第34話 三十八度七分
教室の空気が、まったく動かなかった。
七月五日、第一土曜日。授業は昼までだった。梅雨はまだ明けていないのに、おとといから急に暑くなって、毎日がうだるようだった。今日はその中でも、いちばんひどかった。
田村先生が窓を全部開けた。それでも風は入ってこない。開けた窓の外から、熱い空気がそのまま流れこんでくるだけだった。
窓の外のベランダには、生活科で植えたミニトマトの鉢が、出席番号の順に並んでいた。朝の当番が水をやったはずの土は、もうひびが入って鉢の縁から離れている。葉は鉢の縁にぐったりと垂れて、まだ緑の実だけが、かたく光っていた。
みんな、下敷きで顔をあおいでいた。ぱたぱたという音が、教室じゅうで重なっている。前歯の子は机に突っ伏して、「あちー、あちー」と繰り返していた。斜め前の席のひかりは、結んだ髪を持ち上げて、首の後ろに下敷きで風を送っていた。
「はい、みんな、お水、飲んでいいわよ。水筒持ってきてる人は、出して」
二時間目の途中だった。教室のあちこちで、水筒のふたを開ける音がした。
俺は机の横に掛けた水筒から、麦茶を飲んだ。朝、母が冷蔵庫の麦茶を詰めてくれる水筒は、もう毎日の持ち物になっていた。
一年生のときは、授業の途中で水を飲んでいいと言う先生はいなかった。去年の夏、少年団の子が校庭で倒れて救急車が来た。その話は、母親たちのあいだでずいぶん広まったらしい。田村先生のところまで届いたのかどうかは、知らない。
昼に学校が終わって、外へ出た。
校門を出たとたん、足の裏から熱が上がってきた。アスファルトが白く光っている。道の先のほうが、ゆらゆらと揺れて見えた。
道路の継ぎ目に詰まった黒いものが、日に溶けてやわらかくなっていた。踏むと靴の底にくっついて、足を上げるたびにぺりっとはがれる。校門の向かいの酒屋の店先では、積み上げたビールケースの日陰に、茶色い猫が腹を見せてのびていた。
ひかりと角まで一緒に歩いた。ひかりは帽子を目深にかぶって、「あつい」としか言わなかった。俺も「あつい」としか答えなかった。それで十分だった。
家に帰ると、母が居間のラジオを聞いていた。
「熊谷、三十九度を超えそうですって。今年いちばんだって」
母は冷蔵庫から麦茶のポットを出しながら言った。
「お父さん、今日、どこかのお宅の屋根裏に入るって言ってたのよ。こんな日に」
母は壁の時計のほうを見た。父が帰ってくるまで、まだずいぶんあった。
父が帰ってきたのは、日が沈んでからだった。
作業着の背中が、汗で塩を吹いたように白くなっていた。首の後ろが、真っ赤に焼けている。父は玄関で安全靴を脱ぐと、まっすぐ台所へ行って、大きなコップに麦茶を注いだ。息もつかずに、二杯飲んだ。
「屋根裏、四十五度あったぞ」
父は三杯目を注ぎながら、母に言った。母は「もう」とだけ言って、冷たいタオルを父の首にかけた。
「……おとうさん、しごとのとき、みず、のんでた?」
気がつくと、訊いていた。
父はコップを持ったまま、しばらく俺を見下ろしていた。
「……飲んだよ」
「いっぱい?」
「いっぱいだ」
父はそう言って、三杯目を飲み干した。首にかけたタオルの端で、口もとを拭いた。
救急車の日のあと、母が父に何を話したのか、俺は全部は知らない。でも、父の作業着のポケットから、小さな水筒がのぞいているのが見えた。前は、なかったものだった。
◇
次の日の日曜日も、朝から暑かった。
練習が始まる九時には、もう校庭の土が白く乾いていた。空は白っぽく晴れていた。
整列して、走って、体操をした。
校庭を回るあいだ、前の子の靴が乾いた土をけり上げて、白い粉が舞った。三周目には、俺のすねも前を走る陸の靴下も、粉をまぶしたようになっていた。朝礼台の鉄の手すりが、日を受けてぎらぎら光っていた。
体操が終わるとすぐに、園田さんが首に下げた小さな笛を吹いた。
「はい、水! みんな、飲んでこい!」
子どもたちが、テントの下へ走っていく。お茶当番のお母さんたちが、大きな水筒から紙コップに麦茶を注いでいた。自分の水筒を持っている子は、自分のを飲む。
園田さんの笛は、もう練習の一部になっていた。二十分に一回くらい、園田さんが笛を吹いて、みんなが水を飲みに行く。監督はそれについて何も言わない。腕を組んで、空を見ているか、高学年のほうを見ている。やめろとも、いいとも言わない。
岳は園田さんが笛を吹くより先に、もう水筒のふたを開けていた。
六月に買ってもらった、紺色の大きな水筒だった。岳はベルトを肩から外して、ふたのコップに麦茶を注いで、ゆっくり飲んだ。二杯目も注いだ。帽子もかぶっている。首筋を真っ赤にして、帽子もかぶらずに走っていた一年前の岳とは、別の子みたいだった。
テントの横で、樹が一人だけ、水を飲まずに立っていた。
ひかりが樹の顔をのぞきこんだ。
「いつきくん、のまないの?」
「のまなくて、へいき。おれ、あつくないもん」
樹は胸を張って言った。顔は真っ赤で、Tシャツの胸のところが汗で黒くなっていた。
「へいきだもん。のんだら、まけ」
誰と何の勝負をしているのか、樹自身にも分かっていないようだった。四月生まれで、一年生でいちばん大きい樹は、こういうところで負けたくないらしかった。
「まけじゃないよ。みんな、のんでるよ」
ひかりが言うと、樹はあごを上げた。
「おれは、のまないの」
ひかりの後ろで、奏が自分の紙コップを両手で持ったまま、樹の赤い顔を見上げていた。奏のコップの中で、氷が一つ、からんと鳴った。
俺は何か言おうとして、口を開いた。その前に、岳が動いた。
岳は自分の水筒のふたのコップに麦茶を注いで、樹の前に差し出した。
樹はきょとんとして岳を見た。岳はコップを差し出したまま、黙って樹の顔を見ていた。
しばらくして、岳の口が動いた。
「……のんで」
小さな声だった。でも、はっきりした声だった。
去年の夏、同じ言葉を、俺が岳に言った。校庭を五周走って、岳の顔が白くなりかけていたとき。岳くん、これ、のんで。あのとき岳は、いい、と言った。かんとくに、おこられる、と言った。
樹は岳のコップと岳の顔を見比べた。それから、ふてくされたような顔でコップを受け取って、一気に飲んだ。
「……つめてー」
樹がつぶやいた。岳は空になったコップを受け取って、水筒のふたに戻した。それだけだった。岳はもう、さっきの場所に戻っていた。
俺は口を閉じた。言うことは、もう何もなかった。
四対四をやった。
二回目の水のとき、樹は誰よりも先にテントの下へ走りこんで、お茶当番のお母さんに紙コップを突き出していた。
「おかわり!」
二杯目を飲みほすと、樹は空の紙コップを手の中で丸めて、ゴミ袋に投げこんだ。入らなかった。
紅白戦の途中で、俺は監督が空を見上げているのに気づいた。
腕を組んで、首から銀色の笛を下げて、いつもの立ち方で。顔を上げて、晴れた空を見ていた。日差しが、監督の日焼けした額に照りつけている。監督はしばらくそうしていた。それから、校庭の子どもたちを、端から端までゆっくり見回した。
監督の目が、岳の上で一度止まった。
すぐに、離れた。
監督は首の笛を口にくわえて、長く吹いた。
「今日は、終わりだ」
子どもたちが、ぽかんとした。まだ十時にもなっていなかった。いつもなら紅白戦をあと二本やってから整列して、整理体操とお茶で、十一時半ごろに終わる。
「おわり?」
「やったー!」
誰かが叫ぶと、みんなが歓声を上げた。蓮が両手を挙げて跳ねた。樹がその場に寝転がって、熱い土にあわてて起き上がった。
監督は理由を言わなかった。暑いから、とも、危ないから、とも。笛を口から離すと、そのまま高学年のほうへ歩いていった。高学年のほうでも、監督が何か言って、子どもたちがわっと声を上げるのが聞こえた。
園田さんが監督の背中を見ていた。まばたきを二回して、それから首のタオルで顔を拭いた。タオルで隠れた口もとが、どうなっていたのかは見えなかった。
「はい、みんな、帽子かぶって! まっすぐ家に帰れよ! 帰ったら、水、飲めよ!」
園田さんの声は、いつもより大きかった。
俺は監督の背中を見ていた。
一年前の夏、あの人は「救急車? 大げさな」と言った。「甘やかすな」と言った。水を飲むなと言い、休憩を後ろにずらした。
その人が今日は、誰にも言われないうちに空を見上げた。子どもたちを見て、岳を見て、笛を吹いた。
俺も、何も言わなかった。
陸の家のワゴン車に乗りこむ前に、岳が俺のところへ来た。水筒を肩にかけ直しながら、ぽつりと言った。
「……さっきの」
「うん」
「……みかみくんが、やったやつ」
樹にコップを差し出したことを言っているのだと、すぐに分かった。
岳はそれだけ言うと、俺の返事を待たずにワゴン車のほうへ走っていった。後ろの座席に乗りこんで、窓越しに一度だけ俺を見た。
◇
夕方、ボールを持って玄関で靴を履いていると、居間でラジオを聞いていた母が顔を出した。
「今日も暑かったわね。三十八度七分ですって」
母は俺の水筒を取って、台所で氷と麦茶を足してくれた。戻ってきた水筒は、肩にかけると、ずしりと重かった。朝、校庭で空を見上げていた監督の横顔を、俺は思い出していた。
五時を過ぎると、ようやく日が傾いて、公園の木の影が広場の上に長く伸びた。
広場の土は昼の熱をまだ抱えていた。ボールを置くときに地面についた指先が、ぬるかった。乾いて細かくひびの入ったところでは、転がしたボールがかくんとはねて、思ったほうへ進まなかった。木の影の中だけ、土の色が濃かった。
自転車のベルが鳴った。
「さく!」
蓮だった。自転車を生け垣に立てかけて、かごからボールを取り出す。昼間の暑さで寝ていたのか、髪の後ろがぴょんと跳ねていた。
「いちたいいち、しよ! けさ、ぜんぜん、できなかったから!」
蓮はボールを地面に置いて、俺の前に立った。
「十かい、しょうぶ。おれが、ぬいたら、おれのかち。さくが、とったら、さくのかち」
「……いいよ」
一回目。蓮はゆっくり来て、腰を沈めて、右へ抜けた。分かっていても、俺の体は左へ持っていかれた。
二回目。蓮は沈まなかった。そのまま加速して、俺の左を抜けた。
三回目は、ボールを足の裏で引いた。俺が出した足の届かないところへ下げてから、反対へ抜けた。
四回目、五回目。蓮は毎回、違う抜き方をした。俺の足が出る方向を見て、出ていないほうへ行く。蓮の足は、考える前にもうそちらへ向いていた。
蓮は抜くたびに笑った。ボールが自分の思ったところへ転がっていくのが、ただ楽しいのだ。
六回目。蓮が沈む前に、足もとのボールへ目を落とすのが見えた。そこだ、と思ったときには、蓮はもう沈んでいた。俺の足は間に合わなかった。
七回目。八回目。九回目。
汗が目に入った。シャツが背中に張りついていた。柱時計の針が、少しずつ六時に近づいていく。
十回目。蓮はボールを俺の股のあいだに通して、俺の後ろで拾った。
「じゅう!」
蓮は両手を挙げて、その場でくるりと回った。
十回とも、抜かれた。一度も、ボールに触れなかった。
「さく、あしたも、やろ!」
蓮は息を弾ませて、自転車にまたがった。
「あしたも、あさっても! なつやすみも、まいにち!」
「……うん」
蓮はベルを一度鳴らして、跳ねるように自転車をこいでいった。
俺は広場の真ん中に立っていた。夕方の風が、汗で濡れたシャツを冷やしていった。
蓮は楽しそうだった。俺は数えていた。
家までの道で、十回分を頭の中で巻き戻した。蓮の腰が沈む前の、あの一瞬。毎回、見えていた。見えているのに、間に合わない。一年生の春から、何度も味わってきた感じだった。
ただ、今日は遅れている場所が分かった。足そのものより、足が出るまでが遅い。見えてから足を出すまでのあいだに、何かが挟まっている。
それが何なのかは、まだ分からなかった。
〇対十。




