第37話 九月七日
「さんねんせいって、こーんなに、でかいの!」
九月七日の日曜日。練習の始まる前の校庭で、蓮が両手を大きく広げていた。
まわりに、一年生が集まっていた。夏休みのあいだに、蓮の腕は真っ黒に焼けていた。
「ぶつかったら、とぶの! でも、おれ、ぬいて、いれた!」
「すげー!」
樹が声を上げた。いちばん小さな男の子も、輪の端で口を開けて蓮を見上げていた。中学年の大会から二週間がたつのに、蓮はまだ同じ話をしていた。二学期の始業式の朝にも、隣のクラスの前で、男の子たちに同じ話をしていた。
俺はナップザックをフェンスの下に置いて、三号球を出した。
フェンスの下には、夏休みの終わりに親たちが刈った草が、山になって乾いていた。刈って乾いた草から、干し草のような匂いが立っている。刈り残しのねこじゃらしが一本、金網の目から穂を突き出していた。草の山の上を、白い小さな蝶が一匹、低く行き来していた。
輪の外から、蓮を見ていた。話しながら、蓮は地面の上で何度も足を動かしてみせた。足の裏でボールを引いて、横へ。あの日、ラインの外の木陰で、膝の上の手を握りしめながら見た動きだった。手のひらの爪の跡は、次の朝には消えていた。
「蓮くん」
声が出ていた。
「いちたいいち、して」
蓮が振り向いた。それから、目をまんまるにした。
「さくから、いうの、はじめて!」
言われて、気づいた。夏休みのあいだ、いちたいいちと言いだすのは、いつも蓮だった。
「いいよ! おれ、せめる!」
蓮は一年生の輪を抜けてきて、俺の三号球を足もとに引き寄せた。樹たちが、わっと横に並んだ。
「れんくん、ぬけー!」
樹がその場で跳ねながら叫んだ。輪の子たちの顔は、みんな蓮の足もとに向いていた。俺は膝を曲げて、体の重さを足の指の付け根に乗せた。夏のあいだに、三号球の白いところはほとんど残っていなかった。土と同じ色になったボールを、蓮が靴の内側で軽く転がしていた。
蓮が来た。一歩目は、いつものようにゆっくりだった。
俺は蓮の足もとを見ていた。目を落とす一瞬を待った。八月五日に一度だけ取った、あの一瞬を。
蓮が、ボールに目を落とした。
足を出した。
つま先の先に、ボールはなかった。蓮は腰を沈めなかった。目を落としたときには、もう足の裏でボールを引いていた。三号球は、俺のつま先からこぶし一つぶん横を、するりと転がっていった。
こぶし一つぶん、届かなかった。
伸ばした右足が、何もない土の上で止まっていた。片足のまま、俺はしばらく動けなかった。靴の裏でボールの皮がこすれる、きゅっという音だけが、耳に残っていた。
蓮は俺の横を抜けて、フェンスの前でボールを止めた。振り返って、指を一本立てた。
「なつやすみ、おれの、かち、いっぱい! さくの、かち、いっかい!」
それから、けらけら笑った。
「でも、あのいっかい、ずるかった!」
「……もっかい」
自分の声が、思ったより大きかった。蓮がまた目をまんまるにした。
そのとき、園田さんの笛が鳴った。
「はーい、集まれー!」
蓮は「あとでね!」と言って、整列のほうへ走っていった。一年生たちが、そのあとを一列についていった。
俺は自分の右の靴のつま先を見た。土がついているだけだった。ボールの皮に触れた感じは、どこにも残っていなかった。
あとで、は来なかった。練習が終わると、蓮はまた一年生に囲まれて、両手を広げていた。俺はナップザックを背負って、その輪の横を通り過ぎた。
昼ごはんのあと、家の前の駐車スペースで蓮の足の動きをまねてみた。父の車は日曜の現場に出ていて、そこにはなかった。
右足の裏をボールの上に置いて、手前へ引く。引いたボールが左のかかとに当たって、そこで止まった。もう一度。今度は引きすぎて、ボールは足の下を抜けていった。道との境の側溝のふたの上で、ようやく止まった。拾って戻って、また置く。
蓮がやると一つに見えた動きが、俺の足では三つに分かれていた。置く。引く。横へ出す。三つのあいだに、そのたびに小さな止まりができた。
◇
その夜は、夕飯の皿が居間のソファの前に並んでいた。
唐揚げに、千切りのキャベツ。味噌汁と、ご飯。いつもは台所の食卓で食べる夕飯を、母が今日だけは、テレビの前に運んでくれた。
「今日だけよ。日曜だから」
母はそう言って、最後に父の缶ビールをお盆にのせて持ってきた。
父は夕方の六時過ぎに、日曜の現場から帰ってきた。作業着のまま手を洗って、着替えもせずにソファに座った。テレビの中には、もう国立競技場が映っていた。夜の照明に照らされた緑の芝。スタンドを埋めた青い服の人たち。
「今日から、本番だ」
父は箸を持ったまま、画面から目を離さずに言った。
試合が始まる前に、父は一度立ち上がって、テレビの横の棚から青いファイルを出してきた。膝の上で、最初のページを開く。
四年前の秋の記事だった。日本代表がワールドカップの予選の最後の試合で、最後の最後に追いつかれて、本大会に行けなかった夜の記事。大きな見出しの下に、ピッチに座りこむ選手たちの写真。余白に、父の角ばった字で日付が書いてある。
「四年前は、ここで終わった」
父はそれだけ言って、ファイルを閉じた。棚には戻さずに、ソファの自分の脇に置いた。
去年の十一月にも、父はこのページを俺に見せてくれた。あのときは、話が終わると、ファイルを棚のいちばん下の段に戻した。今夜は、試合が始まる前から、ファイルを自分の隣に置いている。お守りみたいに。
アジアの最終予選の、初戦だった。ほかの四つの国と、ホームとアウェーで二回ずつ戦う。一位なら、そのまま本大会。二位でも、まだ道が残っている。日本はまだ、一度もワールドカップに出たことがなかった。
父の箸は、唐揚げの上で止まったままだった。
「お父さん、冷めるわよ」
「ん」
返事だけして、父は動かなかった。母は呆れたように笑って、自分の唐揚げにレモンを絞った。
俺は父の隣で、味噌汁をすすった。居間の窓の外で、虫が鳴いていた。九月の夜の、細い、途切れない声だった。
七時が近づくと、画面の中で選手たちが一列に並んだ。国歌が流れはじめると、父は箸を皿の縁に渡して、ソファの背から体を起こした。母はそれを見て、自分の箸を置いた。青いシャツの選手たちの顔が、一人ずつ大きく映っていった。国歌が終わると、父はまた箸を取った。
◇
七時。キックオフの笛が鳴った。
始まってすぐ、日本にペナルティーキックが与えられた。ベテランのエースが蹴って、決めた。
「よし!」
父の箸が、宙に跳ねた。唐揚げが一つ、皿の外に転がった。母が「もう」と言って拾った。
「ねえ、今の、なんでペナルティーなの?」
「相手が、ゴールの前で反則したんだ」
「見えなかったわ」
「見えなくても、そうなんだ」
父は画面から目を離さずに答えた。母は肩をすくめて、俺のほうを見て笑った。サッカーの話をするときの父の声は、ふだんより一段高い。母はそれを面白がっているようだった。
エースはそのあとも点を取った。若い司令塔も一点、もう一人のフォワードも一点。前半のうちに、日本の点は四つになった。
若い司令塔が決めたとき、父は「ほら、な」と言った。俺のほうは見なかった。六月のオマーンとの試合で、ボールを持ったとき顔が上がってる、と父が言っていた選手だった。
「強いぞ、今日は」
ハーフタイムに、父は缶ビールをもう一本開けた。今日は日曜なのに、二本目だった。
母が台所で梨をむいて、ガラスの器に盛ってきた。今年はじめての梨だった。芯のところは、きれいにえぐり取ってあった。父はハーフタイムの解説を聞きながら一切れつまんで、汁を作業着の膝に落とした。母はティッシュの箱を、父の膝の横に置いた。俺も一切れかじった。冷たくて、噛むと、しゃりっと歯が沈んだ。
後半も、日本は点を取った。エースが三点目を取ったとき、父は膝を叩いた。ぱん、と大きな音がした。四点目を取ったときには、ソファから立ち上がった。
「四点だ、四点! あいつ、四点だぞ!」
父はテレビの中のエースを指さした。それから俺のほうを見た。
「見たか。一試合で、四点だ」
「……みた」
「フォワードってのは、ああいうもんだ」
父はそう言って、またソファに沈みこんだ。膝の上で、拳を握ったり開いたりしていた。
俺も一緒に手を叩いた。四点目のボールがネットに入る直前、ソファの上で、俺の右足が勝手に前へ出ていた。テレビの中のボールに、つま先を伸ばすみたいに。
手を叩きながら、朝の一本のことを考えていた。こぶし一つぶん届かなかった、右のつま先。それから、机の引き出しにしまった小石のことを。八月二十四日の帰り道、用水路に落とさずに握って帰った、六つ目の小石だった。
六対三で、試合が終わった。相手にも三点取られたが、父はそんなことはどうでもいいようだった。
「これなら、フランスだ」
父は空になった缶を、手の中でへこませながら言った。
「来年の夏、フランスに行けるぞ。日本が、ワールドカップに出るんだ」
父の声が、少し震えていた。四年前の秋の夜を、父は覚えているのだ。ファイルの最初のページの、ピッチに座りこむ選手たちを。
「……うん」
俺はうなずいた。
◇
試合のあとのニュースが終わるまで、父はテレビの前を動かなかった。同じゴールが、何度も繰り返し流れた。エースの四点。父はそのたびに、うん、うんとうなずいていた。
廊下の電話が鳴った。父が立って、受話器を取った。
「はい、三上。……おう。……見た見た。見たに決まってるだろう」
父の声が、急に大きくなった。
「六点だよ、六点。……ああ、四点。あいつ、やっぱりすごいな。……フランスだよ、フランス。今度こそ」
父は受話器を耳に当てたまま、壁にもたれて、声を上げて笑っていた。高校のときのサッカー部の仲間からの電話らしかった。父が誰かと電話で、こんなに長く楽しそうに話すのを、俺は初めて聞いた。
「……ああ。……ああ、また、そのうち。な」
父は受話器を置いて、しばらく電話台の前に立っていた。それから首の後ろをかきながら、居間に戻ってきた。
母が皿を片づけはじめて、俺も手伝った。台所と居間を、皿を持って三回往復した。三回目に台所へ皿を運ぶと、母が流しに手を入れたまま、小さな声で言った。
「お父さん、うれしそうね」
「うん」
「あんなに笑うの、ひさしぶり。お仕事、ずっと大変だから」
母は水を止めて、濡れた手を前掛けで拭いた。居間のほうから、父がテレビに向かって「うん」と言う声が聞こえた。
「今日くらい、いいわよね」
母はそう言って、また水を出した。
居間に戻ると、父がこちらを見ていた。
「……どうした」
「え?」
「静かだな」
父は缶ビールを持ったまま、俺の顔を見ていた。テレビの光が、父の顔の片側を青く照らしていた。
何を答えればいいか、分からなかった。
蓮が三年生の大会に選ばれて、俺は選ばれなかった。悔しいと思ったことを、まだ誰にも言っていない。朝の一本のことも、言っていない。言葉にしたら、いずれ追いつくという四月からの考えが、どこかで崩れてしまう気がした。
それに、もう一つあった。日本はここから、一度落ちる。今夜の父は、それをまだ知らない。俺はそれを知っていて、父の隣で手を叩いた。
「……なんでもない」
父はしばらく俺を見ていた。それ以上は訊かなかった。訊いても答えないことを、父は無理に訊かない。今は、それがありがたかった。
父は缶ビールを置いて、ソファの横に積んである新聞を一部取った。スポーツ面を開いて、最終予選の日程が載っているところを探した。胸ポケットのボールペンを抜いて、日付の一つを、ぐるりと丸で囲んだ。
九月二十八日。国立。韓国戦。
父のペンは、丸を二重にしていた。




