第39話 九月二十八日
中学年のコートは、低学年のコートより、ずっと広かった。
九月二十八日の日曜日。二週間近く続いた雨がようやく上がって、空は朝から青く澄んでいた。校庭の土は、まだところどころ黒く湿っている。白い線で区切られた向こう半分のコートに、水色と黄色のビブスの三年生と四年生が、二十人ほど集まっていた。その中に、二年生は俺一人だった。白い線をまたぐとき、靴の先で石灰の粉が舞った。
四年生の何人かは、黒いスパイクを履いていた。サッカー用の長い靴下を、膝の上まで引き上げている子もいる。準備運動の駆け足で前を通っていく太ももの付け根が、俺の腰とほとんど同じ高さにあった。土を蹴る足音が、低学年のコートより一段重かった。誰かの靴の裏から、乾きかけた土のかたまりがぽろりと落ちた。
低学年のコートのほうを振り返ると、蓮が手を振っていた。ひかりも陸も岳も、こちらを見ていた。いつもの朝なら、俺はあそこにいる。今日は、白い線の向こう側にいた。
「おまえが、朔か」
声をかけられて振り向くと、四年生の男の子が立っていた。背が高くて、目が細い。首にタオルは巻いていなかったが、笑ったときの目の細くなり方が、誰かにそっくりだった。
「とうちゃんが言ってた。ちっちゃいのが来るって」
園田さんの息子だった。園田航、と名乗った。四年生で、中学年の中でもうまいほうらしかった。
「とうちゃん、おまえのこと、おもしろいやつって言ってたぞ」
航はそう言って、俺の頭を一度、ぽんと叩いた。
航の後ろから、もう一人の顔がのぞいた。声の大きい、三年生の子だった。
去年、五月の練習試合で監督に「いらん」と言われた俺を見て、小さく笑った子。夏には、俺に「なまいき」と言った。秋の四対四で、俺の出したパスから点を取って、口をとがらせて「……ナイスパス」と言った。耳が赤かった。
背も肩幅も、あのころよりまた大きくなっていた。中学年の中でも、体の大きいほうだった。坂上大輝、という名前だと、あとで航から聞いた。
大輝は俺を見下ろして、しばらく黙っていた。それから、ぼそりと言った。
「……パスのちびか」
それだけ言って、大輝は自分のチームのほうへ歩いていった。
◇
紅白戦の前に、対面パスをやった。俺の相手は航だった。
航のボールは、強かった。まっすぐ、速く、足もとに来る。止めると、足の裏がじんと痛んだ。四号球を三号球と同じ強さで蹴り返すと、ボールは航の三歩手前で止まった。
「もっと、つよく」
航は手招きをした。
「ボール、おもいから。ちょっと、つよすぎるかなってくらいで、ちょうどいい」
二本目は、力を入れて蹴った。ボールは航の足もとまで、ぎりぎり届いた。航は「そう」と言って、うなずいた。園田さんのうなずき方だった。
三本目、四本目と続けるうちに、四号球を蹴るときの音が三号球と違うことに気づいた。ぽんと軽く離れずに、どすっと低く出ていく。航は来たボールを下も見ずに足の内側で勢いを殺して、そのまま蹴り返してきた。止めてから蹴るまでのあいだが、俺の半分もなかった。五本目でようやく、航が一歩も動かずに受けられるボールが行った。
紅白戦が始まった。
四号球は、大きくて、重かった。三号球に慣れた足には、蹴ったときの手ごたえが鈍い。止めようとすると、ボールの重さが足の裏を押し返してくる。
中学年の試合にも、団子はできた。ただ、団子の中の一人一人が大きくて速くて、強い。団子が崩れるのも速く、こぼれたボールに寄ってくるのも速い。
最初のこぼれ球は、団子の右から出てきた。転がる先は読めていた。俺はそこへ先に着いて、四号球を足の裏で止めた。
止めた瞬間、背中に壁がぶつかってきた。
大輝だった。体ごと、背中から来た。俺は前へつんのめって、ボールだけがその場に残った。大輝はそれを拾って、もう前を向いていた。
二回目も三回目も、読んだ場所には先に着いた。着いて、ボールのほうを向いて止める。顔を上げる前に、目の端の両側にビブスが入ってくる。三回目は、右から大輝の脚が、左から四年生の脚が同時に差しこまれて、四号球は俺の両足のあいだから押し出された。
パスのちび、と大輝は言った。去年の秋の四対四を、覚えてはいるのだ。だから俺に来るのか。いちばん小さいのが、いちばん取りやすいからか。大輝は自分の組の四年生にも「よこせ!」と怒鳴っていた。どちらなのかは、背中から来る重さでは分からなかった。
四回目からは、こぼれ球を追うのをやめてみた。団子から離れて、誰もいない所へ下がる。航が団子の中でボールを持って、顔を上げた。
「……こっち」
声に出してみた。挙げかけた手は、胸の高さで止まった。航の目が、一度だけ俺に来た。
俺は空いていた。空いた所に先に着いて、止まって待っていた。航の足が後ろへ引かれるあいだに、相手の三年生が一人、俺と航のあいだに入ってきた。航の足は、別の子のほうへ振り抜かれた。
見られては、いた。ボールが出るまでのあいだに、空いていなくなった。
それから、ボールは来なくなった。出してもすぐに取られる二年生に、出す理由はない。四年生の一人が俺の前を走り抜けながら、手のひらで俺の肩を横へどけていった。
コートの中で、俺は、いないのと同じになった。
一度だけ、こぼれ球を追って大輝と競り合った。大輝の肘が肩に当たって、俺は土の上に倒れた。右の肘が、ざらりと地面にこすれた。肘に、細かい砂がめりこんでいた。
低学年のコートのほうから、蓮の声が聞こえた。
「さくー! がんばれー!」
紅白戦が終わるまで、俺のところにボールは来なかった。
整列して、中学年の子たちが解散していく。航がすれ違いざまに、俺の肩を叩いていった。大輝は俺のほうを見なかった。
コーンを片づけていた園田さんが、俺のところへ来た。
「どうだった」
「……さわれなかった」
「そうか」
園田さんはしゃがまなかった。立ったまま、俺の頭の上から言った。
「一回だけって、監督は言ったけどな。来週も、来るか? 監督には、俺から言っとく」
俺は自分の右の肘を見た。砂のめりこんだ擦り傷が、赤くにじんでいた。
「……うん」
気がつくと、そう答えていた。
低学年のコートでは、まだ紅白戦が続いていた。蓮が点を取って、一年生たちが一列にそのあとをついていく。俺は白い線の外を歩いて、フェンスの下のナップザックを拾った。
◇
昼ごはんの前に、母が肘の擦り傷を洗ってくれた。水道の水をかけると、めりこんでいた砂が流れて、傷が赤くしみた。
「いたい?」
「……いたくない」
「うそ。顔が、いたいって言ってる」
母は笑って、消毒液をつけて、大きな絆創膏を貼った。
「三年生、大きかった?」
「……おもかった」
ボールが、とは言わなかった。母は絆創膏の端を、指でもう一度押さえた。
昼ごはんは焼きそばだった。右手で皿を引き寄せようとすると、肘がつっぱった。
母が焼きそばの皿を、俺の右手のすぐ前まで押してくれた。皿を引き寄せなくても、箸が届いた。食べ終わるころ、母が自分の歯を指でつついてみせた。
「青のり、ついてる」
俺は舌で前歯の裏をなぞった。母はまだ、自分の歯をつついていた。
絆創膏の上から肘を押さえてみると、じわりと痛んだ。何がいけなかったのか、まだ分からなかった。分からないまま、来週も行く、と言ってしまった。
午後二時。居間のテレビの中に、国立競技場があった。
スタンドを埋めた人の数は、九月七日の夜よりもっと多く見えた。赤い服の一団が、スタンドの一角を埋めている。相手の国の応援団だった。
父はソファの真ん中に座っていた。今日は朝から家にいた。新聞の日程表に二重の丸をつけた日だ。仕事は入れなかったのだろう。膝の上に、青いファイルが置いてあった。テーブルの上に、缶ビールはなかった。九月七日には二本開けたのに、今日の父は一本も出してこなかった。
母は台所でお茶の支度をしてから、ソファの端に座った。俺は父の隣に座った。右の肘には、母が貼ってくれた絆創膏があった。
久しぶりの日差しが、レースのカーテン越しに居間の奥まで入っていた。テレビの画面の右半分に、窓の明るさが白く映りこんでいる。父は一度腰を上げて、厚いほうのカーテンを半分だけ引いた。居間が暗くなって、国立の芝の緑が濃くなった。
「韓国だ」
父はそれだけ言って、テレビの音を一つ大きくした。
試合が始まった。
前半は、点が入らなかった。日本が攻めて、韓国が守る。韓国が攻めて、日本が守る。父は一つ一つのボールに体を傾けた。九月七日の夜のように、ソファの背にもたれてはいなかった。
後半も、しばらく点は入らなかった。
六十五分を過ぎたころだった。日本の中盤の選手が、ゴールの前で、ボールをふわりと浮かせた。キーパーの頭の上を越えて、ボールはゆっくりと落ちていった。
ゴールの中に。
「入った!」
父が立ち上がった。ファイルが膝から落ちて、床に開いた。父は気づかずに、テレビに向かって叫んでいた。
「入った、入った! 見たか、今の!」
「……みた」
「ループだ。キーパーの頭の上を、こう、ふわっと」
父は手で、ボールの軌道を宙に描いてみせた。顔が、真っ赤だった。母が笑いながら、床に落ちたファイルを拾って、テーブルの上に置いた。
一対〇。
俺は壁の時計を見た。三時を、二十分ほど過ぎていた。
七十三分、日本は攻めの選手を一人下げて、守りの選手を入れた。父が「守るのか」とつぶやいた。声に、少し不安が混じっていた。
八十三分。韓国に、一点を返された。父は前に傾けた体を、そのまま止めていた。
八十六分。また、入れられた。父の喉が、一度だけ動いた。
一対二。
スタンドの一角の赤い服の一団だけが、跳ねていた。国立の残りの部分は、静まり返っていた。
父はソファに座ったまま、動かなかった。膝の上で握っていた拳が、ゆっくりと開いていった。指の一本一本が、力をなくしていくみたいだった。
笛が鳴った。試合が終わった。
父はテレビを消さなかった。リモコンにも手を伸ばさなかった。ただ、画面を見ていた。うなだれる日本の選手たち。抱き合う韓国の選手たち。
母はお茶の湯呑みを盆に集めて、そっと台所へ立った。
外の道を、近所の子の自転車がベルを二度鳴らして通り過ぎていった。台所で母が戸棚を開け閉めする気配がして、それもすぐにやんだ。半分引いたカーテンのすきまから、日がテーブルの角まで伸びていた。廊下の電話は、その日一度も鳴らなかった。
◇
しばらくして、父が俺のほうを見た。父の目が、俺の右の肘で止まった。
「……どうした、それ」
「……さんねんせいと、やった」
父は絆創膏を見ていた。
「中学年の練習に、まざった。ぼくが、やりたいって、いったから」
父の目が、絆創膏から俺の顔へ上がってきた。
「……負けたのか」
「うん」
さわれなかった、とは言わなかった。一度もボールが来なかった、とも言わなかった。うん、とだけ言った。
「……そうか」
父はまた画面のほうを向いた。テーブルの上のファイルを取って、膝の上に置いた。開かずに、表紙の上に手のひらをのせていた。
絆創膏の下で、肘の傷が脈を打つように痛んだ。
二人とも、今日、負けた。
テレビの中の国立では、青い服の人たちが少しずつ席を立って、空いた席が増えていった。父と俺は並んで、空いていく席を、最後まで見ていた。




