↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
36/42

第36話 三年生の大会

 お盆が明けた日曜日は、朝から涼しかった。


 八月十七日。先週まであれほど暑かったのが嘘のように、空は薄い雲に覆われて、風がひんやりしていた。半袖の腕に鳥肌が立つほどだった。ひかりは家から長袖のジャージを着てきて、走りはじめてすぐに脱いだ。


 夏休みの練習は、人が少なかった。お盆の前後は、どの家も田舎へ帰ったり、旅行に行ったりする。低学年の集まりも、いつもの半分くらいしかいなかった。一年生は樹と、いちばん小さな男の子の二人だけだった。奏も、ほかの子も、まだ帰ってきていない。


 四対四をやって、紅白戦をやった。人数が少ないぶん、一人がボールに触る回数が多かった。俺は三回、先に触った。八月五日に公園で蓮から一回取ってから、試合の中でも、相手がボールに目を落とす一瞬がときどき見えるようになっていた。見えても、いつも間に合うわけではない。それでも、三回。


 紅白戦の終わり近くに、樹がボールを持ってまっすぐ俺のほうへ来た。樹は靴の先で突くように蹴る。蹴る前に一度、確かめるように下を向く。樹の顔が下を向いた。俺の右足のほうが先に出て、ボールは樹の足の前から横へ転がった。右足を振り抜いた樹は、片足のまま、とっとっと二歩よろけた。


「……あれ?」


 樹は自分の足を見た。転がったボールは、ジャージの袖を腰に結んだひかりが拾って、もう前へ運んでいた。


 先週までは昼前から靴の底を焼いてきた土が、今日は冷たく締まっていた。


 練習の終わりに、大河原監督が低学年のほうへ来た。整列した俺たちの前に立って、腕を組んだ。


「来週の日曜、中学年の大会がある」


 中学年、と聞いて、何人かが顔を見合わせた。三年生と四年生の大会だ。俺たち二年生には関係がない。


「人数が足りん。帰省で、何人も来られん」


 監督は俺たちの顔を、端から順に見ていった。一人ずつ、品定めするように。その目が、ある子の上で止まった。


「駒井」


「はい!」


「来週、中学年に入れ」


 蓮の顔が、ぱっと明るくなった。


「やった!」


 蓮はその場で跳ねた。監督はそれを見もせずに、次の子に目を移した。


 蓮の運動靴の下で、土が小さく舞っていた。一年生の樹が「いいなー」と声に出した。ひかりがかかとを上げて、背筋を伸ばした。監督の目はひかりの上で止まらずに、その隣へ移った。ひかりはかかとを下ろした。


「矢島」


「……はい」


「お前もだ。背があるからな」


 陸はまばたきを二回して、自分の顔を指さした。ぼく? という顔だった。監督はうなずきもせずに、それで話は終わりだというように、高学年のほうへ歩いていった。


 俺の名前は、呼ばれなかった。


 当たり前だ、と思った。蓮は低学年でいちばんうまい。四月に八歳になって、体も大きい。三年生の中に入っても、点を取れる。陸は二年生でいちばん背が高い。三年生と並んでも、見劣りしない。俺は二年生でいちばん小さい。三年生と並べば、たぶん頭一つ違う。監督が選ばないのは、当たり前だった。


 そう思った。それで、終わりのはずだった。


 蓮が駆けてきて、俺の肩をつかんだ。


「さく! おれ、さんねんせいと、やる!」


「うん。すごいね」


「さくも、みにきて!」


「……うん」


 陸は少し離れたところで、まだ自分の手のひらを見ていた。


   ◇


 中学年の大会は、若宮小の校庭で開かれた。


 八月二十四日の日曜日。四つの少年団が集まって、総当たりで試合をする。校庭の半分に、低学年のときより大きなコートが白い線で引かれていた。ゴールも子ども用の小さいものより、一回り大きいものが運びこまれていた。


 校庭の四つの隅に、それぞれの少年団の子どもと親が固まっていた。よその少年団の父親が、黒いビデオカメラを片手で構えて、小さなのぞき窓に片目を当てている。夏休みの校舎はどの窓も閉めきってあった。一年生の教室の窓の下に、持ち帰られなかった朝顔の鉢が三つ残っていた。枯れた蔓が支柱に巻きついたまま、茶色くなっていた。


 俺は母と一緒に、ラインの外の木陰に座って見ていた。今日、母はお茶当番ではなかった。それでも見に行くと言ったら、母は日傘を出してきて、ついてきてくれた。


 若宮の中学年は、そろいの水色のビブスを着ていた。三年生と四年生が十人ほど。その中に、ビブスを膝の近くまで垂らした蓮と、裾が腰のところで止まっている陸が混じっていた。三年生には、去年から声の大きい子もいた。中学年に入っても、やっぱりいちばん大きな声を出していた。


 ボールが、大きかった。中学年の試合は四号球を使う。低学年の三号球より一回り大きくて、重い。蓮の足もとで、ボールがいつもより大きく見えた。


 最初の試合は、隣町の緑のシャツの少年団だった。その中に、見覚えのある顔があった。三月の交流戦の最後の試合で、岳が競り勝った子だ。三年生になって、また大きくなっていた。


 蓮がボールを持った。


 いつもなら、そこから蓮は抜けていく。一人、二人と、相手の足のあいだを何でもないようにすり抜けていく。


 抜けなかった。


 蓮が腰を沈めた瞬間、緑のシャツの三年生が体ごとぶつかってきた。蓮の体が横に飛んだ。ボールは三年生の足もとに残った。


 二度目も、三度目も、そうだった。蓮が沈む。三年生がぶつかる。蓮がはじき飛ばされる。


 低学年の中では、蓮の体は重いほうだった。四月生まれの、八歳の体。ぶつかられても揺れなかった。それが三年生の中では、いちばん軽い体の一つになっていた。蓮の顔から、いつもの笑いが消えていた。


 陸は背が高いぶん、高く上がったボールには三年生と同じ高さで頭を出した。それでも、ボールを足もとに置くと、すぐに囲まれた。左右どちらの足でも蹴れるのに、蹴る前にボールを取られた。


 団子からボールがこぼれるたびに、靴の中で俺の足の指が動いた。こぼれる先は、ラインの外からでもよく見えた。団子の右の後ろ。そこに立てば、と思っても、木陰からは一歩も出られない。膝の上に置いた手に、知らないうちに力が入っていた。


 前半は、どちらにも点が入らないまま終わった。若宮のシュートは、一本もなかった。


 前半が終わった若宮の輪の真ん中で、蓮はしゃがんで指で土をほじっていた。顔を上げなかった。園田さんが自分の首のタオルを外して、蓮の頭にばさりとかぶせた。蓮はタオルをかぶったまま動かなかった。陸は輪の端に立って、腰のところで止まってしまうビブスの裾を、何度も下へ引っぱっていた。


 ハーフタイムに、隣にひかりが来て座った。自転車で見に来ていたらしい。膝を抱えて、水色のビブスの子たちのほうをじっと見ていた。


「わたしも、でたかった」


 ひかりは前を見たまま、まっすぐ言った。


「りくくんは、せが、たかいから、でしょ」


 ひかりは手のひらを、自分の頭の上にかざしてみせた。


「わたし、りくくんより、ひくいけど。さんねんせいの、おんなのこより、たかいもん」


 中学年の大会に、女の子は一人も出ていなかった。どの少年団にも。


「つぎ、よばれたい」


 ひかりはそう言って、膝の上で拳を握った。


 俺は何も言えなかった。ひかりは出たかったと口に出した。悔しい、と顔に書いてあった。俺はまだ、何も口にしていなかった。当たり前だ、と自分に言い聞かせていた。


 後半、蓮はぶつかられる前に動くようになった。


 腰を沈めるのを、やめた。ボールを足の裏で引いて、相手が来る前に、横へ。三年生の体が届く前に、ボールを動かす。自分の体が三年生より軽いことを、蓮は試合の中で覚えたのだ。誰に教わったのでもなく。


 後半の半ば、蓮が緑のシャツの三年生を一人、抜いた。


 足の裏で引いて、相手がぶつかってくる半歩前に、外へ。三年生の肩が空を切った。蓮はそのままゴールの前まで運んだ。キーパーの三年生が前に出てくる。蓮はその横に、ころりと転がした。


 ボールが、ゴールの中に入った。


 若宮の大人たちから、歓声が上がった。水色のビブスの三年生たちが駆け寄っていった。声の大きい三年生が、蓮を後ろから抱えて持ち上げた。蓮の足が、宙で二回、ばたばたと動いた。


 気がつくと、俺は膝の上で両手を握りしめていた。手のひらに、爪の跡が四つずつ、くっきりと残っていた。


 隣で、母が日傘の下から俺の顔をのぞきこんだ。


「蓮くん、すごいわね」


「……うん」


 声が、少しかすれていた。母は日傘を、こちらへ傾けてくれた。


   ◇


 若宮はその一点を守りきって、一試合目に勝った。残りの二試合は負けて、一勝二敗の三位だった。蓮の一点が、この日の若宮のただ一つの勝ちの、決勝点になった。


 片づけが終わると、蓮が走ってきた。水色のビブスを脱いで、手に握っていた。顔も腕も、土と汗で汚れていた。肘に、新しい擦り傷があった。


「さく! みてた?」


「みてた」


「さんねんせい、でかかった!」


 蓮は両手を大きく広げてみせた。


「すっごい、でかかった! ぶつかったら、とんだ! でも、いっこ、いれた!」


「……すごいね」


 自分の声が、自分の声に聞こえなかった。どこか遠いところで、誰か別の子がしゃべっているみたいだった。


 蓮は気づかなかった。「つぎも、でたい!」と言いながら、陸のほうへ走っていった。陸は園田さんに肩を叩かれて、照れくさそうに笑っていた。


 帰り道は、母と並んで田んぼの一本道を歩いた。母は日傘をたたんで、手に提げていた。


 道の両側の稲は、穂が出そろったばかりだった。まだ青い粒の先から、白い糸くずのようなものがのぞいている。


「穂が、出たわね」


 母は道にかぶさった稲の葉を、日傘の先で一枚ずつよけながら歩いた。その日傘の先から逃げるように、足もとの草から細長いバッタが跳ねて、稲の中へ消えた。


 用水路の脇に、小石がいくつも転がっていた。俺は一つ拾って、水に落とした。ぽちゃん、と小さな音がして、波紋が流れに引きのばされて消えた。


 もう一つ拾って、落とした。また一つ。


 母は何も訊かなかった。俺が小石を落とすのを、少し先で立ち止まって待っていた。


 悔しかった。


 気づいたのは、五つ目の小石を落としたときだった。悔しい。蓮が選ばれたことが。陸が選ばれたことが。自分が選ばれなかったことが。


 四月から、ずっと言い聞かせてきた。体の差は、待てば縮む。蓮は四月生まれで、俺は三月生まれ。焦ることはない。いずれ追いつく。それは正しかった。今も正しい。何年かすれば俺の体は大きくなって、蓮との差は縮んでいく。


 でも、選ばれたのは今日だった。


 今日、三年生の中で四号球を蹴って、点を取ったのは蓮だった。何年か後の俺がどれだけ大きくなっても、今日のあのコートには立てない。待っているあいだに、今日は、蓮のものになった。


 いずれ、と言っているあいだに、今日は、毎日、誰かのものになっていく。


 六つ目の小石は、落とさなかった。手の中に握ったまま、家まで歩いた。


   ◇


 家に帰って、二階で自由帳を開いた。


 夏休みの毎日のページには、寝た時間と起きた時間、塀に蹴った回数、蓮との勝負の数が並んでいる。0/10。1/10。0/10。


 今日の日付を書いた。その下に、何か書こうとした。


 鉛筆の先が、紙の上で止まったまま動かなかった。去年の五月から毎日続けてきた記録の中で、日付だけのページは、初めてだった。


 その夜は、眠れなかった。


 九時に布団に入って、天井の横顔のしみを見ていた。


 早生まれの子が選ばれにくいことを、一度目の俺は、表やグラフを見せながら何度も人に説明していた。説明して、分かったつもりになっていた。


 説明しているあいだ、選ばれなかった子の今日の悔しさを、考えたことは一度もなかった。


 グラフの棒の、短いほうの一本一本に、今日の俺みたいな子がいた。用水路に小石を落としながら、家に帰った子が。


 手の中には、まだ六つ目の小石があった。手のひらの熱で、もうぬるくなっていた。それでも、指は開かなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。