第43話 十月二十六日
「さく、しょうぶ、わすれてないよね!」
朝の練習の整列のときから、蓮は三回同じことを言った。
十月二十六日の日曜日。昨日に続いて空は高く晴れて、校庭の土は白く乾いていた。昨日の公園で小指をからめてから、蓮は勝負のことで頭がいっぱいらしかった。
一回目は整列のとき。二回目は校庭を三周走る途中で、わざわざ俺の横まで下がってきて。三回目は体操の屈伸をしながら、隣の列から。走りながらの二回目は、「わすれて」と「ないよね」のあいだで息が切れていた。三回とも「わすれてない」と答えたが、三回目の蓮は答えを聞く前に、もう屈伸の続きに戻っていた。四対四で点を取るたびに、俺のほうを振り返って指を立ててみせた。
「いち!」
「……それ、たいかいの、しょうぶでしょ」
「れんしゅう! れんしゅうの、しょうぶ!」
蓮は笑って、また走っていった。
紅白戦で、俺は一点、蓮は二点取った。蓮は自分の二点より、俺の一点のほうを大きな声で数えた。
「さく、いち! おれ、に!」
「わたしも、かぞえる!」
ひかりが手を挙げた。
「れんくんと、さくくんの、しょうぶ。ひかりが、かぞえる。たいかいのとき、ずっと」
「なんで、ひかりが?」
蓮が首をかしげた。
「だって、ふたりとも、じぶんのは、ちゃんとかぞえないでしょ」
ひかりは蓮の鼻の先を指さした。
「れんくん、さっき、じぶんの、にかいめ、わすれてた」
蓮は「わすれてないよ!」と言い返したが、本当は忘れていたらしく、指を折り直していた。蓮は入れたら、もう次のボールを見ている。自分の点を数えるのは、いつも誰かに言われてからだった。
ひかりは運動靴のつま先で、土の上に線を引いた。長いのを二本と、その横に一本。
「こっちが、れんくん。こっちが、さくくん」
その線の上を、蓮が走っていって、運動靴で踏んで消した。ひかりは「あー!」と怒って、また引き直した。
陸が「ぼくも、しょうぶ、したい」と言った。ひかりに「りくくんは、うしろでしょ」と言われて、陸は口をとがらせた。それから考えこんで、「じゃあ、ぼく、とったの、じぶんで、かぞえる」と言った。次に相手のボールを大きく蹴り返したとき、陸は振り向いて「いち!」と叫んだ。その次に蹴り返したときには、もう数えるのを忘れて、ボールの行った先を眺めていた。
ラインの外で、監督が腕を組んでいた。今日は、じゃまをするな、とは言われなかった。監督の目は、蓮と俺のあいだを行ったり来たりしていた。
練習の帰り道、田んぼの一本道は、刈り取りの終わった切り株の匂いがした。遠くの田んぼで、誰かが刈ったあとの藁を燃やしていた。灰色がかった煙が一本、高い空へ上がっていく。歩くうちに、焦げくさい匂いが切り株の匂いに混ざってきた。家の前で袖を鼻に当てると、ジャージにまで煙の匂いがついていた。
家に帰ると、居間のテレビの横で、父が今朝の新聞のテレビ欄を見ていた。
父は今日、仕事を入れていなかった。昼ごはんのあと、台所から乾いた布巾を持ってきて、テレビの画面を拭いた。ほこりを払うように、端から端まで、ゆっくりと。それから、アンテナの線がちゃんと差さっているかを、テレビの裏に手を回して確かめた。リモコンでチャンネルを一度変えて、また戻した。
「お父さん、それ、九月にもやってたわよね」
母が笑った。
「やってない」
「やってたわよ。韓国のときも」
父は返事をしないで、布巾を台所に戻しに行った。首の後ろを、かいていた。
試合が始まるまで、俺は塀の前で蹴った。
火曜日ではなかったけれど、左だけで蹴った。チョークの枠の、左の下の隅を狙って、左の足の内側で押す。隅に当たったボールが、まっすぐ戻ってくる。それを左の足の裏で止めて、また蹴る。チョークの線は、何度も雨に打たれて薄くなっていた。それでも、四つの隅がどこにあるかは、もう見なくても分かった。八日後の文化の日には、塀ではなく、キーパーの立っているゴールの隅を狙う。
十回のうち、七回が隅に当たった。外れた三回は、どれも隅の小さな四角のすぐ外だった。当たる瞬間に、左足の内側がボールの芯を外れるのが、自分で分かった。十一回目の前に、何もない地面の上で左足を振って、蹴る形だけを二度なぞった。
十一回目を蹴ろうとしたとき、家の中から、母の呼ぶ声がした。ボールを抱えて、玄関へ走った。
◇
テレビの中の国立競技場は、九月二十八日より、もっと人で埋まっているように見えた。
スタンドが青かった。日の丸の旗が、あちこちで振られていた。声援が、テレビのスピーカーから割れるように聞こえてくる。
父の膝の上の青いファイルは、今日はなかった。テーブルの上の湯呑みに、手を添えていた。俺は父の隣で、膝を抱えて座った。
母もソファの端に座っていた。九月二十八日から、母もときどき、ソファの端で試合を見るようになっていた。父が一人で黙りこむのを、隣で見ているつもりなのかもしれなかった。
母は膝に広告の紙を一枚広げて、皮にまだ青いところの残るみかんをむいていた。むいたのを一つ俺の手にのせて、父の前にも一つ、皮のまま置いた。
試合が始まってすぐ、日本のフォワードが点を取った。まだ三分か四分だった。
「よし!」
父の声が、久しぶりに高くなった。湯呑みの中のお茶が揺れた。
「早いぞ。これで、楽になる」
父は九月七日の夜のように、ソファの背にもたれかけた。それから、もたれかけたのを途中でやめて、また前に体を傾けた。
前半の三十七分に、相手のシュートが日本のゴールに入った。
一対一。
湯呑みに添えた父の手が、動かなくなった。
「あら……」
母が小さく声を漏らした。それから父の横顔を見て、膝の上で手を重ねた。
俺はテレビではなく、父を見ていた。
ハーフタイムになっても、父の前のみかんは皮のまま、テーブルの端に転がっていた。母はそれを父の手の届くところへ戻して、自分のみかんの白い筋を一本ずつ取っていた。俺は残っていた最後の一房を口に入れて、飲みこむまでずいぶん長く噛んでいた。
後半、日本は攻めた。何度も、何度も。相手のゴールの前にボールを運んだ。そのたびにスタンドがどよめいて、最後のところで相手の足が伸びてきた。シュートは枠を外れるか、キーパーの手に収まった。
父は一度も声を出さなかった。湯呑みのお茶は冷めて、表面に薄い膜が張っていた。八十分。八十五分。父は湯呑みを持ち上げて、口をつけずに、また置いた。
笛が鳴った。一対一だった。父は笛のあとも、しばらく前のめりのまま画面を見ていた。
アナウンサーの声が、静かになった国立に響いた。この引き分けで、日本は、自力で二位になる可能性がなくなりました。残りの試合に全部勝っても、ほかの国の結果しだいになります。同じ日に、韓国の一位が決まりました。
テレビの中で、日本の選手たちが芝の上に立ちつくしていた。誰も座りこまなかった。座りこむ力も残っていないように見えた。
父は湯呑みから手を離した。
◇
試合のあとのニュースは、試合のことだけでは終わらなかった。
国立競技場の外の映像が映った。出口の前の道に、人がたくさん集まっていた。怒っている人たちだった。何か叫びながら、出口に押し寄せている。
バスが映った。日本代表の選手たちが乗っているバスだった。そのバスに向かって、人が何かを投げていた。パイプ椅子のようなものが、宙を飛んだ。バスの窓に何かが当たって、白く飛び散った。
アナウンサーが、何か言っていた。暴徒化、という言葉が聞こえた。母が、いやねえ、と小さく言った。父は画面から目を離さなかった。顎の横が、固く動いていた。
父がリモコンに手を伸ばして、テレビを消した。
居間が、急に静かになった。さっきまで割れるように聞こえていた声も、アナウンサーの声も、一度に消えた。台所の冷蔵庫の低い音だけが聞こえた。
消えたテレビの黒い画面に、居間が映っていた。ソファに座った父の影。その隣の、小さな俺の影。ソファの端の、母の影。
父は、黒い画面を見ていた。俺も黒い画面の中の父を見ていた。画面の中の父は、隣にいる父より小さくて、輪郭がにじんでいた。
母がそっと立ち上がった。冷めた湯呑みを三つお盆にのせて、台所へ運んでいった。流しの水の音がした。
「……もう、だめかもしれんな」
黒い画面を見たまま、誰にともなく、父が言った。部屋の空気に溶けてしまいそうな、平らな声だった。
黒い画面に映った父の顔は、ファイルの最初のページの写真に似ていた。四年前の秋、最後の最後に追いつかれた夜の、ピッチに座りこんでうなだれる選手たちの顔に。
俺は知っていた。日本は、ここから行く。次の土曜日にソウルで勝って、十一月の半ばに、遠い町でもう一つ勝つ。それを、父に言うことはできない。
でも、今の父の顔を、見ていられなかった。
「……だいじょうぶだよ」
口から出ていた。
父がこちらを向いた。黒い画面から目を離して、俺の顔を見た。静かな居間の中で、父の目が、少し驚いたように開いていた。
「なんで、分かる」
ただ、不思議そうな声だった。
なんで、分かる。その答えは、口に出せなかった。
「……なんとなく」
父はしばらく俺を見ていた。それから、鼻から短く息を抜いた。
父の手が、リモコンの上に置かれていた。親指が、電源のボタンの上を、一度だけ押すように動いた。押しはしなかった。テレビは、黒いままだった。
言ってしまってから、胸がちくりとした。知っていることを使って、父を慰めた。ずるいことかもしれなかった。
父はテーブルの上の新聞を取った。最終予選の日程のところを開いて、残りの試合を指でたどった。
「……ソウルで、十何年も、勝ってないんだぞ」
「……うん」
父は新聞を膝の上に置いた。それから、俺のほうを見ないで言った。
「……お前が言うなら、そうかもな」
冗談なのか、本気なのか、分からない声だった。たぶん、父にも分かっていなかった。
台所から、母が戻ってきた。父と俺の顔を見比べて、父の隣に座った。それから、父の膝の上の新聞をたたんで、テーブルの端に戻した。
◇
夕飯のあいだも、テレビはつかなかった。茶碗に箸の当たる小さな響きだけが、食卓の上で続いた。
「さく、三日の大会ね、お母さん、お茶当番になったのよ」
母がそう言ったのは、ご飯が半分ほど減ったころだった。
「……うん」
父の箸は肉じゃがのじゃがいもを小さく崩しては、また崩していた。口へ運ばれたのは、そのうちのいくつかだけだった。
寝る前に、歯を磨きに下へ降りた。歯ブラシをくわえたまま、廊下で足を止めた。
居間の戸が、半分開いていた。父はソファに座っていた。テレビは消えたままだった。父は黒い画面のほうを向いていた。台所では、母が明日のお弁当の米をといでいた。しゃっ、しゃっ、という音が居間のほうまで聞こえていた。
洗面所で口をゆすいでから、階段を一段ずつ、音を立てないように上がった。
部屋に戻って、自由帳を開いた。新しいページのいちばん上に、書いた。
11月3日
文化の日。市の低学年の大会の、一日目だった。
鉛筆を置いて、布団に入った。
階段の下からは、何も聞こえてこなかった。米をとぐ音も、もうやんでいた。父がまだ居間にいるのか、もう寝室へ行ったのか、分からなかった。家の中はしんとしていて、台所の冷蔵庫の低い音だけが、床の下から伝わってきた。




