第32話 ひかりのシュート
「ねえ、さくくん。シュートって、どうしたら、はいるの?」
休み時間に、斜め前の席のひかりが、椅子ごとくるりと振り向いた。
六月二十四日の火曜日だった。梅雨に入ってから二週間、二時間目が終わるころに雲が切れて、窓の外の校庭が白く光りはじめていた。男の子たちは晴れ間を逃さないように、もう外へ走っていった。教室に残っているのは、俺とひかりと、窓際で本を読んでいる何人かだけだった。
「どうしたらって」
「わたし、けっても、けっても、はいらないの」
ひかりは指を折って数えはじめた。
「このまえの、なんだいとのしあいでしょ。そのまえの、こうはくせんでしょ」
指が一本ずつ折れていく。
「そのまえの、まえの」
五本全部折れると、ひかりはそれを開いて、もう一度折りはじめた。
「……かぞえてたの?」
「かぞえるよ。だって、いれたいもん」
始業式の日、ひかりは「サッカーで、いっかい、いれる」と言った。あれから二か月半、ひかりはずっと、外れた数を数えていたのだ。
「それにね」
ひかりは声を小さくした。
「となりのクラスの男の子がね、おんなは、サッカーしないんだって、いってた」
ひかりの指が、机の角をこすった。
「おんなが、はいるの、へんだって」
「……そんなこと、ないよ」
「しってる。だから、いれるの」
ひかりは当たり前のことのように言った。去年、少年団の低学年で女の子はひかり一人だった。今年、一年生に奏が入って、ようやく二人になった。ひかりはそういうことを、俺が思っていたよりずっとよく見ていた。
「このまえのは、うえに、とんでった」
「うん。みてた」
「なんで、うえに、とぶの?」
ボールの下を蹴っているからだ。軸足がボールより後ろにあって、体が後ろに倒れながら蹴っているから。言おうと思えば、全部言えた。
でも、言ってもひかりには分からない。去年の五月、陸と岳に「団子の外にいて」と言って、何一つ伝わらなかった。言葉にした理屈は、七歳の体には入っていかない。
「……わかんない」
「えー」
ひかりは唇をとがらせた。それから、急に何か思いついた顔をした。
「じゃあ、きょう、さくくんちで、れんしゅうする」
「え」
「さくくん、まいにち、へいに、けってるんでしょ。ひかり、しってるもん」
ひかりは胸を張った。
「おかあさんが、いってた。さくくんちのまえ、とおると、いつもボールの音がするって」
ひかりはもう決めてしまった顔で、前に向き直った。結んだ髪の先が、俺の机の端で一度跳ねた。
その日の帰りの会で、田村先生が「寄り道しないで、まっすぐおうちに帰りましょうね」と言った。ひかりはまた椅子ごと振り向いて、口の形だけで「よりみち、じゃないよ」と言った。先生に見つかる前に、くるりと前に戻った。
◇
学校から帰ってランドセルを置くと、玄関の呼び鈴が鳴った。ひかりだった。自転車を門の脇に立てかけて、ボールを抱えている。ひかりの家の、空気の抜けかけた三号球だった。黒い五角形のところが土にこすれて灰色になっていて、白いところに油性ペンで「あずま」と書いてある。ひかりが抱え直すと、指の形にへこんだ。家で着替えてきたらしく、学校では見たことのない、膝の出たジャージを履いていた。
「きたよ」
台所から母が出てきて、目を丸くした。
「あら、ひかりちゃん。いらっしゃい」
「こんにちは! さくくんと、サッカー、します!」
ひかりは元気よく頭を下げた。母はちょっとだけ俺の顔を見て、それから「麦茶、持っていくわね」と言って台所へ戻っていった。
父の車は、今日もなかった。塀の前は、広く空いていた。
塀には、チョークで四角い枠が描いてあった。先週、俺が描いたものだ。地面から俺の腰の高さくらいまでで、幅は大人が両手を広げたくらい。四つの隅には、もう一回り小さな四角を描き足してある。線が薄くなるたびに、上からなぞってきた。
「なに、これ」
「ゴール。それで、すみっこ」
「すみっこ?」
「すみっこに、あてる、れんしゅう」
俺は三号球を枠の真ん中の前に置いて、五歩下がった。
枠の右下の隅を見た。蹴る前に、蹴りたい場所を見る。それから軸足をボールの横に置いて、右足の内側で蹴った。ボールは低く転がって、右下の小さな四角の中に当たった。こつん、と、真ん中に当たるときとは違う乾いた音がした。
「すごい! あたった!」
「すみっこは、キーパーが、とれないから」
言ってから、しまった、と思った。説明をしてしまった。ひかりは聞いていなかった。もう自分のボールを置いて、さっきの俺のように、枠の隅をじっと見ていた。
ひかりが蹴った。ボールは高く浮いて、枠の上の塀に当たった。
「あー」
ひかりはボールを拾ってきて、もう一度置いた。また隅を見た。今度は、さっきより長く見ていた。それから蹴った。ボールは枠の左側の、隅のすぐ内側に当たった。
「ちかい!」
ひかりはボールを拾うと、そのままブロックの前まで走っていった。ボールが当たったところだけ、チョークの線がかすれて、下に白い粉がこぼれていた。ひかりは自分のボールについた白い粉を、指でこすって見せた。
「ここ、あたった。すみっこまで、あと、これだけ」
二本の指のあいだを、米粒が二つ入るくらい開いてみせた。
三回目。四回目。ひかりは蹴るたびに隅を見て、蹴るたびにボールは隅に近づいていった。俺の蹴り方を見て、まねをして、自分の体で直していた。
気づいたことが一つあった。ひかりは隅を長く見るほど、軸足をボールの近くに置くようになっていた。一回目は、ボールの一歩後ろに軸足があった。だから体が後ろに倒れて、ボールは上へ飛んだ。四回目には、軸足はボールのすぐ横にあった。誰にも言われていないのに。見たところへ蹴ろうとすると、体のほうが勝手に、そこへ蹴れる形を探しにいくのだ。
五回目は、左上の小さな四角に当たった。
「あたった!」
ひかりは両手を挙げて、その場でぴょんと跳ねた。
「しょうぶ、しよ。すみっこに、あたったら、いってん」
今日は火曜日だった。左の日だ。
「ぼく、ひだりで、ける」
「ひだり? なんで?」
「きょうは、ひだりの日だから」
「へんなの。じゃあ、ひかりは、みぎ」
「まけたら、どうする?」
「……どうもしない」
「じゃあ、まけたほうが、ボール、ひろう」
最初はひかりだった。ひかりは右下を長く見てから、右足で蹴った。ボールは右下の小さな四角の、まん中に当たった。
「いっこ!」
ひかりの指が一本立った。俺の番だった。左足の内側をボールに向けて開く。右のときより、くるぶしのあたりが落ち着かない。蹴った瞬間、左の足首がぐらりと外へ逃げた。左の内側に乗った手ごたえは、右よりも一枚薄かった。隅の四角には、かからなかった。
ひかりは隅に当たるたびに、指を一本ずつ立てた。外れた数を折っていた指で、今度は当たった数を数えている。三本目の指が立っても、俺の左はまだ一本も隅に当たっていなかった。一度だけ、俺の左が右下の小さな四角の線をかすった。ひかりは首をかしげて、もう片方の手で、指を一本だけ半分立ててみせた。
勝負はひかりが勝った。塀に当たって門の脇まで転がっていくボールを、拾いに走るのはほとんど俺だった。
俺の左は、塀にはまっすぐ届くようになっていた。でも、狙った隅に当てるのは、まだ難しかった。右下を見て蹴っても、ボールはこぶし一つぶん内側に当たる。左下を見て蹴ると、今度は枠の外へ逸れる。
「さくくん、ひだり、へた」
「……へた」
「りくくんに、おしえてもらえば?」
「もう、おしえてもらった」
「それで、それ?」
ひかりはけらけら笑った。
母が麦茶のコップを二つ、お盆にのせて持ってきてくれた。
「ひかりちゃん、上手ねえ。さっきから、台所で見てたのよ」
「でも、まだ、いっかいも、はいってないの。しあいで」
「あら。じゃあ、はいったら、おばさんにも教えてね」
「うん!」
母は笑って、お盆を俺に渡して戻っていった。二人で、塀の前の地面に座って飲んだ。母が台所で見ていたあいだに、麦茶の氷は小さくなっていた。
座った横の、ブロックの根もとの日陰に、どくだみが白い花をいくつもつけていた。ひかりが葉を一枚ちぎって鼻に近づけ、うえっ、と舌を出した。
「くさい!」
「ちぎるから、におうんだよ」
「おばあちゃんちの、うらにも、ある。おちゃに、するんだって。くさいのに」
ひかりは葉を地面に置いて、自分の指をもう一度かいで、また舌を出した。
それから、麦茶を半分くらい飲んで、枠の隅を見たまま言った。
「さくくん、なんで、いつも、れんくんに、パスするの?」
コップを持つ手が止まった。
「しあいのとき。さくくん、ボール、とっても、すぐ、れんくんに、だすでしょ」
「……蓮くんのほうが、はいるから」
「さくくんも、はいったじゃん」
ひかりは俺の顔を見た。
「さんがつの。こうりゅうせんの。みんなで、さくくんのうえに、のっかったやつ」
覚えていた。四月の最初の練習で誰も口にしなかったあの一本を、ひかりは覚えていた。
「……いまは、蓮くんのほうが、うまいから」
「いまは?」
「うん」
「じゃあ、いつ、さくくんが、いれるの?」
ひかりは本当に不思議そうに訊いた。
答えなら、頭の中にあった。体の差は、待てば縮む。蓮は四月生まれで、俺は三月生まれだ。あと何年かすれば、差は小さくなる。そのときまでに、できることを積んでおけばいい。
それを、七歳の言葉にした。
「……そのうち」
言ったとたん、自分の声がひどく軽く聞こえた。ひかりの「いまは?」に、俺が返せたのはそれだけだった。
「ふうん」
ひかりはそれだけ言って、コップを地面に置いた。
いつ、とひかりは訊いた。いずれ、とも、そのうち、とも違う。カレンダーのどこかを指さすような言葉だった。
ひかりは立ち上がって、自分のボールを枠の前に置き直した。
◇
ひかりはそれから、三本続けて隅に当てた。
右下。左下。右上。こつん、こつん、こつん。三つの乾いた音が、続けて駐車スペースに響いた。
三本目が右上の小さな四角に当たった瞬間、ひかりは両手を挙げたまま固まった。それから、くるりとこちらを振り向いて、歯を見せて笑った。前歯の横の、生え変わりかけの歯がのぞいていた。
「みた?」
「みた」
「さんかい、つづけて!」
「うん」
「ひかり、つぎの、しあいで、いれる」
指を三本立てたまま、ひかりは言った。その指を、ひかりはしばらく下ろさなかった。
俺は自分のボールを置いた。
右で蹴ることにした。左の勝負は、もう終わっていた。いちばん自信のある右で、いちばん自信のある右下の隅を狙った。隅を見た。軸足を置いた。足の内側で、押すように。
ボールは枠の右の線の、こぶし一つぶん外側に当たった。
枠の外だった。
ボールは塀に当たって、右足の前に戻ってきた。俺は止めなかった。ボールは足の横を抜けて、駐車スペースの端まで転がっていった。
「おしい!」
ひかりの声に、俺は返事をしなかった。
枠の右の線の外側に、丸い泥の跡が一つ、ぽつんと残っていた。チョークの白い線のすぐ隣で、線の内側には、一ミリも入っていなかった。
門のほうから、ひかりの母の声がした。
「ひかりー、もう帰るわよー」
ひかりは「はーい」と返事をして、空気の抜けた三号球を自転車のかごに入れた。母に「ごちそうさまでした」と頭を下げ、俺に「また、しょうぶね」と手を振って、自転車をこいで帰っていった。
ひかりの母の自転車が、そのあとを追っていった。前のかごに入ったスーパーの袋から長ねぎの青いところが突き出して、ペダルをこぐたびに揺れていた。母は門の前に立って、二台の自転車が見えなくなるまで見送ってから、家に入った。
俺は塀の前に一人で残った。チョークの枠の外の、丸い泥の跡を見ていた。そのうち、と言った自分の声が、まだ耳の中で軽く鳴っていた。




