第45話 イランだ
「あしたの、ならび」
練習の終わりに、大河原監督が低学年を集めて言った。
十一月八日、第二土曜日で学校は休みだった。決勝の前の日の、最後の練習だった。
集められる前に、園田さんが転がすボールを一人五本ずつ蹴った。俺は五本とも左で蹴った。ゴールの左の下の隅に行ったのは、二本だけだった。残りの三本は、キーパーの子の正面か、柱の外だった。二本目は狙った隅へまっすぐ転がった。五本目は園田さんが、わざと遠めに転がした。走りながら半身になって、左の内側を合わせた。当たった瞬間に、左足の内側の面がくるりと外を向いた。ボールは柱の外の土の上を転がっていった。
「いまの、おしかったな」
園田さんはボールを転がした姿勢のまま、膝に手を置いた。
「足、どうなった?」
「……そとを、むいた」
「分かってるなら、いい」
園田さんがそう言ったところで、監督の笛が鳴った。
「前は、駒井と三上。うしろは、北村と矢島。あとは、いつものとおりだ」
監督はそれだけ言って、腕を組んだ。それから、間を置いて付け足した。
「ボールに行け。負けるな」
いつもの言葉だった。蓮が「まけない!」と叫んで、監督ににらまれた。
岳は自分の名字を呼ばれたとき、運動靴の先で土をとん、とんと二回叩いた。ひかりは園田さんの袖をそっと引いて、「いつものとおりって、ひかりも、はいってる?」と訊いた。
「入ってる。ひかりは、蓮と朔くんのうしろだ」
ひかりは自分の胸を指でさして、「うしろ」と口の中で繰り返した。
監督が高学年のほうへ行ってしまうと、園田さんがみんなをしゃがませた。
「あしたは、準決勝に勝ったら、たぶん南台と当たる。南台の十番な、月曜日の三試合で、七点取ったらしい」
「ななてん!」
蓮が目を丸くした。
「ななって、れんくんより、おおい?」
陸がしゃがんだまま、園田さんの顔を見上げた。
「おれ、じゅうばんと、かけっこしたい!」
樹が立ち上がりかけて、園田さんに肩を押さえられた。座り直しても、樹は膝立ちのまま前のめりになっていた。
「れんくん、ご。さくくん、に。じゅうばん、なな」
ひかりが手のひらを広げて言った。月曜日のマジックの線は、もう消えていた。ひかりはまた書き直すつもりらしく、ポケットからマジックを出してみせた。
「あした、ここに、いっぱい、かくから」
「あした、おれ、じゅってん、いれる!」
「じゅってんは、むり」
「なんで!」
「しあい、にかいしか、ないもん」
蓮は「じゃあ、きゅうてん!」と言い直して、園田さんに笑われていた。
奏がひかりの袖を引っぱって、自分の右手を広げて差し出した。ひかりはマジックのキャップを歯でくわえて外すと、奏の手の真ん中に、小さな丸を一つ描いた。
「おまもり」
奏は丸を描いてもらった手を、何かを包むようにそっと閉じた。
岳は黙っていた。
六月の南台との試合で、十番は岳の横を、止まりもせずに抜けていった。あの日の帰り道、分かれ道の手前で、岳は「つぎ、とめたい」と言った。
解散のあと、岳が俺のところへ来た。水筒を肩にかけ直しながら、小さな声で言った。
「……とめる」
「……うん」
俺がうなずくと、岳は水筒のベルトを両手で握りしめた。それから、陸の家のワゴン車のほうへ歩いていった。車に乗る前に、一度だけこちらを振り返った。
◇
父はソファの真ん中で、膝の上に両手を置いていた。テレビの中の国立競技場は、また青く埋まっていた。
その日は、父も家にいた。両手の下に、青いファイルがあった。九月二十八日の韓国戦では、そのファイルが父の膝から床に落ちた。
母は台所のテーブルで、あしたの当番のタオルを一枚ずつ四つにたたんで、紙袋に重ねていた。救急箱のふたも開けて、絆創膏の箱を振っては中身の音を確かめた。テレビの声が大きくなるたびに、手を止めて居間をのぞいた。
「さく、あしたは、七時半に出るわよ」
「……うん」
カザフスタン戦だった。勝てば、日本の二位が決まる。
「勝てば、だ」
父は試合が始まる前に一度だけ言って、それきり黙って画面を見ていた。
始まって十分ほどで、日本が点を取った。決めたのは、守りの選手だった。
「よし」
父の声は低かった。まだ喜ばない、と決めているような声だった。
すぐに、若い司令塔がもう一点。前半の終わりには、二年以上も代表から外れていたベテランのフォワードが、三点目を決めた。ボールがネットを揺らした瞬間、父は膝のファイルを押さえたまま、前に身を乗り出した。
「戻ってきたか」
後半にも二点が入った。一点を返されたとき、父は舌打ちを一つした。五対一で笛が鳴った。
父はしばらく動かなかった。それから、俺のほうを向いた。
「見たか」
「……みた」
「五点だ」
父はうれしいとき、いつも俺に「見たか」と訊く。
テレビの中で、国立の青いスタンドが揺れていた。九月二十八日の午後の静けさも、十月二十六日のあとの怒りも、どこかへ吹き飛んでしまったみたいだった。
父はソファに座ったまま、長く息を吐いた。
「……二位だ」
自分の耳で確かめるみたいに、もう一度言った。
「二位だ」
母が台所から顔を出した。「勝ったの?」「勝った。二位だ」。母は「よかったわね」と言って、父の肩に手を置いて、すぐに離した。母の手が離れたあとで、父の肩から、すうっと力が抜けていくのが見えた。
◇
試合のあとのニュースで、アナウンサーが言った。
二位の日本は、もう一つのグループの二位、イランと、第三代表決定戦を戦います。
「……イランだ」
父が低く言った。ファイルの上の手に、力が入ったのが分かった。父の声で聞くと、その国の名前は、テレビの声で聞くより重かった。
「イランって、強いの?」
台所から母が訊いた。父は画面から目を離さずに、ああ、とだけ言った。
試合は来週の日曜日、マレーシアで。画面に地図が映った。日本から南へ、ずっと南へ。細長い半島の、いちばん先っぽ。
「ジョホールバルで行われます」
ファイルの上に置いていた父の手が、そのまま動かなくなった。父は画面の地図を見ていた。半島の先っぽの、小さな点を。
「……六月の、あの町か」
六月の終わりの、月曜日の朝。新聞の小さな記事。若い代表が、延長のVゴールで負けた町。ジョホール、バル、と、父が口の中で言ってみた町。
覚えていたのだ。
父は膝の上のファイルを開いた。後ろから前へ、ページをめくっていく。十月の、監督が代わった日の記事。九月二十八日の記事。九月七日の記事。
六月のページで、手が止まった。
スポーツ面の端の、小さな四角い記事だった。写真もない、見出しと短い文章だけの記事。余白に、父の角ばった字で、日付が書いてある。
その下に、小さく、もう一行。
ジョホールバル
六月のあの朝、父が日付の下に書き足したのは、町の名前だったのだ。変な名前だな、という顔をしながら、忘れないように。
父の口が、声を出さずに、ジョホール、と動いた。
俺は父の隣で、それを見ていた。六月の朝、居間の棚の前で、伸ばさなかった手のことを思い出した。開けば分かる、と思ったあの一行を、父は今、俺の隣で開いていた。テレビの中では、アナウンサーがもう次のニュースを読んでいた。
父は町の名前を親指で一度なぞって、ファイルを閉じた。
ファイルをテーブルの上に置いてから、父はカレンダーのほうを見た。
十一月のページ。来週の日曜日、十六日のところ。父はテーブルの鉛筆を取って立ち上がり、十六日に小さな丸をつけた。それから鉛筆を持ったまま、目を上に戻した。明日の日曜日、九日のところ。
「明日、決勝か」
「……じゅんけっしょうと、けっしょう」
父はカレンダーを見たまま、しばらく黙っていた。テレビの音だけが、居間に流れていた。
「……仕事だ」
短く、俺の目を見て言った。
三月の交流戦の朝、父は「朝から現場だ」と母に言って、家にいなかった。そして、誰にも言わずに、運動公園のフェンスの外に立っていた。今日の父は、来られないことを、来られないと、まっすぐ言っていた。
日曜日にも修理の現場が入るのは、春からずっとだった。
「うん。しってる」
来ないことは、分かっていた。大会の一日目の朝も、父は玄関で「今日、大会だったな」と言って、出かけていった。分かっていたことを、父が俺の目を見て言った。それだけで、膝を抱えていた腕から、力が抜けた。
父は少し間を置いて、もう一言だけ足した。
「……母さんに、聞く」
言ってから、首の後ろをかいた。
「わたしが当番だから、ちゃんと見てくるわよ」
台所で母が水を止めて、顔を出した。
「ひかりちゃんが、月曜日に一点入れたのよ。あの子、泣いちゃって。かわいかったわあ。さくも、二点入れたのよ。ねえ、さく」
「……うん」
父の目が、俺の足もとに下りた。ソファの上で抱えた膝の先の、左の足のあたりで、しばらく止まっていた。
その夜、布団に入る前に、自由帳を開いた。
れん 5 さく 2
ひかりの手のひらと同じ数字を書いた。三点の差だった。あしたは、試合が二つある。その下に、あした、と書いた。
それから、机の引き出しを開けた。
六つ目の小石が、鉛筆や消しゴムのあいだに転がっていた。八月二十四日、蓮が三年生の大会で点を取った日の帰り道、用水路に落とさずに握って帰った小石だ。灰色で、片側だけが平たくて、握ると手の中にすっぽり隠れる大きさだった。
小石を握った。冷たかった。
選ばれなかった日の小石だった。
俺はその小石を、明日持っていくナップザックの、内側の小さなポケットに入れた。ポケットのチャックを、きっちりと閉めた。ナップザックを、机の横に立てかけた。
布団に入ってから、もう一度だけ起きて、チャックが閉まっているのを指で確かめた。
◇
次の日の朝、七時。
玄関で、父が安全靴を履いていた。作業着の背中が、廊下の電気に照らされていた。
台所では、母がもう起きていた。お茶当番の水筒を三本並べて、大きな鍋で麦茶を冷ましていた。おにぎりの海苔の匂いがした。
目覚ましより先に、目が覚めていた。俺はパジャマのまま階段を降りてきて、廊下に立っていた。居間では、母のつけたラジオが小さな音で、今日は一日よく晴れるでしょうと言っていた。素足に、廊下の板がひやりと冷たかった。足の指を丸めて、片足ずつ、もう片方の足の甲に乗せて立った。
安全靴に足を押しこむたびに、父の作業着の背中に、横じわが一本寄った。母が台所から出てきて、包んだお弁当を父に渡した。父は黙って受け取って、鞄の口に押しこんだ。
父は立ち上がって、工具の入った大きな鞄を肩にかけた。玄関の戸に手をかけて、それから、振り返った。
「……行ってくる」
「いってらっしゃい」
父は俺の顔を一度見て、戸を開けた。外の空気が、廊下まで流れこんできた。十一月の朝の、乾いた冷たさだった。
戸が閉まった。
廊下の窓から、外が見えた。父は車に乗る前に、駐車スペースの奥の、ブロック塀の前で立ち止まっていた。
腰の高さに、ボールの跡がいくつも重なっている。去年の五月から、毎朝毎夕、俺が蹴ってきた跡だ。チョークの四角い枠も、薄くなって残っていた。
父はその跡に、親指で一度だけ触れた。それから、車のドアを開けた。
家の横で、白い車のエンジンがかかる音がした。駐車スペースから車が出ていく。タイヤがアスファルトをこする音。それから、エンジンの音が、田んぼの一本道のほうへ遠ざかっていった。
台所から、母が「さく、顔、洗ってきなさい」と呼んだ。俺はすぐには窓の前を離れなかった。
車のいなくなった駐車スペースに、朝の日が差しこんでいた。日の当たるアスファルトの先に、灰色のブロック塀があった。その腰の高さ。父の親指が触れたところは、俺の蹴った跡のどれかと重なって、もう見分けがつかなかった。




