第46話 決勝
準決勝は、二対〇で勝った。
十一月九日の日曜日。市の運動公園の朝の空気は冷たくて、吐く息がうっすらと白い。
前半に、蓮が団子を割って一点を取った。後半には俺も、キーパーに弾かれたボールに相手より先に触って、右で押しこんだ。
ラインの外で、ひかりが手のひらにマジックで線を引いた。
「れんくん、ろく! さくくん、さん!」
蓮は「ろく!」と叫んで指を六本立てようとして、片手では足りずに両手を出した。
隣のコートでは、南台の試合がまだ続いていた。四対〇で南台が勝っていた。俺たちはラインの外に並んで、それを見た。十番がボールを持つと、守りの子が一人、前から寄せてきた。ぶつかる手前で、十番は足の外側でボールを横へずらした。守りの子の足は空振りして、土をこすった。
「はやっ」
「でも、おれ、あいつに、まけない」
蓮は自分で言って、自分で胸を張った。
「いまの、どっちの、あし?」
陸が誰にともなく訊いた。
列の端で、岳の右足が土の上を半歩ぶん横へすべった。十番がずらしたのと、同じ向きに。岳は自分の足に気づいていない顔で、十番の足もとを目で追っていた。笛が鳴って、南台の試合が終わった。
決勝は、南台だった。
テントの下で、母が当番の紙コップに麦茶を注いでいた。俺は紺色の水筒の麦茶を飲んで、グラウンドの向こうの、緑色の高い金網のフェンスを見た。
三月三十日、父があそこに立っていた。遊歩道の桜の木の下、金網のすぐ外側に、灰色の作業着が見えた。網に指をかけて、誰にも言わずに見ていた。
今日、そこには誰もいなかった。
父は仕事だ。昨日、俺の目を見て、そう言った。見に来てほしいと思っていたことには、誰もいない金網を見てから気づいた。
ナップザックを開けて、内側の小さなポケットの上から小石を握った。片側の平たい硬さが、布ごしに手のひらに収まった。チャックは開けずに、ナップザックを閉じた。
整列の声がかかった。フェンスに背を向けて、白い線のほうへ走った。
◇
向かいの列に、十番がいた。隣の子と肩をぶつけ合って、笑っていた。こちらの列は見なかった。
ゴールの前の土だけが、黒く湿っていた。準決勝のあとで、係のおじさんが青いホースで水をまいていたのだ。
決勝の笛が鳴った。
南台は、六月の練習試合のときより上手くなっていた。団子が小さい。何人かが団子から離れて、ちゃんと残っている。若い監督の「ひろがる」が、子どもたちの体に入っていた。
そして、蓮には二人がついていた。
蓮がボールを持つと、紺のシャツが二人、すぐに寄ってくる。一人が前に、一人が横に。蓮が抜けようとすると、横の一人が先に体を入れてくる。ぶつかられる前に動くことを三年生の大会で覚えた蓮でも、二人に挟まれると隙間がなかった。
俺は団子の外の、ボールが来そうな場所に立った。そこにはもう、紺のシャツの子が一人立っていた。二度、蓮に出そうとした。一度目は蓮の横の子の足に当たり、二度目は、離れて立っていた子に先に取られた。
取ったのは、前髪を眉の上でまっすぐに切りそろえた子だった。背は俺と変わらない。その子はボールを止めもせずに、十番が走りだした先へ大きく蹴り出した。ボールは乾いた土の上で高く跳ねて、ラインの外へ出ていった。その子はまた、団子から三歩離れたところへ戻った。俺が右へ動くと、その子も右へ動いた。俺が止まると、その子も止まった。
前半の半ばだった。
団子からこぼれたボールを、十番が拾った。拾った瞬間に、もう前を向いていた。若宮の子たちのあいだを、すり抜けていく。一人。二人。
俺は追いかけた。背中の十が、走るたびに左右に揺れて遠ざかっていく。追いつけなかった。南台のテントから、「しょう!」と大人たちの声が重なって上がった。
陸が前に出た。十番は陸の足が届く前に、ボールを横にずらした。ゴールの前には岳がいた。十番は岳の前でもう一度ボールを横にずらして、そのまますり抜けた。岳の体が一瞬遅れた。
十番が蹴った。ボールはキーパーの子の手の先を抜けて、ゴールの隅に入った。
〇対一。
十番は両手を広げて、自分の陣地へ走って戻っていった。振り返らなかった。岳はゴールの前で、自分の足を見下ろしていた。
前半は、そのまま終わった。
ハーフタイムに、テントの下で水を飲んだ。母は紙コップを配っていて、俺のコップには、いつもより多めに麦茶を注いだ。
隣で水筒の麦茶を飲んでいた岳が、ふたを閉めた。十番が抜けていったあたりの地面を見ていた。
「……つぎ、とめる」
蓮が俺の肩を叩いた。
「さく、まけてる」
「うん」
「まだ、おれ、ろく。さく、さん」
こんなときでも、蓮は勝負の数を言った。それからにかっと笑った。
「ふたりも、くるの、ずるい!」
笑いながら、靴のつま先で何度も土を蹴っていた。
後半が始まった。
南台は、点を取ってからも引かなかった。十番はボールを持つたびに前を向き、そのたびに陸と岳がゴールの前で体を寄せた。
後半の五分くらいだった。
陸がゴールの前で顔を上げて、体が左を向いた。その瞬間に、俺は左へ走りだしていた。陸が大きく蹴り返した。ボールは土の上で二度跳ねて、南台の陣地の左へ転がっていく。蓮はゴールの右で、二人に挟まれていた。紺のシャツの守りの子が、俺と同じボールへ走ってくる。
先に着いたのは、俺だった。
半身のまま、右足で触った。守りの子の肩が、俺の背中をかすった。ボールは足もとに残った。
前を向いた。キーパーの子が、ゴールの前から出てきた。蓮についていた二人のうち一人が、蓮を離れて俺のほうへ走ってきた。
蓮が一人になった。
ボールを、横に。蓮のほうへ。
数のことは、頭になかった。
蓮は来たボールをそのまま、空いたゴールへ蹴りこんだ。
一対一。
「よっしゃあ!」
蓮は振り返って、俺に「なな!」と叫んだ。ラインの外で、ひかりの手が動いていた。
後半の半ばだった。
同点になってから、蓮の横の二人は、もう蓮から離れなかった。団子が、南台のゴールの前で揺れていた。蓮がボールを持った。ゴールの右の、少し外。二人がすぐに寄ってきた。一人が前に、一人が横に。
俺は蓮の逆にいた。ゴールの左の、遠いほうの柱のそば。蓮が出さなくても、ずっと立ってきた場所だった。
十番が戻ってきていた。南台の陣地の真ん中から、俺のほうへ。蓮が出すなら、そこしかない。十番の走り方は、それを分かっているように見えた。十番は速い。俺が今から柱の前へ走っても、十番のほうが先に着く。
蓮が二人の前で、ボールに目を落とした。
一瞬。足もとのボールを、確かめるように。
その一瞬のあとで、蓮は決める。抜くか、蹴るか。
俺はその一瞬に、走りだした。
十番より先に。蓮が決めるより先に。遠いほうの柱の前へ。
十番が俺の横に並んだ。息の音が、耳のすぐ横で聞こえた。速い。それでも、一歩だけ俺のほうが先だった。
キーパーの子の目が、走りこむ俺と十番のほうへ動いた。体も半歩、こちらへ寄った。
蓮が顔を上げた。
前の子は、蓮の左足のほうを塞いでいた。横の子の足は、蓮の右足までは届かない。抜ける隙間はなかった。それでも、打つ道が一本残っていた。蓮の右足の前から、キーパーの子が空けた近いほうの柱の内側へ。
打てば、入る。俺にも、そう見えた。
蓮の右足が、後ろへ上がった。
蓮の目が、俺を見た。
四月の紅白戦で、蓮は俺を見なかった。十月の紅白戦で、見て、出さなかった。
上がった右足が、下りてきた。蓮はその内側で、ボールを横へ押し出した。二人の足のあいだを通して、遠いほうの柱の前へ。
俺のほうへ。
ボールが来た。俺の、左側へ。
右足を出そうとした。右には十番の足があった。十番が右から体を寄せてきていた。
左。
考えるより先に、体が半分だけ横を向いていた。
左足の前に、ボールが来た。ゴールの、左の下の隅を見た。
軸足の右を、ボールの横に置いた。
左のつま先を、外へ開いた。
足首を固めた。
左足の内側の、いちばん平らなところに、ボールが来た。
蹴った。押すように。
月曜日にふらふらと柱の外へ逸れていった左が、ボールをまっすぐ前へ送り出していた。
地面の上を、まっすぐに。キーパーの子が伸ばした手の、さらに外側を。ボールは左の柱のすぐ内側を抜けて、網の隅で止まった。
二対一。
入った、と思うより先に、蓮を見ていた。
蓮はもう走ってきていた。俺の目の前で止まった。鼻の頭に、土がついていた。
「さく! ひだり! いまの、ひだり!」
「……うてたのに」
俺の口から出たのは、それだった。
「だって、さく、いたもん」
蓮は当たり前のことを言うように言った。
「……蓮くん」
言いかけると、蓮が俺の顔を両手で挟んだ。泥のついた、熱い手のひらだった。
「くん、いらない」
「……え?」
「れん、でいい。くん、いらない」
それだけ言うと、蓮は手を離して、自分の位置へ跳ねるように走っていった。
見て、出した。蓮が、俺に。
うれしかった。左で入ったことより先に、頬に残っている熱さが、うれしかった。自分の位置へ戻るあいだ、足の裏が地面を踏んでいる気がしなかった。
◇
南台は、それでも引かなかった。離れて残っていた子たちまで前へ出てきて、若宮の陣地で団子が揺れた。
前髪をそろえたあの子も、もう三歩離れてはいなかった。若宮のゴールの前で、紺のシャツと若宮の子が入り混じった。蓮が自分の陣地まで戻ってきて、その中へ体ごと割って入った。点を取りにいくときと同じ顔で、ボールを外へかき出していた。
はじき出されたボールを、陸が体ごとぶつかるようにして遠くへ蹴り返す。俺はそれを追いかけて、追いつく前に紺のシャツに拾われる。同じことが三度続いた。口で息をしていたら、口の中が土の味でざらついた。
十番がもう一度前を向いたのは、終わり近くだった。若宮の陣地の真ん中で、こぼれたボールを拾って走りだす。俺は追いかけた。背中の十が、また遠ざかっていく。陸の伸ばした足を、十番は跳ぶようにしてかわした。
ゴールの前に、岳がいた。岳の目は、十番の足もとだけを見ていた。
岳は構えなかった。
構える前に、もう前に出ていた。十番が岳の横をすり抜けようと、ボールを横にずらす。その瞬間には、ずらした先へ岳が体ごと飛びこんでいた。
岳の体が、土の上に投げ出された。脚を伸ばして、十番の足とボールのあいだに。
ボールが岳の脚に当たって、跳ねた。十番の体が岳の上を越えるようにして、前のめりに倒れた。南台のテントの声が、途中で止まった。
岳は倒れたまま、もう一度脚を振った。転がってきたボールを、つま先で前へ。思い切り。
「さく!」
岳の声だった。土の上に倒れたまま、泥だらけの顔を上げて、岳が呼んでいた。いつもの「みかみくん」より、三文字短い名前で。
その声のほうが、ボールより先に俺のところへ届いた。
足もとに来たボールを、足の裏で止めた。そこで、笛が鳴った。長く、三回。
試合が、終わった。
振り返ると、陸が岳の手を引っぱって立たせていた。
「かった! がくくん、かったよ!」
陸の声が裏返っていた。岳は膝も肘も顔も、泥だらけだった。立ち上がった岳は、俺のほうを見ていた。
審判の大人に呼ばれて、両方のチームが真ん中に並んだ。礼をした。紺のシャツの何人かが、腕で目をこすっていた。十番は目をこすらなかった。前髪をそろえた子の肩を、一度だけ強く叩いていた。その列が、自分たちのテントのほうへ戻っていく。
途中で、十番が振り返った。
日焼けした顔に、汗の筋がついていた。その目が、俺の上で止まった。初めてだった。それから十番は前を向いて、仲間のあとを走っていった。
ラインの外から、ひかりが走ってきた。手のひらを広げて、マジックの線を見せながら。
「れんくん、なな! さくくん、よん!」
「おれの、かち!」
蓮が両手を挙げて、くるりと回った。
七対四。蓮の七つ目は俺が出したボールで、俺の四つ目は、蓮が出したボールだった。
気がつくと、右手を握っていた。指が、手のひらに食いこむくらい強く。
「……つぎは、ぼくが、かつ」
蓮は回るのをやめて、俺を見た。それから、歯を見せて笑った。
「いいよ!」
蓮はそう言うなり、また回りはじめた。
岳が泥だらけの膝で、俺の横に来た。
「……さく」
今度は叫ばずに、確かめるように。
「……うん」
岳はそれで満足したように、うなずいた。
大河原監督が、腕を組んだままテントのほうへ歩いていった。俺たちの横を通り過ぎるとき、一度だけ、俺の左足を見た。テントの下では、母が当番のタオルを顔の前で、両手で握りしめていた。
◇
表彰は、グラウンドの真ん中で行われた。
両方のチームが向かい合って並んだ。あいだに立ったのは、大会の名前の入ったジャンパーを着た年配の男の人だった。先に呼ばれたのは南台で、紺のシャツの子が一人前に出て、準優勝の賞状を両手で受け取った。その子は深く頭を下げて、列に戻った。男の人が手もとの紙に目を落として、次の名前を読み上げた。
「ゆうしょう、わかみや——」
名前の終わりを聞く前に、蓮が「はい!」と返事をした。周りの大人たちが吹きだした。
優勝の少年団には、小さなトロフィーが一つ渡された。プラスチックの台座の上に、ボールを蹴る子どもの金色の人形がついている。高さは、俺の手のひらから肘くらいまでしかなかった。
監督に「駒井、取ってこい」と言われて、蓮が走っていって両手で受け取った。それから、みんなで代わりばんこに持った。蓮から陸へ。陸からひかりへ。ひかりは、また泣きそうな顔をしていた。ひかりから岳へ。岳は金色の人形をじっと見てから、俺に渡した。
トロフィーは、思っていたより軽かった。
人形の、ボールを蹴っている足は右足だった。
自分の足もとを見た。白い靴の左の内側に、ボールの跡が丸く、うっすらと残っていた。




