第31話 岳のいない日
整列すると、いつもの癖で人数を数えていた。
二年生が九人。一年生が七人。合わせて十六人のはずなのに、十五人しかいなかった。
もう一度、端から数えた。蓮。陸。ひかり。俺。二年生の残りの四人。それから一年生。樹。奏。いちばん小さな男の子。ほかに四人。
岳がいなかった。
六月十五日の日曜日。梅雨に入って一週間、校庭の土はしっとりと黒かった。陸の家の銀色のワゴン車は、今朝は陸だけを降ろしていった。
去年の夏が、一瞬だけ頭をよぎった。乾いて熱い腕。半分しか開かない目。運ぼうとして、重くて運べなかった体。
「北村くんね、熱だって」
体操が終わったところで、園田さんが言った。
「お母さんから、朝、電話があった。かぜかなあ。今週は、おやすみ」
熱。かぜ。それなら、たぶん大丈夫だ。あの日とは違う。分かっているのに、すね当てのマジックテープを留める指がうまく動かなかった。岳は体が弱い。前に、岳の母がそう言っていた。うちの子、体が弱くて、と。
練習はいつもどおりに進んだ。四対四。対面パス。紅白戦。
対面パスは陸と組んだ。いつもの強さで押し出したボールが、陸の足もとの一歩手前で止まりかけた。陸が二歩前へ出て、ボールを迎えにいった。
「さくくん、きょう、とどかない」
二本目は、いつもより深く押した。ボールは湿った土の上に細い筋を引いて、陸の靴まで届いた。陸は止めたボールを足でつつきながら言った。
「がくくんいないと、くるま、しずか」
まばたきを一つして、付け足した。
「……いても、しゃべんないけど」
紅白戦で、団子の外の右の少し後ろに立ったとき、左側がやけに広く感じた。
岳はいつも、そこにいた。俺の左隣に、半歩下がって。何も言わずに団子を見て、俺が動けば一緒に動いた。三月の交流戦の最後の試合では、「……ぼく、あっち、いく」と言って団子のほうへ走っていった。それでも、ふだんの練習では、気がつくと左隣に岳がいた。
今日はそこに誰もいなかった。風が半ズボンの左の裾を揺らしていった。
団子からこぼれたボールが、俺の足もとに来た。止めて、顔を上げる。左を見た。
いつもなら、そこに岳がいる。岳に出せば、岳はたいてい不格好に前へ蹴り返すか、もう一度俺に戻してくる。そのあいだに、団子の形が変わる。
左には誰もいなかった。俺は右を向いて、ひかりに出した。ひかりが止めそこねて、ボールは相手の子の足もとへ転がっていった。
水休みのとき、奏がひかりのTシャツの裾を引っぱって、小さな声で訊いていた。
「……がくくんは?」
「おやすみだって。おねつ」
奏は俺の左隣のあたりを、ちらりと見た。一年生の目にも、そこはいつも岳がいる場所に見えていたらしい。
◇
お昼を食べながら、母に言った。
「岳くんの、おみまい、いきたい」
母は箸を止めて、俺の顔を見た。
「熱なんでしょ。うつったら困るわよ」
「ちょっとだけ。かお、みるだけ」
母はしばらく考えていた。それから「電話してみるわね」と言って、廊下の電話台の引き出しから少年団の連絡網を出した。
救急車の日から、母は岳の母とときどき電話で話している。あの日、岳の母はエプロンのまま自転車で駆けつけてきた。それから何度かお礼の電話がかかってきて、話しているうちに、なんとなく親しくなったらしい。
廊下の戸のすきまから、電話台の前に立つ母の背中が見えた。母の指が連絡網の紙の上で枝分かれした線をたどって、一つの名前の上で止まった。受話器を耳に当てると、母はいつもより高い声で「もしもし、三上でございます」と言った。それから、誰もいない廊下の壁に向かって二度頭を下げた。
母が受話器を置いて、戻ってきた。
「熱はもう下がりかけてるんですって。顔を見るくらいなら、どうぞって」
学校の近くの小さなスーパーで、みかんのゼリーを四つ買った。
四つ、と決めたのは母だった。
「お父さんと、お母さんと、おばあちゃんと、岳くん」
母は数えながら、冷蔵ケースからカップを一つずつ取った。ケースから流れてくる冷たい空気が、半袖の腕をなでていった。入口の横には青い梅の実が箱ごと積んであって、氷砂糖の袋と並んで、甘ずっぱい匂いをさせていた。
父の車は日曜も現場に出ていたので、母と二人で歩いていくことにした。
田んぼの一本道は、湿った土の匂いがした。水を張った田んぼに空が映っている。植えたばかりの苗が、細い線になって並んでいた。
「さくは、岳くんと、仲よしなのね」
ゼリーの袋を提げて歩きながら、母が言った。
「……うん」
「一年生になったばっかりのころはね、学校の話をしても、お友だちの名前、ひとりも出てこなかったのよ。お母さん、ちょっと心配してたんだから」
母は前を向いたまま笑った。覚えていなかった。入学したばかりの俺は頭の中のことで手いっぱいで、隣の席の子の名前を言う余裕もなかったのだろう。
「いまは、いっぱい出てくるわね。蓮くん、陸くん、ひかりちゃん、岳くん」
「……うん」
「よかった」
母はそれだけ言って、田んぼの上を低く飛んでいくつばめを目で追った。
分かれ道を、左へ。用水路に架かった小さな橋を渡る。いつもは岳が一人で曲がっていく道で、俺がこちら側へ来るのは初めてだった。
橋を渡って二つ目の角を曲がると、古い二階建ての家が並んでいた。その一軒の玄関の脇に植木鉢がいくつも並んでいて、赤い花が咲いていた。表札に、北村、と書いてあった。
呼び鈴を押すと、出てきたのは白い髪のおばあさんだった。
「まあまあ、三上さん。わざわざ、どうも」
おばあさんは何度も頭を下げて、奥に向かって「美和子さん、三上さんよ」と呼んだ。台所のほうから、岳の母が手を拭きながら出てきた。今日はエプロンをしていなかった。
「すみません、本当に。朔くんも、ありがとうね。岳、喜ぶわ」
靴を脱いで上がるとき、たたきの隅に岳の古いほうの運動靴がそろえてあるのが見えた。左の靴の、指の当たるところにあいていた小さな穴が、白い糸で縫いふさいであった。和室の襖は開いていて、い草と、梅雨どきの布団の匂いがした。
岳は玄関を上がってすぐの和室で寝ていた。
畳の上に布団が敷いてあって、岳はその中から首だけを出していた。おでこに濡れたタオルがのっている。俺が入っていくと、岳は目を丸くして、それから布団を顎まで引き上げた。
「……みかみくん」
「熱、だいじょうぶ?」
「……うん。もう、ひくい」
声はかすれていたが、目はちゃんと開いていた。あの日の、半分しか開かない目とは違った。
俺は布団の横に座った。母たちは台所のほうで話しはじめていて、おばあさんがお盆に麦茶のコップを二つのせて持ってきてくれた。コップの外側に、細かい水の粒がびっしりとついていた。
岳の枕もとに、大きな本が一冊、開いたまま伏せてあった。
表紙に、人の体の絵が描いてあった。皮膚の下の骨や筋肉や内臓が、透けて見えるような絵だ。子ども向けの、体のしくみの絵本らしい。
「それ、なに?」
「……おばあちゃんが、かってくれた」
岳は布団から腕を出して、本を引き寄せた。慣れた手つきでページをめくる。何度も開いたらしく、ページの端が丸くなっていた。
岳が開いたのは、心臓のページだった。胸の真ん中に、握りこぶしくらいの赤いものが描いてある。そこから太い管と細い管が、体じゅうに伸びていた。
「……ここ、ずっと、うごいてるの?」
「うん。ねてるときも」
「……とまったら?」
「しんじゃう。だから、とまらない」
岳は自分の胸に、パジャマの上から手のひらを当てた。しばらくそうしていた。それから、ページを指で押さえたまま俺の顔を見た。
「……みかみくん」
「うん」
「……きゅうきゅうしゃのひと、なんで、わかったの」
救急車の日のことだった。
「なにが?」
「……ぼくが、どうしたら、いいか」
岳は言葉を探すように、心臓の絵を見下ろした。
「……あつくて、ねむくて。……でも、あのひとたち、すぐ、わかってた」
俺は考えた。大人の言葉なら、いくらでも並べられた。岳に届く言葉は、その中にいくつもなかった。
「……からだの中にあつさがこもっちゃってたんだよ。だから、ひやせばいいってしってた」
岳は黙って、俺の答えを聞いていた。
その顔を、俺は見たことがなかった。目が、絵本の心臓と俺の口もとを、何度も行ったり来たりしている。俺の言葉を一つずつ拾い上げているような顔だった。
「そういうことを、いっぱい、べんきょうしてる人たちだから」
「……べんきょう、したら、わかるの?」
「うん。わかるようになる」
「……みかみくんも、べんきょう、したの?」
息が止まりかけた。あの日、救急車を呼んで、と言ったのは俺だった。冷やして、と言ったのも。
「……テレビで、みた」
「……テレビ」
岳はそれ以上訊かなかった。テレビ、という答えは、前にも教室で使った嘘だった。
岳はもう一度ページに目を落とした。指で、心臓から伸びる管を一本ずつたどっていく。それから、次のページをめくった。今度は肺の絵だった。
「……これは?」
「いき、すうところ」
「……これも、ずっと?」
「うん。ずっと」
岳は小さくうなずいて、また次のページをめくった。
岳の母が、切ったりんごを小皿にのせて持ってきた。布団の横に置きながら、俺に笑いかけた。
「この子ね、去年の夏から、うちでずっと、みかみくん、みかみくん、って言ってるのよ。少年団のことも、みかみくんがどうした、ってそればっかり」
「……おかあさん」
岳が布団を頭まで引き上げた。布団の中から、くぐもった声で「いわないで」と聞こえた。岳の母は声を立てて笑って、台所へ戻っていった。
俺はりんごを一切れ取った。冷たくて、甘かった。布団の中の岳は、しばらく出てこなかった。
母に「さく、そろそろ、おいとましましょう」と言われて立ち上がりかけたとき、布団の端が持ち上がって、目だけがのぞいた。
「……れんしゅう、なに、やったの」
「たいめんパスと、こうはくせん。つちが、しめってて、ボール、おもかった」
岳の目が天井のほうを向いて、それから俺に戻った。
「……ぼくも、けりたかった」
布団の端はまた目の上まで下りていった。
◇
帰り道、小さな橋の上で、母が言った。
「岳くん、いい子ね」
「うん」
「あの本、ずいぶん読みこんでたわね。お母さん、言ってたわよ。去年の夏から、ずっと、あれ、見てるんですって」
去年の夏から。
用水路の水が、橋の下でちょろちょろと音を立てていた。梅雨に入ってから水かさが増えて、いつもより速く流れている。
一度目の人生で、俺は北村岳という子を知らなかった。別の小学校の子だった。少年団にも入らなかった俺は、用水路の向こうの、体の弱い無口な子と出会うことはなかった。
だから、岳がこの先どうなるのかを、俺は知らない。どんな大人になるのか。何をして生きていくのか。
日本代表のこれからや、この国でこの先起きることなら、ある程度は知っている。岳のことは、何一つ知らなかった。
それが、なぜかうれしかった。
母が「なに笑ってるの」と言った。俺は「なんでもない」と答えて、橋の欄干から、速い水の流れを見下ろした。
◇
次の日曜日、岳は練習に来た。
陸の家の銀色のワゴン車から降りてきた岳は、肩から新しい水筒を下げていた。前の水筒よりずっと大きい。紺色の、俺のと同じくらいの大きさの水筒だった。ベルトの付け根に、マジックで「きたむら がく」と書いてある。丸くて、やわらかい字だった。
岳は俺の前まで来ると、黙って水筒を持ち上げてみせた。
「……おおきいの」
それだけ言って、岳はいつものように、俺の左隣に半歩下がって並んだ。
整列のとき、数えるつもりはなかったのに、また端から数えていた。十六人いた。
園田さんが岳の肩の紺色のベルトに目を留めた。
「おっ、北村くん、でっかいの買ってもらったなあ」
岳はベルトを両手でつかんだまま、自分の足もとを見ていた。
その日の水休みで、園田さんが笛を吹くより先に、岳は水筒のふたを開けていた。




