第44話 一日目
十一月一日の土曜日、日本はソウルで勝った。
テレビの中の大きなスタジアムは、赤い服の人たちで埋まっていた。その一角に、青い服の人たちが固まっていた。日本から海を渡って応援に行った人たちだった。
始まってすぐ、日本が点を取った。それから、もう一点。そのまま、二対〇で終わった。
「勝った」
父はソファから立ち上がりもしなかったし、拳を突き上げもしなかった。膝の上で握っていた手を開いて、もう一度言った。
「……勝った」
声が、かすれていた。
一週間前、父はテレビを消して、黒い画面を見ていた。もう、だめかもしれんな、と言った。今日の父は、テレビを消さなかった。試合のあとのニュースが終わるまで、ずっと見ていた。同じゴールが流れるたびに、うん、とうなずいていた。
ソウルで日本が勝ったのは、十三年ぶりだと、アナウンサーが言っていた。
父がふとこちらを見た。目が合った。父はすぐに、テレビのほうへ顔を戻した。
だいじょうぶだよ、と言った日のことを、父は覚えているのだろうか。分からなかった。
月曜日の朝、新聞を広げた父が言った。
「二位だ」
日曜日に、ほかの国どうしの試合が引き分けたのだという。日本は、二位に戻っていた。次のカザフスタン戦に勝てば、二位が決まる。
「自力で、行けるぞ」
父はそう言って、新聞をたたんだ。それから、作業着の上着を羽織った。今日は文化の日で祝日だったが、父には現場があった。
「……今日、大会だったな」
玄関で安全靴を履きながら、父が言った。
「うん。いちにちめ」
父は立ち上がって、一度だけうなずいた。それから、出かけていった。
◇
市の運動公園のグラウンドに、いくつもの少年団のテントが並んでいた。
三月の交流戦の会場だった。土のグラウンドを白い線で四つに区切ってあって、小さなゴールには白い網が張ってある。周りを、緑色の高い金網のフェンスが囲んでいた。フェンスの外の遊歩道の桜並木は、葉が赤や黄色に色づいていた。
俺はフェンスのほうを見なかった。見ないと、決めていた。
市の低学年の大会。二年生までの部。今日は、予選リーグの三試合。四つの組に分かれて、それぞれの組の一位だけが、次の日曜日の準決勝に進む。八人と八人で、前半と後半を十五分ずつ。
テントの柱には、少年団の名前を太いマジックで書いた模造紙が、ガムテープで貼ってあった。若宮の紙の字には見覚えがあった。一年生の春に冷蔵庫の扉に貼ってあった、少年団のチラシの字だ。
試合の前に、グラウンドの真ん中に全部の少年団が並んで、開会式があった。本部のテントの前で、大会の大人がハンドマイクで話した。マイクはときどき、きいんと甲高く鳴った。そのたびに蓮が両耳を押さえて、隣の陸の顔を見上げた。紺と白のユニフォームは、列の三つ向こうにいた。十番は前の子の背中に隠れて、頭のてっぺんしか見えなかった。
母は今日、お茶当番だった。テントの下で、大きな水筒を三本並べていた。
整列の前に、ひかりが俺と蓮のあいだに割りこんできた。手のひらに、マジックで何か書いてあった。
「ここに、かくの。れんくんと、さくくんの、てん」
手のひらに「れ」と「さ」と書いて、そのあいだに縦の線が引いてあった。
「ほんとに、かぞえるの?」
「かぞえる。やくそくしたでしょ。ひかりが、かぞえるって」
蓮が「おれ、いっぱい、かいてね!」と言うと、ひかりは「いれたら、かく」と言った。
一試合目は、黄緑色のシャツの、初めて見る少年団だった。前は、蓮と俺。後ろに、陸と岳。
大会のボールは新しかった。白と黒の模様がくっきりしていて、俺の茶色くなった三号球より、表面がつるつるしている。アップのときに一度蹴ると、足の内側の上で、ボールが思ったより滑った。蓮は「これ、はやい!」と言って、足の裏で何度も転がしていた。
笛が鳴った。
団子ができた。蓮が持った。蓮はいつものように抜けていった。相手の黄緑のシャツが、二人、三人と蓮に寄っていく。
俺は蓮の逆へ走った。遠いほうへ。
蓮が囲まれた。ボールが、蓮と相手の足のあいだで弾けた。こぼれたボールを、黄緑のシャツの子が拾おうとした。
その子の足が、ボールの手前で一度もつれた。
俺はもう動いていた。相手の子のつま先がボールに届く前に、俺の右足がボールに触れた。ボールは相手の子の足もとから、ゴールのほうへ転がった。
前に、誰もいなかった。
キーパーの子が前に出てきた。俺はゴールの隅を見た。右の、下の隅。塀の前で何百回も当てた、小さな四角。
右足の内側で、押しこんだ。ボールはキーパーの子の手の横を抜けて、白い網を揺らした。
「さく!」
蓮がいちばん先に駆けてきた。
「いまの、ずるい! さく、また、ずるいの、やった!」
蓮は俺の背中をばしばし叩いた。
ラインの外で、ひかりが手のひらにマジックで線を一本引いていた。「さ」のほうに。
その試合は、蓮も一点取って、二対〇で勝った。
◇
二試合目は、蓮の試合だった。
白いシャツの少年団は、一試合目の相手よりも体の大きい子が多かった。それでも、蓮は止まらなかった。三年生の大会で覚えた、ぶつかられる前に動く抜き方で、大きな子たちのあいだをすり抜けていった。
蓮が、一点。二点。三点。
俺は遠いほうの柱の前で、一度もボールに触れなかった。蓮は全部、自分で決めた。蓮のシュートは、一本も弾かれなかった。動かずに立っていると、十一月の地面の冷たさが、靴の底から上がってきた。腿を手でこすって温めながら、白いシャツのあいだを抜けていく蓮を、遠くから見ていた。柱のペンキは学校のゴールよりずっと新しく、はげたところが一つもなかった。
後半の途中で、一年生でいちばん小さな男の子が、交代で入った。その子は団子の外の、右の少し後ろに立っていた。団子から転がり出たボールを、片足を上げて、足の裏で止めた。
俺は遠いほうの柱の前から、それを見ていた。五月の校庭で、俺がつま先で土を叩いて見せたのと同じ所に、その子は自分で立っていた。止まったボールを靴の下でしばらく見てから、その子は近くの味方へ、つま先で押し出した。
三対〇で勝った。笛が鳴ったとき、蓮が一度だけ振り返った。遠いほうの柱の前に立っている、俺のほうを。それから、ひかりのところへ走っていった。
ひかりの手のひらの「れ」のほうに、線が四本になった。
ひかりの手のひらをのぞきこんで、蓮が叫んだ。
「おれ、よん! さく、いち!」
「まだ、いっこ、のこってる」
ひかりは指を一本立てた。三試合目のことだった。
三試合目は、昼を過ぎてからだった。
昼はテントの裏のブルーシートで、弁当を広げた。ひかりは線を書いたほうの手を開いたまま、もう片方の手だけでフォークを使っていた。
「にぎったら、きえちゃうもん」
蓮は弁当をあっという間にかきこむと、口をもぐもぐさせたまま、ひかりの手をのぞきこんだ。
「おれの、よん、ある?」
「ある。さわらないで」
奏はひかりに肩がくっつくくらい近くに座って、卵焼きを端からかじっていた。岳は誰よりもゆっくり食べていた。母は当番のやかんを提げたまま通りかかって、「三つめも、あるんだからね」と、まだ開けていない俺の弁当箱のふたを開けていった。
相手は、紺のシャツの少年団だった。南台の紺より、少し明るい色だ。三月の交流戦の一試合目で、〇対〇だった相手だ。
前半に、蓮が一点を取った。団子を割って、そのままゴールの隅へ。一対〇。
後半の途中だった。
団子が、右へ寄っていた。ボールが団子の中で弾けて、左へ転がり出た。ゴールの前の、少し左。
そこに、ひかりがいた。
ひかりは後ろから上がってきていた。ボールが自分の前に転がってくるのを見て、ひかりの足が止まった。
ひかりは、ゴールの隅を見た。
俺には、それが分かった。ひかりの目が、ゴールの右の、下の隅に向いていた。六月の塀の前で、チョークの四角を見ていた目だった。
ひかりの軸足が、ボールのすぐ横に下りた。
足の内側で、蹴った。強くはなかった。でも、ボールは浮かなかった。地面を、まっすぐに転がっていった。
ゴールの、右の下の隅へ。
キーパーの子が跳んだ。届かなかった。
ボールが、ゴールの隅に転がりこんだ。
ひかりは両手を挙げた。挙げたまま、固まっていた。
一秒。二秒。ひかりは両手を挙げたまま、ゴールの中のボールを見ていた。自分が何をしたのか、確かめるように。
それから、跳ねた。
「はいったあ!」
ひかりの声が、グラウンドじゅうに響いた。
ひかりはその場で何度も跳ねた。両手を振り回して、結んだ髪が背中でばさばさと跳ねていた。
いちばん先に駆けていったのは、奏だった。
交代でラインの外にいた奏が、白い線を越えて、まっすぐひかりのところへ走っていった。審判の大人が笛を吹きかけて、やめた。奏はひかりに飛びついて、ひかりのTシャツの裾をつかんだまま、離さなかった。何か言っていた。初めて、大きな声で。
蓮が「ひかり!」と叫んで走っていった。陸が両手を挙げて、その場で跳ねた。俺も駆け寄った。後ろのほうで、岳が両手を叩いていた。ぱち、ぱち、と、ゆっくり、何度も。
「はいった! ひかり、はいった!」
ひかりはもみくちゃにされながら、叫んでいた。泣いていた。笑いながら、泣いていた。
始業式の日に、ひかりは「サッカーで、いっかい、いれる」と言った。六月に、塀の前で「つぎの、しあいで、いれる」と言った。それから何回外したのか、ひかりは全部数えていたはずだった。
テントの下で、母が紙コップを持ったまま立ち上がっていた。六月に「はいったら、おばさんにも教えてね」と言った母が、ひかりに教えられるより先に見ていた。
ひかりがもみくちゃの中から顔を出して、俺を見た。
「さくくん! すみっこ!」
「うん。すみっこだった」
「いったでしょ! つぎの、しあいって!」
試合が再開してから、俺も一点を取った。蓮のシュートがキーパーに弾かれて、遠いほうの柱の前に転がってきた。右足で押しこんだ。
そのあとに、もう一本、チャンスが来た。左だった。
ボールが、俺の左足の前に転がってきた。右に持ちかえる半歩は、もう体が使わなくなっていた。左で、蹴った。
ボールはふらふらと揺れながら飛んで、ゴールの左の柱の外へ逸れていった。
足の内側の、当たったところがずれていた。塀の前でなら、十回のうち八回は隅に当たる。試合の中ではボールが動いていて、相手が来ていて、地面がでこぼこしていた。
三対〇で、試合が終わった。
◇
別の組では、南台が三試合とも勝っていた。
隣のコートで、紺と白のユニフォームが走り回っていた。背中に十の数字の子が、ゴールを決めるたびに、南台のテントから大きな歓声が上がっていた。何点取ったのかは分からなかった。たくさん、だった。
次の日曜日に、準決勝と決勝がある。たぶん、どこかで南台と当たる。
帰りは、陸の家の銀色のワゴン車に、蓮と岳とひかりと一緒に乗せてもらった。母はお茶当番の片づけがあって、あとから別の家の車で帰ることになっていた。
後ろの座席で、蓮が指を折っていた。
「おれ、ご! さく、に!」
「ちがう」
ひかりが手のひらを広げた。マジックの線が、汗でにじんでいた。
「れんくん、ご。さくくん、に。ひかり、いち」
「ひかりのは、しょうぶじゃないじゃん」
「かく。ひかりのも、かく」
ひかりは自分の手のひらに「ひ」と書いて、その横に線を一本引いた。それから、その線を、何度も何度も指でなぞっていた。
運転席の陸の母が、信号で止まったときに「ひかりちゃん、すごかったわねえ」と振り返った。ひかりはまた泣きそうな顔で笑った。
蓮はいつのまにか、指を五本立てたまま、窓ガラスに頭をつけて眠っていた。車が揺れるたびに、立てた指も一緒に揺れた。岳は眠らずに、陸の母が信号で振り返るたびに、あわてて背筋を伸ばしていた。車の中は芳香剤のにおいで甘ったるかった。
俺は窓の外を見ていた。田んぼの切り株が、夕方の光の中を後ろへ流れていった。
膝の上で、右足の内側を手のひらでさすった。一試合目に塀の前と同じ右下の隅へ押しこんだ手ごたえが、まだ残っていた。それから、左足の甲をさすった。ふらふらと外れたあの一本の感触も、そこにあった。




