第48話 午後十時
部屋の戸が開いた。
廊下の明かりが細い線になって、布団の上に伸びてきた。その線の中に、人の影が立っていた。
壁の時計の針は、九時五十五分を指していた。布団に入ってから一時間近く、その針の音を聞いていた。父が階段を上がってくる足音には、気づかなかった。
「朔」
父の声だった。
小さな声だった。眠っている子どもを起こさないように気をつけている声。それでいて、起きていてほしいと思っているようにも聞こえた。
「……起きてるか」
俺は布団の中で体を起こした。
「……うん」
父は戸の隙間に立ったまま、しばらく黙っていた。廊下の明かりを背中から受けて、顔はよく見えなかった。パジャマの上に、作業用の紺のジャンパーを羽織っているのが分かった。
「……観るか」
短い言葉だった。何を、とも、どこで、とも言わなかった。言わなくても分かった。
一度目の六歳の春、父は「やってみるか」と言った。サッカーを。俺は「いい」と答えた。それきり父は、十二歳の夏の切符の夜まで、俺をサッカーに誘わなかった。その夜も、俺は断った。
父は戸の枠に片手をかけたまま、俺の答えを待っていた。布団の端を握った指が、震えていた。
布団をはねのけた。
「うん」
自分の声が、暗い部屋の中で、思ったより大きく響いた。
父は戸を大きく開けて、先に階段を降りていった。俺はその後ろについていった。廊下の床が、足の裏に冷たかった。手のひらだけが熱かった。父の足は、いつもよりゆっくり段を降りていた。階段の途中で、父は一度振り返った。俺がついてきているのを確かめると、また前を向いた。
前を行く父の背中から、ジャンパーの匂いがした。機械の油と、木の削りくずと、外の空気の混じった匂い。毎日、父が仕事から連れて帰ってくる匂いだった。
居間の明かりがついていた。テレビの中で、アナウンサーが早口に何か言っていた。
居間は暖かかった。部屋の隅で、春から物置にしまわれていた石油ストーブに、この冬初めての火が入っていた。小さな窓の奥で、青い火が輪になっている。
台所から母が出てきた。父の後ろに立っている俺を見て、目を丸くした。
「ちょっと。明日、学校でしょ」
「今日だけだ」
母は父の顔を見て、俺の顔を見た。手に持っていた布巾を流しの縁に掛けて、黙って寝室へ行った。
父はソファの真ん中に座った。俺はその隣に座った。
戻ってきた母は、両手に毛布を抱えていた。それを俺の膝の上に、ばさりと掛けた。それから台所へ行って、湯呑みを三つお盆にのせて持ってきた。ほうじ茶の香ばしい匂いがした。
「今日だけですからね」
母は父にそう言って、ソファの端に座った。クッションを膝に抱えて、自分も観るつもりらしかった。
膝の毛布は昼間に干したもので、ふくらんで軽かった。父がもう一度立ち上がって、テレビの前にしゃがんだ。テレビ台の下の段から新しいビデオテープを一本出して、背のラベルにボールペンで日付と「イラン」と書いた。デッキに差しこむと、機械がテープを飲みこんで低くうなった。父はボタンを何度か押して、録画の速さを三倍に切り替えた。それから録画のボタンを押した。デッキの小さなランプが赤くついた。父はそれを確かめてから、ソファの真ん中に戻ってきた。
毛布の端と父の膝のあいだに、こぶし一つぶんの隙間があった。父の向こう側の脇には、青いファイルが置いてあった。閉じたまま、父の太ももにくっつくように。
◇
十時を過ぎて、試合が始まった。父がリモコンで、テレビの音を二つ下げた。
テレビの中のスタジアムは青かった。スタンドのほとんどが、青い服を着た人で埋まっていた。日の丸の旗があちこちで揺れて、太鼓の音がテレビのスピーカーから響いてくる。
「……日本みたいだな」
父がつぶやいた。マレーシアの町なのに、スタジアムは日本のホームのようだった。
居間の窓ガラスに、いつのまにか細かい粒がついていた。雨が降りはじめていた。音も立てないくらいの、弱い雨だった。
雨粒の向こうに、よその家の明かりがいくつか見えた。田んぼをはさんだ遠くの家まで、どの窓もまだ明るかった。日曜の、夜の十時だった。
前半は、どちらにも点が入らないまま進んだ。イランには、大きなフォワードがいた。その選手にボールが渡るたびに、父の体がソファの上で前に傾いた。
「あの大きい人、だれ?」
母が訊くと、父は画面から目を離さずに答えた。
「イランのエースだ。あいつが、いちばん怖い」
イランのシュートが外れるたびに、父は長く息を吐いた。
「お父さん、頭。見えない」
母に言われて、父は黙って体を引いた。何分もしないうちに、また前に傾いていた。
「向こうは、暑いのかしらね。こっちは雨なのに」
「……冬が、ないんだ」
テレビに顔を向けたまま、父が答えた。母は「あら、そう」と言って、抱えたクッションの角を指でつまんだ。画面の向こうは夏で、窓の外は十一月の雨だった。
前半の三十九分だった。
日本の若い司令塔が、相手の守りの選手のあいだに、まっすぐなパスを通した。そこにベテランのフォワードが走りこんでいた。十一月八日のカザフスタン戦で、二年あまりぶりに代表に戻ってきて点を取った人だ。
フォワードが蹴った。
ボールが、ゴールの中に入った。
「よし!」
父の拳が上がった。膝の上で握っていたものを、ぐっと突き上げるように。湯呑みのお茶が揺れて、母が「あら」と自分の湯呑みを押さえた。
一対〇。
気がつくと、膝の上の毛布の端が、俺の手の中でしわになっていた。父は拳を下ろしてから、もう一度小さく握った。
「よし」
声が、かすれていた。
母はクッションを抱えたまま、自分のお茶を一口飲んだ。
前半は、そのまま一対〇で終わった。
ハーフタイムに、父はほうじ茶を一口飲んで、窓のほうを見た。暗いガラスに、細かい粒がいくつも光っていた。
「……降ってきたな」
「洗濯物、昼のうちに入れといてよかった」
母が言うと、父はテレビに目を戻した。顎に伸びたひげが、テレビの光で青く見えた。俺もほうじ茶を一口飲んだ。熱くて、舌の先がしびれた。
「……寒くないか」
「……さむくない」
父は小さくうなずいて、湯呑みをテーブルに戻した。母が台所へ立った。やかんを火にかける音がした。後半が始まる前に、母は三つの湯呑みに、熱いほうじ茶を注ぎ足して回った。
そのあいだに、トイレに行った。腰を下ろした便座が氷みたいに冷たくて、背中まで縮みあがった。急いで居間に戻ると、ストーブの熱が頬に当たった。父は前かがみのまま、俺が隣に座れるように膝を横へずらして待っていた。テレビの中では、選手たちがピッチに戻ってくるところだった。
◇
後半が始まって、すぐだった。イランに、一点を返された。
一対一。
まだ一分もたっていなかった。父の、先制のときに握った拳が、膝の上で止まっていた。父はソファの上で、一度座り直した。
後半の、十三分ごろだった。
ゴールの前で、イランの大きなフォワードが高く跳んだ。ボールがその頭に当たって、日本のゴールに入った。
一対二。
父の体が、ソファの背に沈んだ。画面の端に映った日本のベンチでも、誰も動かなかった。クッションを抱く母の腕に、力が入った。壁の時計は、十一時二十分を指していた。
毛布の下で、俺の手が冷たくなっていた。
結果は、知っている。
それなのに、テレビの左上の隅の、白い数字から目が離れなかった。一と、二。日本が一で、イランが二。その二つの数字が、頭の中にある結果より、ずっと重かった。
両手を握った。冷たい指を、冷たい手のひらに押しつけた。押しつけても、どちらも温まらなかった。靴下の中で、足の指も冷えていた。膝が、勝手に揺れていた。止めようとしても、止まらなかった。息を吸っても、胸の上のほうまでしか入ってこなかった。
父の顔を、横から見た。父は口を半分開けたまま、画面を見ていた。十月二十六日の、テレビを消したあとの黒い画面に映っていた顔に、近づいていた。
後半の、十八分だった。
日本のベンチが動いた。二人の選手が交代の札の前に立って、二人の選手がピッチから下がってきた。
一人は、先制点を取ったフォワードだった。
もう一人は、ベテランのエースだった。九月七日に、一試合で四点を取った人。父が「あいつ、四点だぞ」と言って立ち上がった人。
「……エースを、下げるのか」
父の声が、低く漏れた。信じられない、という声だった。母が父の横顔を見た。
エースが、ピッチの外へ歩いていった。代わりに、二人のフォワードが入った。二人とも、エースより若かった。画面の中で、日本の後ろの並びも変わっていた。四人いた列が、三人になっていた。
「エースなのに、代えちゃうの?」
母が小さな声で訊いた。父は答えずに、膝の上で両手の指を組んだ。祈るみたいに。組んだ指の関節が、白くなっていた。
母がクッションを置いて立ち上がり、ストーブの前にしゃがんだ。つまみを回すと、小さな窓の奥の青い輪が細くなった。部屋はいつのまにか、暑いくらいになっていた。母はソファの端に戻って、クッションを膝にのせた。
日本が攻めはじめた。入ったばかりのフォワードたちが、何度もゴール前へ走りこんだ。イランが跳ね返す。また攻める。また跳ね返される。後半の二十分が過ぎ、二十五分が過ぎた。
「……まだだ」
組んだ指に向かって、父がつぶやいた。
壁の時計は、十一時半に近づいていた。
毛布の下で、いつのまにか俺の指も組まれていた。ほどこうとしたが、冷えて固まった指は、うまくほどけなかった。
湯呑みに手を伸ばしかけて、やめた。指が、うまく動きそうになかった。注ぎ足してもらったほうじ茶は、一口も減らないまま冷めていた。母はテレビではなく、父の横顔を見ていた。父の太ももの脇で、青いファイルがソファのへこみに沿って傾いていた。父は気づいていなかった。
後半の、三十一分だった。
ゴールの前に、ボールが上がった。さっき入ったばかりのフォワードが、走りこんでいた。
跳んだ。
頭に、当たった。
ボールが、ゴールの中に吸いこまれた。
二対二。
父が立ち上がった。
俺も、立ち上がっていた。いつ立ったのか分からなかった。毛布が膝から床に落ちた。
父と俺は、テレビの前に並んで立っていた。
父は声を出さなかった。口だけが開いていた。出せなかったのかもしれない。両手を握りしめて、ただ立っていた。肩が大きく上下していた。俺も声を出さずに、父の隣に立っていた。冷たかった指の先が、じんじんしはじめていた。
ソファの端で、母が何か言いかけた。
「ちょっと、二人とも、静かに——」
言いかけて、母は笑いだした。二人とも、何も言っていなかった。静かにする必要なんて、どこにもなかった。母は声を出さずに立ちつくしている父と息子を見て、肩を揺らして笑っていた。
父がゆっくりとソファに座った。俺も座った。母が床の毛布を拾って、俺の膝にもう一度掛けてくれた。毛布の端が、父の膝の上にもかかった。こぶし一つぶんの隙間は、なくなっていた。
残りの十五分ほど、父は一度も背もたれに寄りかからなかった。膝にかかった毛布の端を、父は払いのけなかった。どちらにも、もう点は入らなかった。
途中で一度、父の目がテレビの下へ動いた。デッキの録画のランプは、ついたままだった。父の目はすぐに画面へ戻った。母がそれに気づいて、俺のほうへ顔を向け、眉を上げてみせた。
◇
九十分が終わった。
二対二。
笛が鳴って、選手たちがピッチの上で水を飲んでいた。延長戦に入るのだ。
「まだ、やるの?」
母がクッションを抱え直して訊いた。
「Vゴールだ」
画面を見たまま、父が答えた。
「先に入れたほうが、勝ちだ」
六月の朝、父は新聞の小さな記事を読んで「Jと同じだな」と言った。若い代表がこの町で、Vゴールで負けた記事だった。
あの町で、Vゴール。
父はそのことに気づいているのだろうか。分からなかった。父はただ、画面を見ていた。片手だけが、傾いていたファイルを起こして、その上に置かれた。手の甲の、六月に見た擦り傷は、もう白い線になっていた。
延長戦の前に、日本がもう一人、選手を代えた。入ってきたのは長い髪の選手だった。足が速いことで知られている選手だった。
壁の時計を見た。十二時に近づいていた。
父がこちらを向いた。
「……寝るか」
父の目が、壁の時計と俺の顔を、一度ずつ見た。もう十二時になる。月曜日には学校がある。本当に寝かせるかどうか、父のほうが決めかねているような顔だった。
「……ねない」
俺は首を振った。
父はしばらく俺の顔を見ていた。それから、またテレビのほうを向いた。母が俺の膝の毛布を肩まで引き上げてくれた。毛布の中は、さっきより温かかった。
母がいつのまにか淹れ直してくれたほうじ茶が、湯呑みの中で湯気を立てていた。
延長戦の笛が鳴った。
長い髪の選手が、ピッチの上を走りだした。




