレビの中の足は、もっとずっと先まで伸びていた。校庭の土の上なら、膝の皮がむけるところだ。足を引き戻して、もう一度伸ばした。敷布がしゅっと鳴った。


 階段の下から、テレビの音が聞こえていた。アナウンサーの興奮した声。歓声。その合間に、父の声が小さく聞こえた。何を言っているのかは分からなかった。母の笑い声も、ときどき混じった。


 窓の外で、いつのまにか雨が音を立てはじめていた。


 屋根を叩く細かい雨の音と、床越しに聞こえるテレビの音が、同じくらいの大きさで暗い部屋に満ちていた。


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