第30話 南台
紺と白のユニフォームが、校門から入ってきた。
胸に白い字でチームの名前が入っている。紺のシャツに白いパンツ、紺の靴下。全員が同じ格好をしていた。一年生も二年生も、体に合った大きさのものを着ている。去年の五月に来た緑のシャツの子たちのように、膝まで裾が届いている子はいなかった。
南台の親たちは、車から自分たちの折りたたみの椅子を出して、コートの横に一列に並べた。椅子の足もとに、大きなクーラーボックスが置かれていく。二人のお父さんがチームの名前を染めた紺の幕を広げて、校庭のフェンスに紐で結びつけた。若宮の親たちはテントの下から、それを遠巻きに眺めていた。
六月八日の日曜日だった。空は朝から白く曇っていて、風がなまぬるい。明日あたりから梅雨に入るらしい、と母が朝のニュースを見て言っていた。
「なんだい、っていうんだって。市で、いちばん、つよいんだって」
陸が俺の横で言った。どこかで大人が話しているのを聞いてきたらしい。
「いちばん?」
蓮が目を輝かせた。
「じゃあ、かったら、おれたちが、いちばん!」
「そうはならないだろ」
近くにいた園田さんが笑った。蓮は聞いていなかった。
南台の子たちがアップを始めた。保護者の大人が笛を吹くと、子どもたちが二列に並んで、ゴールラインからハーフウェーラインまで軽く走る。それを二回。三回目は、全力のダッシュだった。
一人だけ、先にラインを越えた子がいた。
背中に十の数字。背は蓮より低い。日焼けした細い脚で、腕を体の横でまっすぐ前後に振っていた。肘が開かない。つま先で地面を押して、かかとがほとんど土につかない。走り方がきれいだった。誰かに教わったのか、生まれつきなのか、俺には見分けがつかなかった。
二本目のダッシュでも、十番が一番だった。走り終わると、隣の子と何か言い合って笑っている。南台の子たちはその子を「しょう」と呼んでいた。
こちらは、いつもの体操服とTシャツの上に、黄色いビブスだった。
アップが終わると、南台の子たちは一人の若い男の人のまわりに集まった。三十くらいで、首から笛を下げている。その人は地面にしゃがんで、指で土に何か描きながら話していた。
「ボールにみんなで行かない。ひろがる。ひろがって、まってる。わかったか」
「はい!」
ひろがる。南台の子たちは口々に、その言葉を繰り返していた。
あの人は知っているのだ、と思った。全員がボールに群がれば、外が空く。外で待っていれば、ボールが来る。一年前に俺が陸と岳に言って、まるで伝わらなかったことを、あの人は「ひろがる」の一言で覚えさせている。
樹が俺の横で、紺のシャツの子たちをにらんでいた。
「おれ、あの、じゅうばんから、とる」
蓮に股を抜かれたことは、もう忘れているらしかった。
◇
八人と八人。一年生と二年生を混ぜて、前半と後半を十五分ずつ。
監督が俺たちを前に並べた。
「ボールに行け。負けるな」
いつもの言葉だった。それから監督は蓮を見た。
「駒井。前だ」
笛が鳴った。
南台の団子は、若宮の団子より小さかった。二人か三人が、団子から少し離れたところに残っている。それでも、ボールが動けば団子はボールを追った。低学年の試合だ。どこのチームも、ボールが好きだった。
俺はいつもの場所に立った。団子の外、右の少し後ろ。
団子が崩れた。ボールがこぼれる。こっちだ、と分かった。誰かが蹴りそこねたボールが、団子の右の端から、斜め後ろへ転がり出る。俺は二歩前に出た。ボールが来る場所に、先に立った。
足を出そうとした瞬間、横から風が来た。
十番だった。俺の視界の外から、ボールが転がりはじめるのと同時に走りだしていたらしい。軽い足音がして、俺の目の前で、十番のつま先がボールに触れた。ボールは十番の足もとに吸いつくように止まって、十番はそのまま前を向いた。
俺の足が蹴ったのは、ボールがあった場所の空気だった。
読みは合っていた。ボールが来る場所も、来る時間も。それでも、先に触ったのは十番だった。
樹が十番に突っこんでいったのは、その直後だった。十番はボールを足の外側で一度ずらして、樹の横を抜けていった。樹は勢いあまって三歩たたらを踏み、振り返って「はえー!」と叫んだ。悔しがるより先に、感心していた。
二回目も、同じだった。団子から、今度は左へ。俺は読んで、動いた。十番は読んでいたのかどうか分からない。ただ、ボールが動いた瞬間に、十番の足も動いていた。俺が三歩かけて行く場所に、十番は二歩で着いた。
三回目は、俺が先に着いた。ボールに足が触れた。止めようとした瞬間、背中に十番の肩が当たって、ボールは俺の足を離れていった。十番はボールを拾って、そのまま前へ運んでいった。
当たったのは背中の、肩甲骨のあたりだった。公園で陸の腕に当たったときのような、動かないものの重さはない。細くて硬いものが走ってきた勢いのまま、一点だけを突いていった。
十番は、俺のほうを見なかった。一度も。俺は十番にとって、ボールのそばにいた誰か、でしかなかった。
前半のうちに、十番が一点を取った。団子の横をすり抜けて、そのまま一人で運んで、ゴールの隅へ。岳が一度だけ前に立ったが、十番は岳の横を、止まりもせずに抜けていった。岳は振り返って、その背中を見送っていた。
蓮が取り返した。団子の真ん中でボールを持つと、紺のシャツを二人、三人と抜いた。南台の子たちは若宮の子より、抜かれ慣れていない顔をしていた。蓮が蹴ったボールは、ゴールの左の隅に転がりこんだ。
「よっしゃあ!」
前半は一対一で終わった。
ハーフタイムに、園田さんが笛を吹いて、みんなに水を飲ませた。俺は紺色の水筒の麦茶を飲みながら、南台のほうを見ていた。十番は水を飲みながら、隣の子とふざけて肩をぶつけ合っている。疲れた様子はなかった。
園田さんが俺たちの前にしゃがんで、「あの十番、はやいなあ」と言った。「おれのほうが、はやい!」と蓮が言い、樹が「おれも!」と続けた。ひかりに「いつきくん、ぬかれてたじゃん」と言われて、樹はビブスの裾で顔をごしごしこすった。
陸は「じゅうばん、しょう、っていうんだって」と、どこかで聞いてきたことを教えた。岳だけは何も言わずに、肩をぶつけ合う十番の脚を見ていた。俺は立って休んでいるだけなのに、ふくらはぎが張っていた。
速さで負けるなら、早く動けばいい。ボールが転がる前に動く。十番より半歩早く、ボールが来る場所へ。
後半、それを試した。
団子が揺れた。右へ崩れる、と思った。俺は崩れる前に、右へ走りだした。
団子は左へ崩れた。
ボールは俺が走りだしたのと反対側へ転がり出て、南台の子が拾った。俺はコートの右の端で、誰もいない地面を見ていた。
ボールが来る「そこ」は、一秒ごとに変わる。それを一秒前に決めてしまったら、合わなくなるのは当たり前だった。
後半、十番がまた一点を取った。蓮がまた取り返した。今度は十番と蓮が同じボールを追った。二人の肩がぶつかった。十番がよろけた。蓮の体は揺れなかった。四月に八歳になった体は、十番の体より重かった。蓮はボールを奪うと、そのままゴールまで運んだ。
二対二。
ひかりにボールが回ってきたのは、終わり近くだった。団子のこぼれ球がひかりの前に転がった。ゴールまで、遠くはない。ひかりは思い切り蹴った。ボールは高く上がって、ゴールの上を越えていった。
「あー!」
ひかりは両手で顔を覆って、それから悔しそうに地面を踏んだ。
コートの外で、南台の若い監督が手をメガホンにした。
「ひろがれ! まて!」
団子の外に、紺のシャツが二人残っていた。一人は俺の立つ場所とちょうど反対側の、左の後ろ寄りにいる。団子が右へ寄っても、その子は一歩も動かずに待っていた。その子の目は団子ではなく、団子の切れ目を見ていた。
最後の一点は、南台の別の二年生が入れた。団子の中から転がり出たボールを、誰も止められなかった。
二対三。笛が鳴った。
俺がボールに触ったのは、一回だけだった。それも、止めた直後に取られた。シュートは一本も打っていない。
整列して礼をした。南台の子たちが紺の裾をなびかせて、車のほうへ戻っていく。十番は最後まで、こちらを振り返らなかった。
監督が俺たちを集めた。
「駒井」
「はい!」
「よく取った。前は、駒井だ。ほかは、駒井に預けろ。取ったら、駒井に出せ。それでいい」
監督はそう言って、ほかの誰の顔も見ずに高学年のほうへ歩いていった。
駒井に預けろ。
間違ってはいなかった。今日の二点は、蓮の二点だった。蓮にボールが渡れば、点になる。それは試合を見ていた誰にでも分かった。俺にも分かった。
分かっているのに、膝の裏がなぜかこわばっていた。
蓮が俺のところへ駆けてきて、肩を叩いた。
「さく、とったら、おれに、ちょうだいね!」
屈託のない声だった。監督の言葉を、蓮はそのまま、うれしい約束として受け取っていた。
「……うん」
俺がうなずくと、蓮は満足そうに笑って、今度は陸の肩を叩きに行った。陸にも同じことを言っている。陸も「うん」と言っていた。
◇
お茶を配っている途中で、園田さんがみんなを呼んだ。
「おーい、ちょっと集まれ。いいこと教えてやる」
子どもたちがしゃがんで、園田さんを囲んだ。
「十一月にな、市の低学年の大会がある。二年生まで出られる大会だ。いろんな少年団が集まって、勝ったら次、勝ったら次、ってやる」
「でる!」
蓮が手を挙げた。
「おまえは出るよ。みんな出る。それでな」
園田さんはちょっとだけ声を低くした。
「南台も、出るぞ」
子どもたちがわっと声を上げた。蓮は立ち上がって、「こんどは、かつ!」と叫んだ。ひかりも「かつ!」と言った。陸は「なんで、こんどは、かつの?」と訊いて、蓮に「かつから!」と言われていた。
岳は黙って、さっき十番が抜けていったあたりの地面を見ていた。
俺はしゃがんだまま、自分の膝を見ていた。十一月。あと五か月。
帰りは、田んぼの一本道の分かれ道まで、岳と一緒だった。岳の母が今日は来られなくて、岳は歩いて帰ることになっていた。
岳はずっと黙っていた。日曜日なので、一本道の両側の田んぼには、どこの家の人も出ていた。田植え機が泥の上をゆっくり進み、あぜでは長靴の人が苗の箱を運んでいる。岳はその横を、自分の靴を見ながら歩いていた。途中で一度だけ、岳はかかとを地面から浮かせて、腕を体の横でまっすぐ振って走った。三歩目で、靴の裏がべたりと地面についた。岳はそのまま、また歩きだした。
分かれ道の手前で、ぽつりと言った。
「……あの、じゅうばん、はやかった」
「うん」
「……ぼく、まえに、たったのに。とまらなかった」
岳は自分の左右の足を、交互に見下ろした。
「……つぎ、とめたい」
小さな声だった。岳がそういうことを口にするのを、俺は初めて聞いた気がした。一年前、ランニングの二周目で座りこんでいた岳が、誰かを止めたいと言っている。
「うん」
岳は小さな橋のほうへ曲がっていった。一度だけ振り返って、手を挙げた。
家に帰って、二階で自由帳を開いた。
なんだい 10ばん はやい
書いて、その下に、もう一行書いた。
11月
鉛筆を持ったまま、十番の走り方を頭の中で巻き戻した。腕の振り。つま先。土につかないかかと。あの子はたぶん、早生まれではない。学年の真ん中あたりの生まれだろう。体は蓮ほど大きくない。足が速い。それだけで、俺の読みは全部消されてしまった。
焦ることはない、と頭の中の四十歳が言った。足の速さも、体の重さも、まだ伸びる。七歳の今、八歳の子や足の速い子に負けるのは当たり前だ。あと何年かすれば、差は縮む。
いずれ。
鉛筆の先で、自由帳の端を軽く叩いた。その言葉は書かなかった。
窓の外では、空き地の向こうの田んぼの上に、低い雲が垂れこめていた。湿った風が網戸を通って、部屋の中まで入ってくる。
窓を閉めた。閉めたあとも、湿った土の匂いだけが、しばらく部屋に残っていた。




