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第33話 ジョホールバル

 テレビの中の国立競技場は、スタンドが端まで人で埋まっていた。小さなスピーカーから、歓声が割れて聞こえてくる。


 六月二十八日、第四土曜日で学校は休みだった。父も今日は現場がなく、昼過ぎからずっと家にいた。居間のソファに座って、缶ビールを開けている。土曜日だけの、二本目だった。


 ワールドカップの一次予選の、最後の試合だった。三月に中東で三試合、今月に東京で三試合。日本はここまで五つ全部勝っていて、今日の相手は、三月にも戦ったオマーンだった。


「引き分けでも、一位だ」


 父は誰にともなく言った。


 試合が始まってすぐ、日本が一点を取った。決めたのは、若い司令塔だった。父は「よし」と言って、缶ビールを持ったまま拳を軽く握った。それから、またソファの背にもたれた。


「今の、あいつな」


 父が画面を指さした。


「うまいだろ。まだ二十歳だ」


「……うん。うまい」


「ボールを持ったとき、顔が上がってる。下を見ないんだ。だから、遠くが見えてる」


 父は画面から目を離さずに言った。サッカーの話をするとき、父の声は少しだけ速くなる。ふだんは一言か二言で終わる父が、続けて三つも四つも文を言う。


 顔が上がってる、という父の言葉で、一年前の雨の日を思い出した。父はこの居間で、俺の後ろから指を出してくれた。首を振る練習の相手を、母と代わって。父の指は、母のときよりずっと速かった。


「そういうもんだ。あいつが、特別なんだ」


 父はそう言って、缶ビールを一口飲んだ。


 三月の夜、俺が寝かされるまで、父は膝の上で手を組んで黙って観ていた。今日の父はソファの背に体を預けて、膝の上に缶ビールを置いている。勝たなくても一位なのだ。父の肩はゆるんでいた。


 前半が終わると、台所の母に呼ばれた。


 流しの横のバットに、丸めたじゃがいもが並んでいた。母は溶き卵にくぐらせた一つを、パン粉のボウルに落とした。


「転がして。やさしくね」


 両手で転がすと、乾いたパン粉が指のあいだにざらざらと入りこんだ。母は次の一つを卵にくぐらせながら訊いた。


「お父さん、どう?」


「いってん、かってる」


「そう。じゃあ、今日は大丈夫ね」


 何が大丈夫なのか訊く前に、居間のテレビから後半の始まりの笛が聞こえてきた。パン粉のついた手を流しで洗って、居間へ戻った。


 後半、オマーンに一点を返された。父は「あー」と言ったが、それだけだった。


 台所の戸口から、母がパン粉のついた手のまま顔だけのぞかせた。


「入れられちゃったの?」


「一位は、一位だ」


 父は振り向かずに答えた。母はパン粉のついた指を柱に触れないように浮かせたまま、台所へ戻っていった。


 一対一で、試合は終わった。日本は一位で、秋の最終予選に進む。


「秋からが、本番だ」


 父は空になった缶を、片手で軽くへこませた。


 俺は父の隣で、膝を抱えて座っていた。父の手の中で、へこんだ缶が小さく鳴った。


   ◇


 夕飯は、母の作ったコロッケだった。


 テレビを消して、三人で食卓を囲んだ。大皿のコロッケの中に、一つだけ衣がでこぼこに厚いのがあった。母はそれを箸でつまんで、「はい、さくの」と俺の皿にのせた。割ると、中から白い湯気が上がった。ソースをかけると、厚い衣がそれを全部吸いこんだ。


 母が父の手に目を留めた。手の甲に、新しい擦り傷が二本あった。


「その手、どうしたの」


「水道の下にもぐった。古い家でな。床下が狭いんだ」


「このごろ、そういうのばっかりね」


「新築が、ほとんどないからな。今年は」


 父はコロッケを半分に割りながら言った。


「四月から、ぱったりだ。去年はみんな、消費税が上がる前にって、急いで建てたろう。その分が、今年はない」


「四月から、なんでも高くなったものね。スーパーの値段も、端っこが変わっちゃって」


 母はため息をついて、俺の皿にキャベツを足した。父は割ったコロッケの半分を、黙って口に運んだ。擦り傷のある手の甲が、箸の動きに合わせて上下した。


「朔」


 父に名前を呼ばれるのは、珍しかった。箸が止まった。


「母さんから聞いた。十一月に、大会があるんだってな」


「……うん。しの、ていがくねんの」


 父は箸を持ったまま、うなずいた。


「この子ね、火曜日は、左の日なんですって」


 母がお茶を注ぎながら言った。


「左の日?」


「左の足だけで、塀に蹴るの。ほかの日は、ふつうの日。この前、そう言ってたわよね、さく」


「……うん」


 今週の火曜日に、左が初めて十五回続いた。ひかりが帰ったあと、ボールが見えにくくなるまで塀の前にいた。左で蹴って、左の足の裏で止めて、また左で。最後のほうは、塀に当たる音で次を待った。十三、十四、十五。十五回目を止めたとき、左の足の裏に縫い目の盛り上がりを感じた。十六回目で、ボールは右足の前へ逃げた。六月の初めは、十回だった。


「……左か」


 父は俺の足もとを見るように、ちらりと視線を落とした。食卓の下の俺の足は、見えないはずだった。俺はその左の足の指を、靴下の中で一度握った。


「右だけじゃ、だめなのか」


「……りょうほう、けれたほうが、いいから」


「そうか」


 父はそれ以上は訊かずに、壁のカレンダーのほうをちらりと見た。六月のページだった。十一月は、まだずっと先のページだった。


 残りのコロッケを、父は黙って食べた。俺も黙って食べた。父が左の日を知った。それだけのことで、コロッケの味がよく分からなくなっていた。母が二人の顔を交互に見て、小さく笑った。


 夕飯のあと、父はソファでテレビのニュースを見ているうちに、そのまま眠ってしまった。首を背もたれに預けて、口を半分開けている。膝の上に置いた手の甲に、さっきの擦り傷が二本、赤く浮いていた。


 母が寝室からタオルケットを持ってきて、父の腹のところにそっと掛けた。それから俺に、人差し指を口に当ててみせた。


 俺はうなずいて、テレビの音を二つ下げた。


   ◇


 六月三十日、月曜日の朝。食卓では、作業着を着た父が新聞を広げていた。出かける前の十五分、父はいつもそうして新聞を読む。


 俺は目玉焼きをつつきながら、新聞の裏側のテレビ欄を眺めていた。


 月曜日の夜七時と七時半に、探偵のアニメが二つ続けて載っていた。前歯の子が毎週火曜日の朝に、犯人を当てたと言って話して聞かせるやつだ。台所では母が、父のアルミの大きな弁当箱にご飯を詰めていた。しゃもじで押しこむたびに、箱の底が流しの台に当たって、かたかたと鳴った。


「ジョホールバル」


 新聞の向こうで、父の眉が寄っているのが見えた。


「……どこだ、それ」


「なにが?」


 味噌汁をよそっていた母が振り向いた。


「ほら、若いほうの代表。二十歳以下の世界大会。マレーシアでやってるやつ。準々決勝で負けたんだと。延長で、Vゴールだ」


「あら、残念」


「ジョホールバル、って町でやったらしい。マレーシアの、どのへんなんだろうな」


「さあ。聞いたことないわね」


 母は父のお弁当箱を包みながら、首をかしげた。父の昼ごはんは、いつも母の作るお弁当だった。現場の近くには、食べるところがないことが多いのだそうだ。


 父は新聞を下げて、もう一度、口の中で言ってみた。


「ジョホール、バル」


 変な名前だな、という顔をしていた。それから「Vゴールか。Jと同じだな」とつぶやいて、記事の続きを読みはじめた。


 俺の箸が、目玉焼きの黄身の上で止まっていた。


 ジョホールバル。


 二〇一八年の後、俺はこの町で行われた試合の映像を、何度観たか分からない。五か月後の十一月に、同じ町の同じVゴールで、日本が初めてのワールドカップを決める試合だ。延長の最後の一本を、巻き戻しては観た。観るたびに、同じことを思った。この夜、父はどこで、どんな顔でこれを観ていたのだろう。


 答えは、もう訊けなかった。


 今、父は俺の向かいで、その町の名前を初めて口にしている。変な名前だな、という顔で。


「さく、早く食べないと遅れるわよ」


 母の声で、我に返った。黄身が割れて、皿の上に流れていた。


 父は新聞を読み終えると、台所の引き出しからはさみを出して、さっきの記事を切り抜いた。スポーツ面の端の、小さな記事だった。写真はなく、見出しと、短い文章だけ。父ははさみを丁寧に動かして、記事の四角い輪郭どおりに切り取った。刃が紙を噛む、小さな音がした。


 居間へ行くと、父はテレビの横の棚の、いちばん下の段からファイルを出した。


 青い表紙のファイルだった。去年の十一月に、父がこれを膝の上に広げて、国立の話をしてくれたことがある。あのときから、ページが何枚も増えていた。


 父は新しい透明なポケットに、さっきの小さな記事を入れた。胸ポケットのボールペンを抜いて、余白に日付を書いた。角ばった、几帳面な字。


 書き終えて、父はペンを止めた。しばらく記事を見ていた。それから、日付の下に小さく何か書き足した。


 ここからは見えなかった。父はファイルを閉じて、背表紙を親指で一度押してから、棚に戻した。


「行ってくる」


「いってらっしゃい。傘、持った?」


「車だ」


 父は玄関にしゃがんで、安全靴を履いた。作業着の背中は、肩のところだけ色があせていた。父が出ていくと、白い車のエンジンがかかって、遠ざかっていく音がした。


 食卓には、父の読み終えた新聞がたたんで置いてあった。スポーツ面を開くと、端のほうに四角い穴があいていた。穴の向こうに、テーブルクロスの格子の柄が見えた。母が「さく、ランドセル」と言いながら新聞を取りあげて、台所の隅の古新聞の束の上に重ねた。


 俺はランドセルを背負う前に、居間の棚の前に立った。


 いちばん下の段に、青い背表紙が一冊、立っている。手を伸ばせば、届く高さだった。今の小さな記事の余白に、父が何を書き足したのか、開けば分かる。


 手は伸ばさなかった。背表紙は、父が押したとおりに、まっすぐ立っていた。


   ◇


 その日の昼休み、俺は一人で図書室へ行った。


 校舎のいちばん端のその部屋は、廊下より空気がひんやりしていた。本棚のあいだに、古い紙と床のワックスの匂いがこもっている。カウンターでは六年生の図書委員が二人、返ってきた本を背の高さの順に積み直していた。


 図書室の窓際に、地球儀があった。台の上で傾いた、色のあせた地球儀だ。海の青はところどころはげて、下の白い紙がのぞいている。手で回すと、からからと乾いた音がした。


 日本を見つけるのは簡単だった。そこから指を下へ、南のほうへ動かしていく。台湾。フィリピン。ベトナム。細長く伸びた半島が、海の中へ垂れ下がっていた。マレーシア。その半島のいちばん先っぽの、海に面したところ。


 町の名前は書いていなかった。地球儀には、そんな小さな町の名前は載っていない。


「さくくん、なに、さがしてるの?」


 振り向くと、ひかりが立っていた。教室から俺を追いかけてきたらしい。


「……マレーシア」


「なんで?」


「おとうさんが、しんぶんで、よんでたから。サッカーの」


「ふうん」


 ひかりは俺の隣に来て、地球儀をのぞきこんだ。俺の指の先の、半島の先っぽを見る。それから自分の指で、日本を押さえた。


「にほん、ここ」


「うん」


「とおいね」


「うん」


「マレーシアって、あつい?」


「ずっと、あつい。ふゆも、なつみたい」


「えー。そんなとこで、サッカーするの、たいへんだね」


 ひかりは顔をしかめた。夏の校庭の暑さを思い出したのかもしれなかった。


 日本を押さえた指はそのままに、ひかりはもう片方の手の指を地球儀の上に並べて、半島の先までを測った。一本と、半分。ひかりの指と俺の指のあいだは、地球儀の上では、それだけだった。


「なに、あるの? そこ」


「……まだ、なにも」


 ひかりは「へんなの」と笑って、地球儀をくるりと回した。日本も、半島の先っぽも、指の下から逃げていった。地球儀は、からからと音を立てて、ゆっくり止まった。


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