第42話 ヨーヨー
廊下の真ん中に、人だかりができていた。
十月二十四日、金曜日の休み時間だった。隣のクラスの前の廊下に、男の子たちが輪になって集まっている。輪の真ん中から、しゅるしゅる、という乾いた音が聞こえていた。
輪のすきまから覗くと、蓮がヨーヨーを回していた。
秋になってから、学校じゅうでヨーヨーがはやっていた。お祭りの屋台で売っている水ヨーヨーとは違う、プラスチックの、競技用のヨーヨーだ。手のひらに収まるくらいの丸い本体に、指にかける糸がついている。投げ下ろすと、糸の先でくるくると回りつづける。回っているあいだに、いろいろな技をする。
蓮は投げ下ろしたヨーヨーを、床すれすれで回したまま、廊下の上を転がしてみせた。ヨーヨーは床の上をすべるように進んで、蓮が手首をくいっと返すと、糸を巻き取りながら手のひらに戻ってきた。
「いぬの、さんぽ!」
「すげー!」
輪の中から歓声が上がった。蓮は得意そうに、次の技にとりかかった。ヨーヨーを前に投げ出して、糸の先で一回転させて、また手のひらへ。それから、腕のまわりをぐるりと回して、手のひらへ。
蓮がヨーヨーを手に入れたのは、先週の日曜日だったらしい。一週間で、もうクラスの誰よりもたくさんの技ができるようになっていた。
輪の中の誰かが「いいなー。おれも、ほしい」と言った。持っている子はまだ、学年に何人もいなかった。休み時間のたびに、輪は持っている子のいる廊下にできた。持っていない子はそのすぐ後ろに立って、背伸びをしていた。
「さく!」
蓮が輪の外の俺に気づいて、手を振った。
「さくも、やる?」
蓮はヨーヨーの糸を指から外して、俺に差し出した。
受け取った。思ったより重かった。糸を中指にかけて、ヨーヨーを手のひらに握る。頭の中で、蓮の手首の動きを巻き戻した。投げ下ろす。糸の先まで落ちたところで、手を動かさずに待つ。回っているうちに、手首を小さく返す。返した瞬間の糸のたるみが、回転に引っかかって巻き取られるはずだった。
理屈は、分かった。
投げ下ろした。ヨーヨーは糸の先まで落ちて、そこで回った。手首を返した。ヨーヨーは戻ってこないで、糸の先に力なくぶら下がった。
輪の中から、「あー」と声が上がった。
もう一度。今度は返すのが早すぎて、ヨーヨーは糸の途中で止まって、そのままくるくると逆回りに巻き戻った。手のひらに当たって、ぱちんと痛かった。
「さく、へた!」
蓮が笑った。
「どうやるの」
「ぐって、やって、ひゅっ」
蓮は俺からヨーヨーを受け取ると、また投げ下ろしてみせた。ヨーヨーは床すれすれで回って、蓮の手首がくいっと動いて、手のひらに戻った。
「ほら。ぐって、やって、ひゅっ」
ぶつけた手のひらを、反対の手でさすった。理屈が分かっても、手首は分からなかった。
チャイムが鳴った。輪がばらけて、みんなが教室に戻っていく。
中指の第二関節に、糸の食いこんだ赤い筋が残っていた。廊下を戻るあいだ、前歯の子が横に並んできた。
「さくくんも、もってないの?」
「……もってない」
「おれも。かあちゃんが、クリスマスまで、まてって」
前歯の子は何も持っていない手首を、くいっと返してみせた。返し方だけは、蓮にそっくりだった。
席に着くと、斜め前のひかりが振り向いた。
「さくくん」
「なに」
「く、のだん。ほんとに、おかあさんと、れんしゅうしたの?」
この前の算数の時間のことだった。
「……うん」
「ふうん」
ひかりはしばらく俺の顔を見て、それから前に向き直った。ひかりの「ふうん」が、いつもより少しだけ長かった。
◇
次の日は、第四土曜日で学校は休みだった。
昼過ぎに公園へ行くと、蓮がもう来ていた。生け垣に自転車を立てかけて、広場の真ん中でヨーヨーを回していた。ボールは、自転車のかごに入れたままだった。
「さく! みて!」
蓮が投げ下ろしたヨーヨーが、土の上を転がった。ヨーヨーは土に引っかかって、途中で止まった。
「あー! つち、だめだ!」
蓮は笑いながら糸を巻き戻して、今度は空中で前へ投げ出した。ヨーヨーは糸の先で一回転して、蓮の手のひらに戻った。
俺は柱時計の下に座った。針は二時の手前を指していた。ブランコでは知らない三年生くらいの女の子が、卵のような形の小さなゲーム機を首から下げて、こぎながらボタンを押していた。生け垣の向こうの陸の家は車がなく、二階の雨戸が閉まったままだった。
蓮がヨーヨーを回しているあいだ、俺は持ってきた三号球を左足の前に置いて、左の足の裏で転がしていた。前へ、後ろへ。右へ、左へ。今日は土曜日で、左の日ではなかった。それでも、気づくと左を使っていた。
蓮がヨーヨーを回しながら、こちらを見た。
「さく、なんで、ひだりばっか、やるの?」
足の裏のボールが、止まった。
「まえも、やってた。こうえんでも、ひだり」
蓮はヨーヨーを回したまま、首をかしげた。
「りくと、ひだりだけで、しょうぶ、してた。りくが、いってた。なんで?」
目が、ただ不思議そうに丸かった。
なんで、ひだりばっかり。
両足で蹴れたほうがいいから。ボールが左に来たとき、右に持ちかえる半歩を使わなくていいから。陸みたいに、ボールのあるほうの足が、ただ出るようになりたいから。
それから、蓮が決めるのは、いつも右足だから。蓮が決めるのに使わない足を、俺の武器にしたいから。
全部、本当だった。でも、全部、本当の理由の手前にあるものだった。
九月の水飲み場で、ひかりに訊かれたことを思い出した。
さくくん、れんくんに、かちたいの。
うん、と答えた。答えてから、まだ誰にも、もう一度は言っていなかった。蓮には、もちろん言っていなかった。
蓮のヨーヨーが、糸の先で、しゅるしゅると回っていた。
「……ぼく」
声が、思ったより小さかった。
「ぼく、蓮くんに、かちたい」
しゅるしゅる、という音が、止まった。
蓮のヨーヨーが、糸の先で、回るのをやめてぶら下がっていた。蓮は手首を返すのを忘れて、俺を見ていた。目が、まんまるになっていた。
言ってしまった。
蓮が何と言うか、分からなかった。怒るかもしれない。なんで、と訊くかもしれない。むずかしいこと、言うな、と言うかもしれない。
蓮はしばらく俺を見ていた。それから、笑いだした。腹を抱えて、大声で笑った。ヨーヨーがぶら下がったまま揺れていた。
「いいよ!」
笑いすぎて、蓮の目に涙がにじんでいた。
「いいよ、いいよ! かちたいなら、しょうぶ、しよ!」
「しょうぶ?」
「たいかい! じゅういちがつの!」
蓮はヨーヨーを手のひらに巻き戻して、ポケットに突っこんだ。それから俺の前に来て、しゃがんだ。
「たいかいで、たくさん、いれたほうが、かち!」
「……てんの、かず?」
「そう! おれと、さく、どっちが、たくさん、いれるか!」
蓮の目が、きらきらしていた。勝負、という言葉が、蓮の体じゅうに火をつけたみたいだった。
蓮は勝負が好きなのだ。勝つのも、負けるのも、勝負そのものが。かちたい、と俺が言ったことを、蓮はうれしがっていた。新しい遊びを一つ見つけた子どもの顔だった。
「やくそく!」
蓮が小指を出した。
土で汚れた、小さな小指だった。爪のあいだに、さっき土の上を転がしたヨーヨーの、茶色い土が詰まっていた。
俺も小指を出した。蓮の小指が、俺の小指に絡みついた。強かった。
「ゆびきりげんまん、うそついたら、はりせんぼん、のーます!」
蓮が大声で歌った。生け垣の向こうで、誰かの家の犬が吠えた。
指を離すと、蓮はポケットからヨーヨーを出して、また回しはじめた。しゅるしゅる、という音が戻ってきた。
「おれ、まけないよ」
「……ぼくも」
蓮はヨーヨーを手のひらに戻して、にかっと笑った。
それから、いつもの十回勝負をした。
一回目は右から、二回目は左から抜かれた。蓮は毎回、違う抜き方をする。抜けていった蓮の背中を見ながら、体の向きを直した。左の肩を前に。右の肩を後ろに。
三回目。蓮がボールを持って、俺の前に来た。一歩目は、ゆっくり。
俺は体を半分だけ横に向けて立っていた。この三週間、塀の前で、中学年のコートで、ずっとそうしてきた立ち方だった。正面から向き合わなければ、蓮の体重に引っぱられない。蓮の腰がすとんと沈んだ。俺の腰は、ついていかなかった。
蓮がボールに目を落とした。
つま先を出した。蓮の足がボールに届く前に、俺のつま先がボールの横腹に触れた。ボールは蓮の足もとを離れて、生け垣のほうへ転がっていった。
「あっ!」
蓮は転がっていくボールを振り返った。それから俺の顔を見た。口が、あっ、の形のまま開いていた。その口が、にいっと横に広がった。
つま先に、ボールの硬さが残っていた。八月五日には、伸ばした足がやっと届いた。今日は、届く前から、届くと分かっていた。
「もっかい!」
蓮がボールを拾いに走っていった。
四回目からの蓮は顔を上げたまま来た。ボールに目を落とす一瞬が、ほとんどなくなっていた。半身で立てば、どちらか片方の脇が空く。四回目の蓮はその空いたほうを一度で見つけて、まっすぐ抜けていった。五回目も六回目も、蓮は空いたほうを抜けた。俺が向きを変えたときには、蓮はもう反対の側にいた。
七回目にも、もう一度取った。蓮は「あー!」と叫んで、その場で地面を蹴った。
十回が終わって、蓮は自分の指を折って数えた。
「はち、に! おれの、かち!」
「うん」
「でも、さく、きょう、ずるいの、にかいも、やった!」
蓮は笑いながら怒っていた。それから、ポケットのヨーヨーを自転車のハンドルに引っかけて、またがった。立ちこぎで遠ざかるあいだ、ハンドルの下でヨーヨーが左右に揺れていた。生け垣の角の向こうから、「たいかいね!」という声だけが返ってきた。
かちたい、と言った。蓮に、直接。十一月の大会で、と日付までついて。
背中のあたりが、すうすうした。十月の風が、生け垣のすきまから吹きこんでいた。
◇
夕方、家に帰ると、父が居間で新聞を広げていた。
今日は現場がなかったらしい。作業着ではなく部屋着のトレーナーを着て、ソファで足を組んでいた。テレビはついていなかった。テーブルには、飲み終えた湯呑みが残っていた。台所で、母が夕飯の支度をしていた。換気扇の下で、網にのせたさんまの脂がちりちりとはぜていた。
「おかえり。手、洗ってらっしゃい。爪のあいだもよ」
母は菜箸を持ったまま、俺の膝の土に目をやった。洗面所で、乗るときしむ踏み台に上がって石けんを泡立てた。爪のあいだの茶色い土は、なかなか落ちなかった。蓮の小指にも、同じ色の土が詰まっていた。タオルで手をふいて居間に戻ると、父が新聞を一枚めくった。
「明日、国立だ」
父は新聞から目を離さずに言った。母に言ったのか、俺に言ったのか、分からなかった。
「また、サッカー?」
「UAE。勝たないと、自力じゃ行けない」
「自力じゃ、って?」
「……ほかの国、しだいだ」
父の声は、九月七日の夜とは違っていた。低くて、平らだった。逆転負けと監督の交代のあとで、あの夜の高さが消えていた。
明日、日本は国立で引き分ける。
父が新聞の端から、ちらりと俺を見た。
「……サッカー、どうだ」
父のほうから訊いてくるのは、珍しかった。
「……たいかいで、蓮くんと、しょうぶする」
「しょうぶ?」
「どっちが、たくさん、いれるか」
父は新聞を少し下げた。
「蓮くんって、あの、うまい子か」
「うん」
父はそれきり、壁のカレンダーのほうを見た。十月のページだった。十一月は、次のページだ。父の目が、しばらくカレンダーの上に止まっていた。
それから、新聞をたたんだ。スポーツ面の、最終予選の日程が載っているところを上にして、ソファの前のテーブルに置いた。二十六日に、鉛筆で小さな丸がついていた。九月の二重の丸とは違う、一重の、小さな丸だった。




