第35話 先に触る
夏休みの初めに、靴を買った。
クリスマスに枕もとに置いてあったトレーニングシューズは、春の終わりにはもう、つま先が親指の形に盛り上がっていた。岳に「くつ、ちいさい?」と訊かれてから、三か月。走ると親指の爪が当たって痛むようになって、母に見せたら、すぐに「買いに行きましょう」と言われた。
国道沿いの、ホームセンターの隣のスポーツ用品店だった。去年の五月に、父と三号球を買いに来た店だ。母と二人で来るのは初めてだった。
レジの奥から、眼鏡をかけた店の主人が出てきた。俺の顔を見て、おや、という顔をした。
「三上さんとこの坊やだね。お父さんには、いつも世話になってる」
「あら。主人が、いつもお世話に」
母が頭を下げた。父はこの店の常連らしかった。会社の作業用の手袋や靴も、ここで買っているのだそうだ。主人はあの日、ボールを抱えたまま袋に入れさせなかった子どもを、レジの奥から見ていたのかもしれない。
主人は笑って、子ども用の靴の棚へ案内してくれた。
途中で、ボールの棚の前を通った。前に来たときはちょうど目の高さにあったいちばん下の段が、今は目より下にあった。いちばん上の段の五号球には、まだ手が届きそうになかった。
母は一つ大きいサイズの、同じような白いトレーニングシューズを選んだ。サイドの線は、今度は赤だった。
履いてみる前に、靴を裏返した。靴底に細かい突起がびっしり並んでいる。この棚の前で、父が小さな靴を一つ裏返して、黙って棚に戻したのを思い出した。
母が「どう?」と訊いた。俺は靴を履いて、店の床を三歩歩いた。つま先に、指一本ぶんの隙間があった。
主人がしゃがんで、靴の先を人差し指で押した。
「これだけあいてれば、冬までもつよ。この年の子は、夏にぐんと伸びるから」
「冬まで、もってくれるといいんですけど」
母は財布の口金をぱちんと開けた。値札の隅には「税別」と書いてあって、レジで言われた値段は、値札の数字より高かった。
「前のは、どうする? 捨てる?」
家に帰ってから、母が訊いた。
「……とっとく」
「履けないのに?」
「とっとく」
母はそれ以上訊かずに、空いた靴の箱を一つ持ってきてくれた。クリスマスの靴を箱に入れて、押し入れの奥にしまった。箱のふたを閉める前に、もう一度だけつま先を見た。
◇
夏休みに入ってから、蓮との一対一は、月曜日のほかは毎日になった。
夕方の五時。昼間の暑さがやわらいで、公園の木の影が広場に伸びてくるころ、蓮が自転車で来る。来ない日は、俺のほうから蓮の家の前まで行って、呼び鈴を押した。蓮の家は、若宮小の西の新しい家が並んでいるあたりにある。蓮の母は俺の顔を覚えて、「蓮ー、さくくんよー」と二階に向かって呼んでくれるようになった。
陸が来る日もあった。ひかりが来る日もあった。二人がいる日は、二対一や、三人での回しっこになった。
回しっこが三十回近く続いた日に、蓮が背中のほうへ蹴り上げてみせたことがある。ボールは誰もいないほうへ高く上がって、砂場に飛びこんだ。
「いまの、れんくん」
陸が砂場のほうへあごをしゃくった。
「わかってる! もっかい、いちから!」
蓮は砂場に駆けこんで、砂まみれのボールを両手でかき出した。靴の中まで砂が入ったらしく、片足で跳ねながら靴を逆さにして振った。
でも、回しっこの日も、最後には必ず蓮が「さく、いちたいいち!」と言った。
岳が一度だけ来た日があった。岳の母が水色の車で送ってきて、一時間たったら迎えに来るから、と言って帰っていった。岳は一対一には入らずに、生け垣の陰に座って、俺と蓮を見ていた。
十回が終わって俺が息を切らして座りこむと、岳が隣に来て水筒のふたを差し出した。ふたのコップの麦茶は、まだ冷たかった。俺が飲み終えるのを待って、岳はぽつりと言った。
「……れんくん、いつも、した、みる」
「……え?」
「……ぬくまえ。いっかい、ボール、みる」
岳は自分の足もとを指さして、目を落としてみせた。蓮が腰を沈める前の、あの一瞬のまねだった。
岳も、見ていたのだ。生け垣の陰に、黙って座ったまま。俺が五月に気づいて使えずにいた一瞬を、岳は一時間で見つけていた。
「……うん。みる」
「……そのとき、とれば?」
岳はそれだけ言って、また生け垣の陰に戻っていった。迎えの車が来るまで、岳はそこから動かなかった。
十回勝負。蓮が抜いたら、蓮の勝ち。俺がボールを取ったら、俺の勝ち。
俺は負けつづけた。
十回とも抜かれる日が続いた。七月二十二日。二十三日。二十四日。夏休みに入ってからの自由帳のページには、寝た時間と起きた時間と塀に蹴った回数の下に、同じ数字が並んでいった。
0/10。
0/10。
0/10。
負けながら、蓮を見ていた。蓮はボールを持って俺の前に来る。一歩目はいつもゆっくりだ。蓮は俺の足を見ていない。ボールを見たまま、俺の体の向きを、なんとなく感じている。
それから、ボールに目を落とす。
まばたき一回分くらいの間だ。足もとのボールを、確かめるように見る。
そのあとで、腰が沈む。体がどちらかへ傾いて、俺がつられて、反対へ抜けていく。
夜、布団の中で、何度も巻き戻した。
蓮がボールに目を落とす。俺はそれを見る。見て、蓮が沈むのを待つ。沈んだのを見て、どちらへ行くかを見て、それから足を出す。
待っていた。
見えてから足を出すまでのあいだに挟まっていたのは、それだった。俺は蓮が何をするのかを見て、確かめてから正しいほうへ足を出そうとしていた。四十年分の頭が、そうさせていた。間違ったほうへ足を出したくない。外したくない。
でも、蓮が何をするか見てからでは、遅い。蓮の体のほうが、俺の確かめるより速い。
だったら、確かめるのをやめればいい。
蓮がボールに目を落とした、その一瞬に足を出す。蓮が沈む前に。どちらへ行くかを決める前に。蓮の足がボールに触る前に、俺の足がボールに触る。
抜かれないようにするのではない。抜かれる前に、触る。
布団の中で、足の指を動かしてみた。暗い天井の、横顔のしみが見下ろしていた。
◇
次の日の朝から、塀の前の練習を変えた。
公園のラジオ体操には、ひかりも来ていた。目をこすりながら、腕を半分しか回していなかった。俺は帰ってくると、首から下げたカードを玄関の靴箱の上に置いて、そのまま外へ出た。朝の駐車スペースは父の車の陰になっていて、アスファルトがまだひんやりしていた。
三号球を塀に蹴って、戻ってくるのを待つ。いつもは、戻ってきたボールが足もとに来るのを待ってから止めていた。それを、やめた。ボールが塀に当たった瞬間に、もう一歩前に出る。戻ってくるボールを、迎えに行く。
新しい靴の底は、突起の角がまだとがっていた。一歩踏みこむと、靴の裏がアスファルトをつかんで、体だけが先へ行こうとする。前の靴なら、すり減った底がわずかに滑って、そのぶん止まれた。そのたびに前へつんのめりかけて、両腕を振って体を立て直した。
最初は、うまくいかなかった。迎えに行きすぎて、ボールが足の横を抜けていく。迎えに行くのが遅れて、結局いつもの場所で止める。
何十回目かで、塀に当たる音と足が出るのが重なった。ぽん、という音と同時に右足が一歩前に出て、戻ってきたボールに塀の近くで触れた。
これだ、と思った。
夕方、蓮との一対一でやってみた。
蓮がボールに目を落とした。今だ、と思った。足を出した。
蓮は沈まなかった。俺が先に足を出したのを見て、そのまま反対へ抜けていった。俺の足は、誰もいないところへ伸びていた。つま先の下で、土が小さくえぐれていた。
「さく、はやい!」
蓮は笑った。俺が先に動いたのが、おかしかったらしい。
次の日も、その次の日も、同じだった。早く足を出すと、蓮はそれを見て、反対へ行く。蓮の体は、俺の体が動いたほうと反対へ、勝手に動くのだ。
六月の南台との試合で、早く動きすぎて読みが外れた。今の俺は、あれをもう一度やっていた。早く、そして、ボールへ。蓮がどちらへ行こうと、目を落としているその一瞬だけは、ボールはまだ蓮の足もとにある。
0/10。
0/10。
八月に入った。
◇
八月五日の夕方、公園の広場には、俺と蓮しかいなかった。陸は家族で田舎へ行っていて、ひかりは家の用事で来られなかった。生け垣の向こうの木から、蝉の声が降ってきていた。
「いちたいいち!」
「うん」
一回目。抜かれた。二回目。抜かれた。三回目、四回目。
四回目を抜けたあと、蓮はTシャツの襟を引っぱって、あごの汗をぬぐった。襟のまわりがぐるりと黒く濡れている。蓮が肩で息をするのを、この夏、初めて見た。それでも蓮は休もうとは言わなかった。
「つぎ!」
五回目に、蓮の足もとに、いつもと違うものが見えた。蓮のつま先が、いつもよりボールの後ろにあった。ボールが蓮の足から、こぶし半分くらい離れている。暑さで、蓮も疲れていたのかもしれない。
蓮がボールに目を落とした。
体が、先に動いた。
考えなかった。確かめなかった。蓮が沈むのを、待たなかった。ボールに向かって、右足のつま先を、ただ伸ばした。
蓮の腰が沈む、その直前だった。
俺のつま先が、ボールに触れた。
ボールの、皮の感触。ざらついた、夏の土にまみれた三号球の手触りが、新しい靴の先から伝わってきた。
ボールが、蓮の足もとから離れた。ころころと転がって、蓮と俺のあいだから横へ抜けていく。蓮の体は、もう沈んでいた。右へ傾いて右へ抜けようとした足の先に、もうボールはなかった。
蓮が振り返った。ボールは、広場の端の生け垣の下で止まっていた。
蓮はしばらくボールを見ていた。それから、俺を見た。
「いまの」
蓮の目が、まんまるになっていた。
「いまの、ずるい!」
蓮は叫んで、それから、腹を抱えて笑いだした。
「ずるい! さく、いま、ずるかった! おれ、まだ、なんにも、してないのに!」
「……うん」
「なんで、わかったの!」
「……わかんない」
本当に分からなかった。分かる前に、足が出ていた。
いや、一つだけ分かっていた。七月の終わりに、生け垣の陰で岳が言ったことだ。そのとき、とれば。言われてからも、俺は「今だ」と頭で決めてから足を出していた。今日、初めて、決める前に足が出た。
蓮はまだ笑っていた。笑いながら、生け垣の下のボールを拾いに走っていって、戻ってきた。
「もっかい! いまの、もっかい!」
六回目。抜かれた。七回目、八回目、九回目、十回目。全部、抜かれた。蓮はさっきの一回で何かを覚えたらしく、ボールを足から離さなくなった。目を落とす一瞬も、さっきより短くなっていた。
一回だけだった。
それでも、つま先に、あの感触がまだ残っていた。ボールの皮に先に触ったときの、ざらりとした手触り。一回、先に触っただけだ。それだけで、蓮があんな顔をした。
柱時計の針が、六時を回っていた。蓮は自転車にまたがって、「あした、ぜったい、まけない!」と叫んで帰っていった。
帰り道、何度も右足のつま先を見た。新しい靴の先に、土の色の小さなこすれが一つついていた。
夕飯のとき、母が俺の顔を見て「なんか、いいこと、あったの?」と訊いた。俺は「なんにも」と答えて、ご飯をかきこんだ。母は笑って、それ以上は訊かなかった。
食べ終わると、母が冷蔵庫からすいかを出して、三角に切ってくれた。父の分にはラップをかけて、また戻した。
「さく。種、のみこんでるわよ」
言われて、皿を見た。母の皿には黒い種が並んでいるのに、俺の皿には一つもなかった。
夜、布団に入る前に、自由帳を開いた。
七月二十二日から並んでいる0/10の列の下に、今日の日付を書いた。それから、鉛筆を強く握って、書いた。
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