第38話 かちたいの?
「夏にな、講習に行ってきたんだ」
整列の前に、園田さんがみんなの前で言った。
九月十四日の日曜日。おとといから雨が続いて、今朝はやんでいたが、空は低い雲でいっぱいだった。校庭の土はまだ黒く湿っていて、水たまりこそないものの、靴の裏にまとわりついた。
「こうしゅうって、なに?」
陸が首をかしげた。
「勉強会みたいなもんだ。子どもにサッカーを教える大人が集まって、教え方を習うんだよ。今年から新しくできたやつでな。少年少女の、指導員、っていうんだ」
園田さんは首のタオルの端をいじりながら、少し照れくさそうに言った。
誰に言われたのでもなく、園田さんは自分から行ったのだ。
「……なに、ならったの?」
俺が訊くと、園田さんはにやりとした。
「いろいろだよ。ちっちゃいコートで、少ない人数でやれ、とかな。みんなが、いっぱいボールに触れるように」
去年の十月から園田さんがやっている、四対四のことだと思った。園田さんが自分で考えて始めたことを、講習が、間違っていなかったと言ったのだ。
園田さんはジャージのポケットから、薄い冊子を出してみせた。表紙に、講習の名前が印刷してある。ページをめくると、小さな四角いコートの図や、矢印がいくつも描いてあった。
蓮が横からのぞきこんで、図の矢印を指でなぞった。
「これ、おれ?」
「さあな。ここにな、子どもは遊びの中でうまくなる、って書いてある」
「あそびで、いいの?」
蓮が身を乗り出した。
「いいんだよ。遊びでいい」
「やった!」
蓮は飛び上がった。何がやったなのか、たぶん蓮にも分かっていなかった。
「じゃあ、おにごっこも、れんしゅう?」
陸が手を挙げて訊いた。園田さんは陸のほうを向いた。
「陸は、どう思う?」
「……わかんない」
蓮が横で「おれ、おに、やる!」と手を挙げた。園田さんは丸めた冊子で、自分の頭をこつんと一つ叩いた。
「それから、両足で蹴れ、とも言われたよ。小さいうちから、右も左も」
園田さんの目が、ちらりと俺のほうを向いた。火曜日の「左の日」のことを、母か誰かから聞いているのかもしれなかった。
それから園田さんは、腕を組んで立っていた大河原監督のほうを向いた。
「あと、監督。暑いときの試合で、協会が、試合の途中で水を飲ませろって決めたらしいですよ。前半の途中と、後半の途中に、一回ずつ」
監督は組んだ腕をほどかなかった。
「……試合の話だろう」
「ええ、試合の話です」
園田さんは笑って、それ以上は言わなかった。監督の腕も、組まれたままだった。
去年の夏、俺は監督に言うべきことを言わなかった。岳が倒れて、救急車が来た。それから一年と少しで、協会のほうが、試合の途中の水を決めた。
遅い、と思った。それでも、来た。
◇
四対四の最初の組で、蓮と俺は別々の組になった。
雨のあとの土は、ボールにすぐ張りついた。三号球の皮に黒い土が厚くついて、蹴るたびに一回り重くなる。転がしたボールは、いつもの半分くらいのところで勢いをなくした。ボールを止めると、靴の内側に泥の跡が丸く残った。蓮の靴の横もすぐに黒くなった。
三回、蓮が俺の前に来た。
一回目と二回目は、蓮が目を落とす一瞬を待った。待っているうちに、ボールは蓮の足の裏で横へ動いていた。目を落とす一瞬は、夏の終わりから、どんどん短くなっていた。八月五日に一回取られてから、蓮の体が勝手に覚えたのだ。俺が一回取るあいだに、蓮は次の一歩を覚えてしまう。
三回目は、待たなかった。蓮の足の裏がボールの上に乗るのを見ていた。乗った、と思って足を出したときには、ボールはもう横に転がっていた。俺の右足は、さっきまでボールのあった土を踏んでいた。
三回とも、蓮が決めた。コーンのあいだにボールが抜けるたびに、蓮は「よっしゃあ!」と跳ねた。それから振り返って、俺を見て笑った。
「さく、おしい!」
三回目のあと、蓮がコーンの脇で息を整えながら言った。
「さく、さんねんせいのたいかいね、ほんとに、たのしかったよ」
蓮は両手で、ボールの大きさを作ってみせた。
「ボール、おっきいの。さくも、でたら、いいのに」
悪気はかけらもなかった。蓮は本当に、俺も出ればいいのにと思っているのだ。出られるかどうかを決めるのが蓮でも俺でもないことを、蓮は考えていなかった。
俺は奥歯を噛んでいた。噛んでいることに、四回目の蓮のゴールのあとで気づいた。顎の付け根が、じんとしびれていた。
園田さんの笛が鳴った。
「はい、水!」
蓮は真っ先に水飲み場へ駆けていって、いちばんに飲んだ。コートへ走って戻りながら、まだ「おっきいの」と言っていた。
◇
水飲み場の、ステンレスの流しの前に並んだ。蛇口は六つある。俺はいちばん端の蛇口をひねって、手のひらで水を受けて、顔を洗った。
列の反対の端で、樹が蛇口の口を指で押さえて、水を横へ飛ばした。水が背中に当たった陸は、「つめたっ!」と体を反らせて樹を二、三歩追いかけた。コートの端から、園田さんが「樹、あそぶなー」と呼んだ。曇り空の下の水道の水は、八月よりずっと冷たかった。
顔を上げると、隣の蛇口にひかりがいた。
ひかりもさっきの四対四で、一本外していた。コーンのあいだを狙ったボールは、コーンの外側に当たった。ひかりは「また」と小さく言って、その場で地面を蹴っていた。六月に塀の前で「つぎの、しあいで、いれる」と言ってから、ひかりはまだ一度も入れていない。
ひかりは水を飲まずに、俺の顔をのぞきこんでいた。濡れた前髪の先から、水の粒が落ちていた。
「さくくん」
「なに」
「さくくん、れんくんに、かちたいの?」
蛇口から出しっぱなしの水が、流しに当たって跳ねていた。
かちたい。
頭の中で、いくつも答えが浮かんだ。蓮は四月生まれだから。体の差は、待てば縮むから。今は勝ち負けより、できることを積む時期だから。四月から、ずっと自分に言い聞かせてきた言葉だった。
口から出たのは、そのどれでもなかった。
「……うん」
自分の声だった。小さかったけれど、自分の声で、自分の耳に聞こえた。うん。かちたい。
八月の、用水路の小石。日付だけのページ。朝の校庭で両手を広げていた蓮。届かなかった、こぶし一つぶん。おしい、と笑った蓮。全部が、その「うん」の中に入っていた。
ひかりはしばらく、俺の顔を見ていた。
「ふうん」
それから、蛇口に口を近づけて、水を飲んだ。飲み終わって、手の甲で口を拭いてから、言った。
「わたしも、かちたい」
ひかりはそれだけ言って、コートのほうへ走っていった。結んだ髪が、背中で跳ねていた。
俺は出しっぱなしの蛇口を閉めた。
言ってしまった。言ったら、もう戻れない気がした。いずれとか、そのうちとか、待てば縮むとか。四月から自分に言い聞かせてきた言葉の中には、もう戻れない。かちたいと言った口で、待てばいいとは言えない。
手のひらで、もう一度顔を濡らした。冷たい水が、熱くなった耳の後ろまで流れていった。
◇
練習が終わってお茶を飲み、みんなが帰りはじめたころ、俺は園田さんのところへ行った。園田さんはコーンを積み重ねて、片づけていた。
ゴールの脇に、コーンが一つ残っていた。泥がこびりついて、オレンジ色が半分くらい黒くなっている。俺はそれを拾って、指で泥を落としながら園田さんの横まで持っていった。園田さんは顔を上げずに受け取って、積み重ねのいちばん上にのせた。その指の先も泥で黒かった。
「コーチ」
「お、朔くん。どうした」
「……さんねんせいの、れんしゅうに、まぜてください」
園田さんの手が止まった。コーンを一つ持ったまま、俺の顔を見た。
「中学年の?」
「はい」
園田さんはしゃがんで、俺と目の高さを合わせた。いつものしゃがみ方だった。
「なんで、三年生なの?」
答えは、いくつもあった。年上の中でやる理屈なら、一度目の人生で何度も読んでいた。
「としうえと、やると……からだが、ちがうから……」
言いかけて、やめた。
本当の理由は、八月二十四日にあった。ラインの外で、膝の上で手を握りしめていた自分。蓮が三年生の中で四号球を蹴って、点を取るのを、ただ見ていた自分。
「……ぼくが、やりたいから」
園田さんが目を丸くした。それから、にやりと笑った。細い目が、もっと細くなった。
「そうか。やりたいからか」
「……はい」
「いいね。それが、いちばんいい理由だ」
園田さんは立ち上がって、持っていたコーンを積み重ねの上に置いた。
「よし。監督に言ってみよう。一緒に来な」
園田さんは俺の肩に手を置いて、高学年のほうで笛を首から外していた大河原監督のところへ歩いていった。
「監督」
「なんだ」
「こいつ、中学年の紅白戦に、一回混ぜてやってもいいですか。本人が、やりたいって言うんで」
監督の目が、俺の上に下りてきた。頭のてっぺんから靴の先まで、ゆっくりと。二年生でいちばん小さい体を、測るように。
「三上」
「……はい」
「三年生は、でかいぞ」
「……はい」
「ぶつかったら、飛ぶぞ」
「……はい」
監督はしばらく、黙って俺を見ていた。首の銀色の笛が、曇り空の下で鈍く光っていた。
「……一回だけだ」
監督はそれだけ言って、背中を向けた。その背中が高学年の輪に入るまで、俺は息を止めていた。吐いた息は、思ったより長かった。
園田さんが俺の肩を、一度だけ強く叩いた。
「来週は、中学年は練習試合で出かけるからな。再来週だ。二十八日。中学年は、向こうのコートな」
「はい」
九月二十八日。父が新聞の日程表に、二重の丸をつけた日だった。
家までの道を、一人で歩いた。やりたいから、と口の中でもう一度言ってみた。声には出さなかった。田んぼの稲が、重たそうに頭を垂れはじめていた。この前まで青かった穂の先が、いつのまにか黄色くなっている。用水路の脇を通るとき、八月に小石を落とした場所の前を、今日は立ち止まらずに通り過ぎた。
畦のところどころに、彼岸花の茎が伸びていた。葉も出ないうちに茎だけがまっすぐに立って、先に赤いつぼみをのせている。遠くの田んぼで、鳥よけの空砲が一つ、ぱあんと鳴った。電線のスズメが一度に飛び立って、また同じ電線に戻った。
家に帰って、母に言った。
「さんねんせいの、れんしゅう、でることになった」
母は洗濯物をたたむ手を止めた。
居間の鴨居から、雨続きで外に干せなかったシャツやタオルが、何枚もハンガーで下がっていた。母の膝の前には、乾いたものだけがたたんで重ねてあった。前掛けのポケットに、洗濯ばさみが二つ挟まっていた。部屋じゅうが、乾ききらない布の匂いで湿っぽかった。
「あら。三年生と? ……だいじょうぶ?」
「……わかんない」
「けが、しないでね」
母はそう言ってから、たたみかけのタオルを膝の上に置いた。
「さくが、出たいって言ったの?」
「……うん。やりたいから」
母は俺の顔をじっと見た。膝の上のタオルの角を、指で一度そろえた。それから、ふっと笑った。
「そう」
それだけ言って、母はまたタオルをたたみはじめた。たたみながら、ぽつりと言った。
「二十八日って、お父さんの、サッカーの日じゃない? 新聞に丸、つけてたでしょ」
「うん」
「いそがしい日ね、二人とも」
九月二十八日。午前は、三年生の中で。午後は、父の隣で。
三号球を持って、玄関を出た。塀は朝までの雨を吸って、まだ黒っぽかった。
いつもより強く蹴った。戻ってきたボールが、いつもより速く足の裏にぶつかって、止めきれずに塀の脇の雑草の中へ跳ねた。三年生の使う四号球は、これより一回り大きくて、重い。俺は雑草の中からボールを拾って、もう一度、強く蹴った。




