第41話 二人の前
「にいちが、に。ににんが、し。にさんが、ろく」
教室じゅうの声が、一つになって天井に上がっていった。
十月の半ばの、木曜日の二時間目だった。二学期の算数で、かけ算が始まっていた。田村先生は黒板に大きな表を貼って、指し棒で一つずつ指しながら、みんなに声をそろえさせた。二の段。五の段。三の段。一日に一つずつ、段が増えていく。
前歯の子は二の段の途中でいつも声が小さくなって、にしちじゅうし、のところで必ず「にしち、にしち」と同じところを繰り返した。ひかりは背筋を伸ばして、指を一本ずつ折りながら言っていた。
教室の後ろの掲示板には、名前の横に九九の段を並べた紙が貼ってあった。一つの段を先生の前で言えると、その欄に星のシールが一枚増える。ひかりの欄には星が三つ並んでいた。前歯の子は一つ。俺の欄も三つだった。
俺は声をそろえながら、黒板の表のずっと右のほうを見ていた。九の段。くいちがく。くにじゅうはち。
四十年分の頭には、九九は呼吸と同じくらい当たり前に入っていた。表を見なくても、どの段でも、いくらでも言える。わざわざ声に出すたびに、自分がどこにいるのか分からなくなりかけた。
「はい、じゃあ、ひとりずつ、言ってみましょう」
田村先生が教室を見回して、俺のところで目を止めた。
「三上くん。二の段の、続きから」
立ち上がった。にさんが、ろく、まではみんなで言った。その続きだ。
「くいちが、く。くにじゅうはち。くさんにじゅうしち」
言ってから、気づいた。教室が、静かになっていた。
二の段の続きを言うはずだった。にし、が、はち。俺の口から出たのは、黒板の表のいちばん右の列だった。ずっとそこを見ていたせいで、頭の中に流れていたのが、そのまま口から出た。
「……え?」
田村先生が眼鏡の奥でまばたきをした。
「さくくん、すげー!」
前歯の子が机を叩いた。
「く、の、だん! まだ、ならってないのに!」
教室がざわついて、何人かが俺のほうを振り返った。先生が指し棒を下ろした。
「三上くん、もう、ぜんぶ、言えるの?」
ぜんぶ言える。九の段も、その先も。でも、それを言ったら先生の眼鏡の奥の目が、また去年の九月の形になる。かんせんの、けいろ、と俺が言ったときの、あの目に。
「……おかあさんと、れんしゅうした」
「あら、そうなの。えらいわね」
先生は笑って、「でも、今日は、二の段ね」と言った。俺は座った。にし、が、はち。前歯の子が、まだ「く、の、だん」と小さくつぶやいていた。
次に指されたのは、前歯の子だった。「にいちがに」から始めて、「にろくじゅうに」まで来て止まった。にしち、にしち。みんなが息をつめて、続きを待った。俺は机の下で指を折りかけて、膝の上に戻した。にしちじゅうし、と自分で言えたとき、田村先生が「はい、言えました」と手を叩いた。前歯の子は九の段を言った俺よりずっと得意そうな顔で、椅子に座った。
斜め前の席で、ひかりが振り向いていた。目を細めて、俺の顔をじっと見ていた。何かを確かめるように。それから、前に向き直った。
◇
十月十九日の日曜日。校庭は、からからに乾いていた。
この月は雨がほとんど降らなかった。土の表面は白く粉を吹いて、走るたびに足もとから細かい土ぼこりが舞い上がる。体育の日の運動会で引かれた白線の跡が、まだ校庭のあちこちにうっすらと残っていた。
乾いた校庭では、ボールがよく転がった。雨続きだった九月なら届かなかったパスが、今日は足もとを過ぎていく。四対四のあいだ、俺は受けるたびに足の内側を後ろへ引いて、ボールの勢いを吸いとった。引くのが遅れると、ボールは足に当たって一歩ぶん前へ跳ねた。靴の甲は受けるたびに、白っぽくなっていった。
四対四のあとの紅白戦で、監督が言ったとおりの並びになった。前に、蓮と俺。その後ろに、ひかりと二年生が二人。いちばん後ろに、陸と岳。一年生の樹と奏も、交代で入る。
「さく、いっしょ!」
蓮は試合の前からうれしそうだった。
笛が鳴った。最初のボールを、蓮が持った。
蓮が持てば、蓮は前を向く。前を向けば、抜けていく。一人、二人。団子の中を、何でもないようにすり抜けていく。俺は蓮の横を走った。蓮が右へ行けば、俺も右へ。蓮が抜けたあとに、ボールが転がりそうな場所へ。
蓮は出さなかった。一人で抜いて、一人でゴールの前まで運んで、一人で蹴った。キーパーの子の正面だった。ボールは弾かれた。
俺は、そこにいた。蓮の横を走っていたから、弾かれたボールが来る場所の近くにいた。でも、蓮もそこにいた。蓮と俺が、同じボールに向かって同時に走った。
肩がぶつかった。ボールは二人の足のあいだを抜けて、相手の子に拾われた。
「さく、じゃま!」
蓮は目を丸くして振り返った。どうしてそこにさくがいるんだ、という顔だった。
二回目も、ぶつかった。蓮がゴールの前で蹴る。弾かれる。弾かれたボールに、蓮と俺が同時に寄る。肩と肩が当たる。
三回目から、俺は蓮の横を走るのをやめた。
蓮と同じ場所にいるから、ぶつかる。だったら、蓮と違う場所にいればいい。蓮が右から行くなら、俺は左へ。蓮がゴールの近いほうの柱へ向かうなら、俺は遠いほうの柱へ。
蓮の逆に。
蓮が持った。右から、ゴールへ向かっていく。俺は左へ、遠いほうへ走った。蓮が一人抜いた。二人目を抜いた。ゴールの前で、蓮が顔を上げた。
俺はゴールの遠いほうの柱の前にいた。周りには誰もいなかった。相手の子たちは全員、蓮のほうを向いていた。
蓮が蹴った。キーパーの子の、手の先。弾かれたボールが、ゴールの前を横切って、俺のほうへ転がってきた。
右足の内側で、押しこんだ。ボールは、空いていたゴールの中に転がりこんだ。
「……はいった」
俺がつぶやくと、蓮が駆けてきた。
「さく! いまの、おれの!」
「え?」
「おれが、けったやつ!」
蓮は笑っていた。本気で言っているのか、冗談なのか、分からなかった。たぶん、両方だった。
ゴールの奥から、相手のキーパーの子がボールを拾い上げた。縫い目に、乾いた土が詰まっていた。押しこんだ右足の内側には、ほとんど手ごたえが残っていなかった。蹴ったというより、ボールの通り道に足を置いてきただけだった。
ラインの外で交代を待っていた樹が、足を投げ出して座ったまま「さくくん、いまの、けってないじゃん」と文句を言った。蓮は「だよな!」と樹を指さして、また駆けだしていった。
後ろから、岳がボールを持ち上がってきたことがあった。岳は相手の子を一人かわして、顔を上げた。俺と蓮のどちらに出すか迷うように、岳の目が二人のあいだを行き来した。
岳は蓮に出した。蓮はそれを受けて、一人で抜いて、決めた。岳は小さくうなずいて、自分の位置へ戻っていった。蓮に出せば、点になる。岳も、それを分かっていた。
ひかりも一度、ゴールの前でボールを持った。思い切り蹴ったボールは、キーパーの子の胸に当たって跳ね返った。ひかりは「また!」と叫んで、その場で両足を踏み鳴らした。それから足を止めて、指を一本折った。折った指をにらんでから、口をとがらせて元の位置へ駆け戻った。戻る途中で一度、キーパーの子の胸のあたりを振り返っていた。
それから、こぼれ球は一度も来なかった。
蓮のシュートは、決まるか、ゴールの外へ出ていくかだった。キーパーに弾かれるボールは、それきり来なかった。俺は遠いほうの柱の前で、来ないボールを待っていた。柱の白いペンキは、ところどころはげて、下の鉄の色がのぞいていた。
蓮は一度も出さなかった。
ラインの外から、監督の声が飛んだ。
「三上! 駒井のじゃまをするな!」
俺は遠いほうの柱の前に立ったまま、監督のほうを見た。監督は腕を組んで、蓮のほうを見ていた。
じゃまをしているつもりは、なかった。蓮の逆にいれば、蓮とはぶつからない。でも蓮が出さないなら、蓮の逆にいる俺は遠くで立っているだけの子に見える。
ボールが、来ない。
◇
二本目の紅白戦の、途中だった。
蓮がゴールの前でボールを持った。二人に囲まれていた。いつもなら、蓮はその二人のあいだを抜けていく。今日は相手の二年生も蓮の動きに慣れてきていて、二人のあいだが狭かった。
俺は遠いほうの柱の前にいた。周りには誰もいなかった。蓮から俺まで、ボール一本、まっすぐ転がせば届く距離だった。
蓮が顔を上げた。目が、俺のところで一度止まった。
蓮の右足が、ボールの横で浮いた。その足が、横へ出るのか、前へ出るのか。俺は柱の前で、膝を曲げて待った。
蓮は出さなかった。二人のあいだに、突っこんでいった。
ボールが二人の足に当たって、弾けた。こぼれたボールが、俺のほうへ転がってくる。俺は走った。蓮も振り向いて走った。二人とも、ボールしか見ていなかった。
ぶつかった。
今度は正面から、体ごとだった。蓮の胸と俺の顔が、まともにぶつかった。二人とも、土の上に転がった。
乾いた土ぼこりが、白く舞い上がった。空が見えた。十月の、雲のない、高い空。背中の下の土が、日に温められて温かかった。口の中が、じゃりっとした。
「さく、じゃま!」
蓮は隣で寝転がったまま、空に向かって言った。
俺は体を起こした。鼻の頭が、じんと痛かった。蓮の膝が、土で真っ白になっていた。
後ろから、岳が走ってきた。俺の前にしゃがんで、顔をのぞきこんだ。
「……はな、ち、でてない?」
岳は俺の鼻の下を、自分の指でそっと触って確かめた。指を見て、何もついていないのを見てから、もう一度俺の目をのぞきこんだ。
「……でてない。だいじょうぶ」
岳はそう言って、立ち上がった。去年の夏に倒れた子が、今は、倒れた子の顔をのぞきこんでいた。
「……蓮くんが、パスしないから」
自分の声が、思ったより大きく出た。
本気で蓮のプレーに文句を言ったのは、初めてだった。一年半、蓮の横にいて、蓮の後ろにいて、蓮に抜かれてきた。
蓮はきょとんとして、俺を見た。それから体を起こして、膝の土を払いながら、当たり前のことを言うように言った。
「だって、おれ、いれられるもん」
言い返せなかった。
本当のことだった。蓮は入れられる。今日の紅白戦でも、蓮は三点を取った。俺は一点。それも、蓮が蹴ったボールのこぼれ球だった。蓮が自分で蹴るほうが、点になる。監督もそう思っている。駒井に預けろ、と言った監督の言葉は、間違っていなかった。
蓮は立ち上がって、俺に手を出した。俺はその手をつかんで立った。蓮はもう笑っていて、「つぎ、おれ、とる!」と言って、自分の位置へ走っていった。
離した手のひらに、蓮の手の土が、ざらざらと残っていた。
◇
家に帰って、自由帳を開いた。書く前に、前のページをめくってみた。「ひだり 10かい」。「なんだい 10ばん はやい」と「11月」。夏休みの「0/10」が何行も続いて、そのあいだに一つだけ「1/10」。日付のほかに何も書いていないページ。どのページにも、消しゴムで消したあとは一つもなかった。いちばん新しいページを開いた。
れんの ぎゃく
そう書いて、鉛筆を止めた。
今日一点取れたのは、蓮の逆にいたおかげだった。でも、蓮が出さないなら、来るのはこぼれ球だけだ。蓮のシュートが決まれば、来ない。外れてゴールの外へ出ても、来ない。
鼻の頭を、指で触った。押すと、まだ痛かった。
一年生の四月から、俺は団子の外の、ボールの来る場所に立ってきた。誰にも分かってもらえなくても、そこにいた。
消しゴムを手に取って、書いたばかりの字の上に持っていった。
しばらくそのままでいてから、消しゴムを筆箱に戻した。鉛筆を置いた。
窓の外の、空き地の向こうの田んぼは、もう稲刈りが終わっていた。刈り取られた切り株が、夕方の光の中に、どこまでもまっすぐな列になって並んでいた。




