↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
観るだけだった俺の、二周目のサッカー人生 —— 「やっておけばよかった」を、六歳から取り返す  作者: 八夜巡
第2章 小学二年生

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
40/46

第40話 三年生の中で

 朝のテレビのニュースで、日本代表の監督が代わったと言っていた。


 十月五日の日曜日。七時を過ぎたころだった。テレビの中で、男のアナウンサーが、いつもより早口に原稿を読んでいた。


 昨日の土曜日、日本代表は中央アジアのカザフスタンで、最終予選の試合をした。前半に一点を取って、そのまま勝てそうだった。終わる間際に、追いつかれた。一対一の引き分け。そのあと夜遅くになって、監督の交代が決まったのだという。代わりに、それまでコーチをしていた人が監督になる。


「……コーチが、監督になるのか」


 父が箸を止めて、つぶやいた。


 父は今朝も作業着だった。日曜も、どこかの家の修理に出かける。いつもならニュースを聞き流しながらご飯をかきこんで、さっさと玄関へ向かう。今朝は箸を持ったまま、テレビの画面を見ていた。


「まだ、試合、残ってるんでしょ」


「残ってる。あと四つ」


「それで、監督が代わるの?」


「代わるんだと」


 父はそれきり黙って、味噌汁を一口すすった。それから、また箸を止めた。先週の日曜日の午後も、父はこうして、終わった試合の画面をいつまでも見ていた。


 父は箸を置くと、新聞を脇に挟んで出かけていった。


「お父さん、がっかりしてたわね」


 母が父の茶碗を片づけながら言った。茶碗には、ご飯が半分残っていた。


「……うん」


「さくは、今日も三年生?」


「うん」


「がんばってね。肘、もう痛くない?」


 右の肘の絆創膏は、昨日はがした。かさぶたが、まだつっぱっていた。


「いたくない」


 言ってから、肘を曲げて、伸ばしてみた。かさぶたがつっぱるだけで、本当に、もう痛くなかった。今日は、二度目の中学年の練習の日だった。


 出かける前に、母が椅子の背から紺色のトレーナーを取って、渡してくれた。日なたに干したあとの匂いが、まだ残っていた。


「朝は冷えるから、着ていきなさい。走って暑くなったら、脱げばいいから」


 袖を通すと、かさぶたのところで布が一度引っかかった。


   ◇


 この一週間、塀の前の練習を変えていた。


 先週の日曜日、俺はコートの中で消えた。読んだ場所に先に着いても、受ける前に囲まれた。最後には、誰も俺にボールを出さなくなった。


 月曜日の夜、布団の中で、八月の校庭を思い出していた。


 ラインの外の木陰から見た、中学年の大会の後半。蓮は腰を沈めるのをやめた。足の裏をボールの上に乗せて、くいっと手前へ引く。それだけで、三年生がぶつかってくる前に、ボールはもう横にあった。三年生の肩が、ボールのない場所を通り過ぎていった。


 来る前に、動かす。


 あの日、俺はそれを見ていた。見ていたのに、先週の俺はボールの来る場所に先に着いて、ボールのほうを向いて止めようとしていた。止めているあいだに、大輝は背中から来た。


 蓮の足の裏の引き方は、蓮の体の速さでやるものだ。俺がまねても、たぶん届かない。それでも、来る前に動かすだけなら、俺の体には俺のやり方があるかもしれなかった。


 もう一つ、引っかかっていることがあった。航が顔を上げたとき、俺は空いていた。先に着いて待っているあいだに、空いていなくなった。


 六月の居間で、父がテレビの中の若い司令塔を指さしていた。ボールを持ったとき、顔が上がってる。だから、遠くが見えてる。


 顔が上がったとき、出す子には見えている。だったら、先に着いて待たなくていい。顔が上がるのを見てから動いて、足が下りるころに着けばいい。


 火曜日の朝、塀に向かって立つ向きを変えた。


 真っすぐ立つのをやめて、体を半分だけ横に向けた。半身で立つと、塀から戻ってくるボールを、体の横で迎えられる。止めない。戻ってきた勢いのまま、足の内側で、そのまま横へ流す。一回で、ボールを離す。


 最初は、うまくいかなかった。流そうとしたボールが足に当たって跳ね返り、塀のほうへ戻っていった。流しすぎて、駐車スペースの端まで転がっていった。


 火曜日は、左の日だった。夕方、半身のまま左で流してみて、気づいた。戻ってきたボールは、体の向こう側の左足の前に来る。正面を向いて立っているときより、ずっと自然に左が出た。最初の何回かは、左の内側に当たったボールが思ったより内へ切れて、自分の右足にぶつかった。足首の向きを少しずつ変えるうちに、ボールは塀と平らに、横へ転がるようになった。


 陸の左が、ほんの入口だけ、分かった気がした。陸は兄の右側をよけているうちに、いつも体を半分だけ横に向けて、ボールを左に置くようになったのだ。


 蓮は足の裏で動かす。俺は半身と左で動かす。


 水曜日の夕方には、ひかりが自転車で来た。塀の前で俺がやっていることを見て、「それ、なに?」と訊いた。


「さんねんせいが、うしろから、ぶつかってくるから」


 ひかりが首をかしげた。


「ぶつかられる前に、ボール、うごかすの」


「じゃあ、ひかりが、ぶつかるやく、やる」


 ひかりは俺の後ろに立った。俺が塀に蹴って、戻ってくるのを待つあいだに、ひかりが後ろから背中を押してくる。流しそこねたら、ひかりの勝ち。


「さんねんせいって、ひかりより、おもい?」


「……ずっと、おもい」


「じゃあ、ランドセル、しょってこようか?」


「……いい」


 ひかりは頬をふくらませて、自転車のほうを一度見た。それから袖を肘までまくって、相撲の取り組みみたいに腰を落とした。


 ひかりの押し方には、手加減がなかった。三回に二回は、俺がよろけた。ひかりはそのたびに、けらけら笑った。それでも、後ろから誰かが来るのを背中で感じながら流すのは、塀に一人で蹴るのとはまるで違った。押される一瞬前に、ひかりの運動靴がアスファルトをこする音がする。その音が聞こえたら、もう流す。木曜日には、それが分かった。


 水曜日には、十回のうち三回、思ったところへ流れるようになった。木曜日には五回。金曜日には、七回。


 どの日も、五時が近づくと駐車スペースは端から暗くなった。戻ってくる三号球が、アスファルトの色に紛れて見えにくくなる。ひかりは暗くなりきる前に、自転車のライトを倒して帰っていった。前の車輪にこすれる小さな発電機が、遠ざかりながらじいっと鳴っていた。どこかの家の金木犀の匂いが、ひかりが帰ったあとも、しばらく駐車スペースに残っていた。


 金曜日の十回目がきれいに流れると、ひかりが口をとがらせた。


「もう、いっかい!」


 ひかりは手のひらに、はあっと息を吹きかけて、俺の背中のすぐ後ろに立ち直した。塀に蹴ったボールが、戻ってくる。


「どーん!」


   ◇


 二度目の中学年の紅白戦は、先週と同じ顔ぶれだった。


 水色のビブスと黄色いビブス。俺は今日、黄色のほうだった。航も黄色で、大輝は水色だった。


 大輝は俺を見ると、先週のように黙って見下ろした。今日は、何も言わなかった。


 航が俺の横に来た。


「きょうも、くるとは、おもわなかった」


「……くるって、いったから」


 航は細い目で俺を見て、ふん、と鼻を鳴らして笑った。


 笛が鳴った。


 団子ができた。俺は外に立った。ただし、立ち止まらなかった。


 今日は、先に着いて待たない。団子の中で、味方がボールを持つ。その子が顔を上げる。顔を上げた瞬間に、俺は動く。ボールが出てくる前に。


 航が団子の中でボールを持った。顔を上げた。


 俺は動いた。団子の右の後ろから、さらに右へ。大輝の背中の側へ。


 航のボールが来た。


 大輝も、来た。先週のように、俺の背中を目がけて体を寄せてくる。


 俺はボールのほうを向かなかった。体を半分だけ横に向けたまま、大輝に背中を見せずに、ボールを体の横で迎えた。


 ボールは、体の向こう側の左足の前に来た。火曜日から、塀の前で何百回も来た場所だった。


 止めなかった。左の内側に四号球の重さが一瞬だけ乗った。その瞬間に、そのまま横へ流した。


 ボールは、大輝の足の届かないほうへ転がった。


 大輝の体が、俺の横を通り過ぎていった。ボールがあったはずの場所に、大輝の肩が突っこんで、空を切った。大輝が振り返ったときには、ボールはもう、俺の足もとから二歩先にあった。


 先に触った。左の足首の内側が、じんと熱かった。


 俺はボールを追って、もう一度、航のほうへ戻した。航は「おっ」と短く声を上げて、それを受けた。そのまま前へ運んでいった。


 大輝は肩をさすりながら、後ろの四年生に「いまの、とれよ!」と怒鳴っていた。


 二回目も三回目も、俺は止まらなかった。出し手が顔を上げた瞬間に動く。大輝の背中の側で、半身で受ける。来たボールを、一回で離す。全部がうまくいったわけではない。三回目は流したボールが短すぎて、別の三年生に拾われた。四回目は半身になるのが遅れて、大輝の肩に当たって転がった。大輝はそれを拾って、ほらな、という顔で俺を見下ろした。


 それでも、ボールが来るようになった。


 味方の三年生が、俺に出すようになった。出せば、すぐには取られない。一回で、どこかへ離す。それが分かると、四年生も俺に出すようになった。先週は一度も来なかったボールが、何度も来た。航は出す前に「朔!」と呼ぶようになった。


 鼻の頭の皮がむけた三年生も、その一人だった。最初は俺を見て、別の子へ出しかけて、足を止めた。それから怒ったような声で「おい、二年!」と蹴ってきた。地面を二度跳ねてくる、強いボールだった。俺は半身のまま体の横で迎えて、跳ねぎわを左の内側で航のほうへ流した。次に俺がボールを持ったとき、その三年生は手を挙げて「二年、こっち」と呼んだ。


 後半の終わり近くだった。


 航がゴールの前まで運んで、シュートを打った。強いシュートだった。水色のビブスのキーパーが横に跳んで、両手で弾いた。


 ボールが、こぼれた。ゴールの前の混戦から、一歩外れたところに。


 俺は、そこにいた。弾かれたボールが来る場所に、弾かれる前から立っていた。


 ボールが、俺の右足の前に転がってきた。


 大輝が、横から来た。


 間に合わなかった。俺の右足の内側が、先にボールに触れた。ゴールの、空いているほうの隅へ、押しこむように。


 ボールは、キーパーの伸ばした足の先を抜けて、ゴールの中に転がりこんだ。四号球はゴールの奥の土の上で一度だけ跳ねて、重たそうに止まった。


 一瞬、中学年のコートが静かになった。


 水色のビブスのキーパーは膝をついたまま、ゴールの中のボールと俺の顔を順に見た。遠くの低学年のコートから、園田さんの笛が細く聞こえてきた。


「……なんだ、あの二年」


 水色のビブスの三年生の誰かが、そう言った。


 航が笑いながら駆けてきた。


「やるじゃん!」


 航は俺の頭を、ぽん、と叩いた。先週の朝より、ずっと強かった。


 大輝が近くに立っていた。口をとがらせて、俺を見下ろしていた。耳が、赤かった。


「……なまいき」


 大輝はそれだけ言って、自分の陣地へ走って戻っていった。


 ラインの外で、大河原監督が腕を組んで立っていた。いつから見ていたのか、分からなかった。監督は腕をほどかなかった。


   ◇


 次の日曜日、練習の始まる前に、監督が低学年の前に立った。


 十月十二日。体育の日からの三連休の、最後の日だった。空は高く晴れていた。


 三連休で家族と出かけた子が何人かいて、低学年の列はいつもより短かった。樹は運動会のときのまま、紅白帽を赤にしてかぶっていた。あごのゴムを指で引っぱっては、ぱちんと離している。そのたびに、隣の奏がまばたきをした。


「十一月の、市の大会」


 監督は腕を組んだまま言った。


「前は、駒井と三上だ」


 俺の名字が、駒井のすぐあとに出てきた。


 それだけだった。監督はもう、高学年のほうへ歩きだしていた。


 低学年の子たちが、俺のほうを見た。ひかりが目を丸くしていた。陸はきょとんとしていた。それから「ぼくは?」と園田さんに訊いて、「陸は、うしろだ。背があるからな」と言われていた。岳は俺の左隣で、小さくうなずいた。


 蓮が俺の背中を、ばしんと叩いた。


「さく! いっしょ!」


 蓮は本当にうれしそうだった。


 背中が、じんとした。蓮の手のひらの形に、熱が残っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。