第47話 左で
玄関の戸が開く音がしたのは、夜の八時を過ぎてからだった。
十一月九日の日曜日。決勝が終わって家に帰ってきてから、もう五時間以上たっていた。夕飯は母と二人で先に食べた。父の分は、ラップをかけて台所に置いてある。
父は玄関で安全靴を脱ぐと、まっすぐ洗面所へ行った。水の音がした。父はいつも、帰ってくるとまず洗面所で、ひじまで手を洗う。
居間に入ってきた父の作業着は、膝のところが白く擦れていた。
「おかえりなさい」
母が台所から出てきた。父が「ん」と答えるより先に、母が言った。
「さく、決めたのよ。左で」
父の足が止まった。
居間の入口で、作業着のまま。父は母の顔を見て、それからソファに座っている俺のほうを見た。
「……左で、か」
「そうよ。決勝点。左の足で。もう、すごかったんだから」
母は台所のタオルを手に持ったまま、身ぶりを交えて話しはじめた。話したのは、見てきたことだけだった。その話が、何度も同じところへ戻った。
「岳くんがね、さく、って呼んだのよ。あの子、いつも、みかみくん、だったでしょう」
そこで、母の声が詰まった。
父は黙って聞いていた。居間の入口に立ったまま、母の話が終わるまで、一度も口を挟まなかった。
話が終わると、父は棚のほうを見た。
テレビの横の棚の上に、小さなトロフィーが置いてあった。プラスチックの台座に、ボールを蹴る金色の子どもの人形。チームのトロフィーだったが、園田さんが「今夜は、朔くん、持って帰りな」と俺に持たせてくれたのだ。明日の朝、学校に行く前に園田さんの家へ返しに行くことになっていた。
父は棚の前まで歩いていって、トロフィーを片手で持ち上げた。思っていたより軽い、という顔を、父もした。父の大きな手の中で、トロフィーはいっそう小さく見えた。
父はトロフィーを目の高さまで上げて、しばらく見ていた。金色の人形の、ボールを蹴っている右足。台座に貼られた、手書きの文字の紙。
それから、父の親指が台座の角を押した。一度だけ。
父はトロフィーを棚に戻して、俺のほうを見た。何か言うのかと思った。父は首の後ろをかいて、「風呂、入る」と言うと、廊下へ出ていった。
母が俺の顔を見て、肩をすくめた。
「もう。何か言えばいいのにね、お父さん」
俺はソファの上で、左の足首を回してみた。左の足が、まだ昼の熱を持っているような気がした。
風呂場のほうから、湯船にお湯を足す音が聞こえてきた。いつもより長く聞こえていた。
◇
次の日の朝、トロフィーを園田さんの家に返しに行った。
母が紙袋に入れてくれたトロフィーを、両手で抱えて歩いた。歩くたびに、紙袋の底で台座がことことと鳴った。袋の口から、金色の人形の頭がのぞいていた。
ランドセルを背負ったまま、田んぼの一本道を学校へ向かった。稲を刈ったあとの田んぼでは、刈り株の列から細い青い芽がまた伸びていた。登校する子たちを、何人か追い越した。黄色い帽子の一年生が二人、袋からのぞく金色の頭を指さしていた。
「あれ、なに」
「きんの、ひと」
俺は袋の口を指で寄せて、足を速めた。
園田さんの家は、学校の裏の古い団地の一階だった。玄関に出てきたのは航で、パジャマのまま、寝ぐせのついた頭をかいていた。
「とうちゃん、まだ寝てる。きのう、うれしくて、飲みすぎたって」
航はトロフィーを受け取って、にやりと笑った。
「左、すごかったって。とうちゃん、ずっと、その話してた」
「……うん」
ほかに何も出てこなかった。航はトロフィーを脇に抱えたまま、片手を上げて戸を閉めた。団地の前の道を歩くあいだ、顔がずっと熱かった。空になった紙袋は、小さく畳んでポケットに押しこんだ。
その週は、学校でもテレビでも、次の日曜日の夜の試合の話ばかりだった。
朝のテレビのニュースが、毎日マレーシアの町を映した。青い服を着た日本人が何千人も、海を渡ってその町へ向かっているのだという。ジョホールバル、という名前を、アナウンサーが何度も口にした。六月の朝に父が新聞を読みながら「どこだ、それ」と言った町の名前を、今は日本中が言っていた。
教室でも、男の子たちが話していた。
「にちようの、イラン、みる?」
「みる! おとうさんと、みる!」
「よるの、じゅうじだよ。ねちゃうよ」
前歯の子は、どこで覚えたのか、ゴールを決めた選手のまねをしていた。両手を広げて、教室の後ろを走り回っている。日本は、まだ勝っていなかった。
そのあいだに、誰かが黒板の右の隅にチョークで大きく「イラン」と書いた。その横に、もっと大きなばつ。チャイムが鳴って入ってきた田村先生は、それを見て眼鏡を指で押し上げた。先生はばつのほうだけを黒板消しで消して、「イラン」の字は残した。
「日曜日の夜は、ちゃんと寝ること。月曜日に、ねむい顔で来ちゃだめよ」
「えー!」
「せんせいは、みないの?」
「先生は、寝ます」
前歯の子のほうを向いて、先生はやわらかい声で言った。それから、朝の会を始めた。黒板の「イラン」は、帰りの会まで残っていた。
昼休みに、校庭で蓮に会った。蓮は鉄棒にぶら下がって、足をぶらぶらさせていた。
「さく! にちようの、みる?」
「……わかんない。蓮は?」
言ってから、気づいた。
くん、をつけなかった。昨日、蓮が「くん、いらない」と言った。言われたとおりにしようと思っていたけれど、口に出したのは初めてだった。くん、の二文字ぶん、口の中が軽かった。
蓮は鉄棒にぶら下がったまま、にかっと笑った。
「おれ、ねちゃうかも! じゅうじ、おそいもん」
くん、のないことには、蓮は触れなかった。それが当たり前、という顔で、鉄棒からぶらんと飛び降りた。
ひかりは廊下で会ったときに言った。
「おとうさんが、みるって。わたしも、おきてる」
「ねむくならない?」
「ならない。ひかり、きめたもん」
ひかりはそう言って、すたすたと教室へ戻っていった。戸の前で振り向いて、手を振った。その手のひらからは、マジックの線がもう消えていた。
家では、夕飯の食卓で母が言った。
「日曜の夜十時からでしょ。さくは寝るのよ。月曜日、学校なんだから」
父は黙ってご飯を食べていた。それから箸を置いて、食卓の端の新聞の上からボールペンを取った。立ち上がって、居間の壁のカレンダーの前に立った。十六日のところに、鉛筆の小さな丸がついていた。父はその丸の上から、もう一つ丸を描いた。ペンの先が紙をこする音が、食卓まで聞こえた。
母は父の手もとをちらりと見て、それから俺のほうを見た。
「去年の十二月みたいに、夜中にこっそり起きてきちゃだめよ」
母はあの夜のことを知っていたのだ。父が話したのかもしれなかった。
「……うん」
父は食卓に戻って、ボールペンを新聞の上に置き、味噌汁をすすった。テレビでは、またマレーシアの町が映っていた。
◇
怖さは、その週の木曜日の夜に、急にやってきた。
布団の中で、日曜日の試合のことを考えていた。日本は勝つ。延長の最後に、Vゴールで勝つ。俺はそれを知っている。
知っている、はずだった。
この世界は、一度目の世界と違っていた。一度目の俺は少年団に入らなかった。塀の前でボールを蹴らなかった。蓮とも岳とも、ひかりとも陸とも、友だちにならなかった。去年の夏、岳が熱中症で倒れたとき、俺は救急車を呼ばせた。一度目の世界で、あの日の岳がどうなったのか、俺は知らない。
俺がいることで、この世界は少しずつ変わっている。だったら、日曜日の試合も、変わっているかもしれない。
眠気が、どこかへ行った。
考えた。四十年分の頭で、順番に。
俺がしたことは何だ。布団の中で、指を折って数えた。少年団に入った。塀の前でボールを蹴った。公園で友だちとサッカーをした。岳が倒れたとき、救急車を呼ばせた。家の中で、父と母と暮らした。
全部、この町の中のことだ。この家とこの学校と、この公園と田んぼの一本道の中のことだ。日本代表には何も触れていない。テレビの中の選手の誰とも、会ったことすらない。マレーシアの町にも、イランにも、何一つ触れていない。七歳の子どもが埼玉の田舎でボールを蹴ったくらいで、マレーシアの延長戦の結果が変わるはずがない。だから、変わらない。変わらない、はずだ。
はず、としか言えなかった。
はずがない、と何度も自分に言い聞かせた。言い聞かせるたびに、言い聞かせなければならないことが、怖かった。
金曜日の夜も、土曜日の夜も、布団に入ると日曜日の延長戦が頭に浮かんだ。足の速い選手がボールを外す。何度も外す。そして最後に滑りこむ。その最後の一本が、もし、ずれたら。
日曜日になった。
朝の練習は、決勝のあとの最初の練習だった。誰もが夜の試合の話をしていた。
「……さく」
整列のとき、岳が俺の左隣に並びながら言った。それだけだった。用があったわけではないらしい。呼んでみた、というだけの声だった。俺が顔を向けると、岳は前を向いたまま鼻の頭をこすった。決勝の日の帰りにも、岳はそうやって何度か俺の名前を呼んでは、照れくさそうにしていた。呼ばれるたびに、俺のほうも、どこを見ればいいのか分からなくなった。
蓮は四対四の途中で、何度もあくびをしていた。昨日の夜、一人で夜ふかしの練習をしたのだという。
「きょう、ぜったい、おきてる!」
蓮はそう言って、またあくびをした。
四対四で、蓮のところへボールが転がってきたときも、蓮はちょうど大きな口を開けていた。その横から樹の足が伸びて、ボールをさらっていった。
「とった!」
「いまの、あくびしてたから、なし!」
蓮が追いかけながら叫んだ。園田さんが笛を口から離して訊いた。
「あくびは、はんそくか? どう思う?」
「はんそくじゃない!」
樹が振り返って言い返した。蓮は「じゃあ、とりかえす!」と叫んで、樹の背中に追いついた。二人は一つのボールを取り合いながら、校庭の端まで行ってしまった。
練習の終わりに、大河原監督が低学年の前に立った。いつものように腕を組んで、低学年の顔を端から順に見ていった。
「今夜、テレビを見るやつは」
監督はそこで一度、言葉を切った。
「明日、学校に遅れるなよ」
それだけ言って、監督は背中を向けた。子どもたちが顔を見合わせた。監督の口からテレビの話が出るのを、誰も聞いたことがなかった。園田さんが首のタオルで口もとを隠して、肩を揺らしていた。
昼間は、何も手につかなかった。
塀の前で、チョークの枠の左下の隅を狙って、左で蹴った。ボールは隅から外れて枠の線の上に当たり、右足の前へ戻ってきた。もう一度蹴った。今度は枠の外だった。跳ね返ったボールを足の裏で止めて、しばらくそのまま立っていた。薄くなった枠の四隅に、その日は一度も当たらなかった。母に「さく、なんか、そわそわしてるわね」と言われた。「……してない」と答えると、母は笑って、洗濯物を取りこみに行った。
家の横の物干しの端に、押し入れから出したばかりの冬の毛布が二枚、竿をしならせて掛かっていた。母はそれを両腕いっぱいに抱えて、俺の後ろを通り、寝室へ運んでいった。すれちがうとき、毛布の端が腕に触れた。乾いた布が、まだ温かかった。
夕飯のあと、父は居間のソファに座って、テレビの前から動かなかった。テレビには、マレーシアの町の映像が流れていた。
台所で、母が土鍋を洗っていた。
「お父さん、まだ三時間もあるわよ」
「……分かってる」
父はテレビから顔を動かさなかった。俺はソファの端に座って、同じ町を見た。流しのほうで、母が洗った土鍋を水切りかごにふせた。
夜の八時半。母が「さく、お風呂入って、寝なさい」と言った。
言われたとおりに風呂に入って、パジャマを着て、歯を磨いた。居間の前を通るとき、ソファの父の背中が見えた。おやすみ、と言うと、父は振り返らずに「ん」とだけ返した。
二階の自分の部屋で布団に入り、電気を消した。
眠れなかった。暗い天井の右の隅に、人の横顔のようなしみがあった。窓の外は真っ暗だった。
壁の時計の針の音が、やけに大きく聞こえた。




