第29話 ひだりだけで、しょうぶ
前の日の雨で、校庭のあちこちに水たまりが残っていた。
五月二十五日の日曜日。昨日の土曜日は朝から晩まで雨が降りつづけて、校庭の低いところは、まだ茶色い水を張ったままだった。園田さんが「水たまりの中は、コートの外な」と言って、コーンを水たまりの縁に並べ直した。
四対四の最初の組で、俺と陸が同じになった。
一年生でいちばん背が高かった陸は、二年生になってもいちばん高い。長い脚で水たまりをひょいとまたいで、コートの端まで走っていく。
笛が鳴って、ボールが動きだした。
ボールは最初の一分で水たまりの縁をかすめて、表面が黒っぽく濡れた。足の内側で触ると、乾いた日より一瞬長く靴に貼りついて、離れぎわにぬるりと滑る。蹴るたびに、ボールはぺたりと湿った音を残して足から離れていった。
俺は陸を見ていた。
陸が左でも蹴れることは、冬から知っていた。知っていて、ちゃんと見たことはなかった。俺の頭はずっと、自分の左足と蓮のことでいっぱいだった。
陸のところにボールが転がった。陸の左側だった。
陸はそのまま左で蹴った。
迷わなかった。右に持ちかえようともしなかった。ボールが左に来たから、左で蹴る。体をひねりもしないで、左足の内側を当てて、前の味方へ出した。ボールはまっすぐ転がって、味方の足もとで止まった。
次にボールが来たのは、陸の右側だった。陸は右で蹴った。その次は、また左だった。陸は左で止めて、左で出した。
右と左を、陸は選んでいなかった。ボールのあるほうの足が出る。それだけだった。
俺はどうだろう。
ボールが左に来たとき、俺の体はまず右へ回ろうとする。右足の前にボールを持ってきてから蹴ろうとする。冬のあいだ塀の前で左を練習して、左右交互で二十回続くようになった。それでも、試合の中で左にボールが来ると、体はまだ右を探す。頭が「左でいい」と言うより先に、右を探してしまう。
陸の体は探していなかった。
四対四の終わりごろ、俺のところにもボールが来た。左側だった。
左で止めて、左で出せばいい。頭ではそう分かっていた。分かっているのに、体は右へ回った。ボールを右足の前に持ちかえるための、半歩。その半歩のあいだに、相手の子の足がボールに届いた。ボールは水たまりの縁まで転がって、コーンに当たって止まった。
たった半歩だった。陸なら、その半歩を使わない。
四対四が終わって、紅白戦が終わって、整列して頭を下げた。お茶を飲みながら、俺は陸の隣に行った。
「陸くん」
「ん?」
「ひだり、どうやって、けるの?」
陸は紙コップを持ったまま、きょとんとした。それから、自分の左足を見下ろした。
「わかんない」
「わかんないの?」
「ふつうに、けるだけ」
陸はなんでそんなことを訊くのかという顔で、麦茶を飲んだ。
去年の夏の公園で、俺は陸を一人かわしたことがある。陸は「いまの、どうやったの? もういっかい、やって!」と叫んで、俺がやったとおりにまねをして、自分の足につまずいた。
今度は俺が訊く番で、陸は答えを持っていなかった。陸にとって左で蹴るのは、歩くときに左足を出すようなもので、説明することではないのだ。
「さくくん、ひだり、へたなの?」
「……へた」
陸は紙コップをくしゃっとつぶして、ちょっと考えるように空を見上げた。それから、ぱっと俺のほうを向いた。
「じゃあさ、ひだりだけで、しょうぶ、しよ」
「ひだりだけ?」
「ひだりだけで、けるの。みぎ、つかったら、まけ」
陸はもう決めてしまった顔をしていた。
◇
お昼を食べてから、公園に集まった。
陸が生け垣のそばにサンダルを二つずつ並べて、二歩幅の小さなゴールを二つ作った。広場の真ん中の柱時計は、一時を少し回ったところだった。
ひかりは自転車で来た。陸の家から電話がいったらしい。それから水色の車が公園の入口に停まって、岳が降りてきた。運転席の岳の母が、窓から俺たちに頭を下げた。
「五時のチャイムが鳴ったら、迎えにくるからね」
岳の母はそう言って、車を出した。岳は水色の車が角を曲がるまで見送ってから、こちらへ早足で来た。Tシャツの胸に、朝の校庭の泥が一つ、乾いて残っていた。
「ひだりだけで、しょうぶ、だって」
陸が説明すると、ひかりは「なにそれ」と笑った。岳は黙って自分の左足を見ていた。
「みぎで、さわったら、あいてのボール」
「さわっちゃったら?」
「あいての、ボール!」
陸が勝手に決めたルールで、俺と岳、陸とひかりに分かれた。
始めてすぐに分かった。四人とも、へただった。
陸だけはましだった。それでも左だけと決めると、ボールが右に来たときに困る。体を回して左の前に持ってこようとして、もたもたしているあいだに取られる。岳は左のつま先でボールを突いて、思っていたのと全然違うほうへ転がした。
ひかりは三回続けて右で触ってしまって、そのたびに「あっ」と言って自分の足を叩いた。叩いたあとは、必ず左で思い切り蹴った。ひかりの左は思ったより強かった。どこへ飛ぶかは分からなかったが、飛ぶたびにひかりは「いまの、つよかった!」と自分で言った。
俺も似たようなものだった。左の足の裏で止めるのは、冬の塀の前で覚えた。止めるのはできる。でも、止めたあとに左で押し出そうとすると、ボールは右へ逸れる。左の足首がまだ、右の足首みたいに固まってくれない。
「さくくん、いま、みぎ!」
「さわってない」
「さわった! ひかり、みたもん!」
「……さわったかも」
ボールを陸に渡した。陸がそれを左で蹴りだそうとして、空振りした。ボールがころりと転がって、岳の左足の前で止まった。岳は一瞬固まって、それからつま先ではなく足の内側で、そっとボールを押した。ボールはちゃんと前に転がった。
「……できた」
岳がつぶやいた。誰に言うでもない声だった。
ひかりが笑いだした。陸も笑いだした。何がおかしいのか分からないまま、俺も笑っていた。岳も口を手で押さえて、声を出して笑っていた。この公園で岳の笑い声を聞くのは、去年の夏以来だった。
柱時計の針が一つ、二つと進んでいった。
一度、ひかりの左が生け垣を越えた。ボールは陸の家の庭へ消えて、向こう側で何か金物に当たった。
「ぼくんち!」
陸は生け垣の切れ目に頭からもぐりこみ、髪に葉っぱをつけてボールを抱えて戻ってきた。「いまの、いってん?」とひかりが訊くと、陸は「そと!」と言って、ボールを自分の左足の前に置いた。
何点入ったのか、途中から分からなくなった。陸が「いま、なんたいなん?」と訊き、ひかりが「わかんない!」と答え、岳が黙って首を振った。誰も数えていなかった。俺も数えていなかった。数えていない自分に気づいたのは、日が傾きかけたころだった。
陸がボールを持って、ゴールへ向かっていた。岳が前に立った。陸は左だけで岳をかわそうとして、ボールを足から離しすぎた。ボールが転がる。俺のほうへ。
左側だった。
左足の裏で止めた。止まった。冬の朝、霜の降りた塀の前で、何百回も繰り返してきた止め方だった。
顔を上げた。岳が陸の後ろから回りこんで、サンダルのゴールの右へ走っていた。
左で押し出した。
足首を固めた。つま先を外へ開いた。左足の内側の、平らなところで、押すように。
ボールはまっすぐ転がった。右へ逸れなかった。地面の上を、岳の走る先へ、まっすぐに。
岳の足もとに届いた。岳はそれを左のつま先で蹴った。ボールはサンダルの片方に当たって、ゴールの外へ跳ねていった。
「あー!」
ひかりと陸が同時に叫んだ。岳は頭を抱えて、それから笑った。
でも、陸は岳を見ていなかった。俺を見ていた。
「さくくん、いまの、ひだり?」
「……うん」
「まっすぐだった!」
陸はなぜか、自分が蹴ったみたいにうれしそうだった。
左足の内側に、まだボールの重さが残っていた。右足で蹴るときとは違う、どこか頼りない重さだった。それでも、まっすぐ行った。試合の中で誰かに向かって左で出したボールが、初めてまっすぐ届いた。
夕方五時の防災無線のチャイムが鳴った。ひかりは自転車で、岳は迎えに来た水色の車で帰っていった。陸は生け垣の向こうの家に戻る前に、サンダルを履きながら言った。
「また、ひだりだけ、やろ」
「うん」
サンダルの片方を足に引っかけたまま、陸が「あ」と言った。
「わかった。ぼくが、ひだりで、けれるの」
「なんで?」
「おにいちゃん。うちのまえで、いっしょにけるとき、いつも、ぼくのみぎにいるの」
陸は自分の右側の空気を、手のひらでとんとんと叩いてみせた。
「みぎでもってると、とられるから。ひだりにするの」
陸の兄は五年生で、少年野球のほうに入っている。校庭の向こう半分で、いつもバットを振っている子だ。その兄がいつも右側から足を出してくるから、陸はボールを左に置いて、左で蹴るようになった。
「だから、ふつう」
陸はそれで全部説明したつもりらしく、満足そうにうなずいた。
「つぎは、ぼく、かつ」
さっきの勝負で、どちらが勝ったのかは誰も知らなかった。
◇
次の週から、火曜日を「左の日」にした。
月曜日は、何もしない日にしてある。体を休ませる日だ。火曜日は、塀の前で左だけを使う。左で蹴って、戻ってきたボールを左の足の裏で止めて、また左で蹴る。右足は地面に置いておくだけ。
十二月にも「左の日」はあった。あのときは痛くなるまで蹴りつづけて、痛くなる前にやめることを覚えた。今度は、それを最初から決めてある。
六月三日の火曜日。学校から帰ってくると、父の車はなかった。空いた駐車スペースを横切って、塀の前に立った。
三号球を左足の前に置いた。
一回目。左で蹴った。ボールは塀に当たって、右足の前へ戻ってきた。右足は動かさない。体を左へずらして、左の足の裏で止めた。
二回目。三回目。戻りがずれるたびに、体のほうを動かす。右足でボールを迎えに行きたくなるのを、こらえる。
五回目で、戻りが左足の前に来た。止めて、そのまま蹴る。六回目。七回目。
ボールが塀をぽんと打ち、左の靴底にとんと収まる。その二つの間が回を重ねるごとに同じ長さになっていく。右足には、体の重さだけを預けておいた。蹴り終わった左足が、毎回同じところでぴたりと止まった。
頭に浮かんだのは、陸の左だった。選んでいない左。兄の右側をよけているうちに、体が勝手に覚えた左。俺の左はまだ選んでいる。考えて、決めて、出している。それでも蹴るたびに、考える時間が短くなっていく気がした。
八回目。九回目。
十回目。
ボールは塀の跡の重なりの真ん中に当たって、まっすぐ左足の前へ戻ってきた。左の足の裏で止めた。
十回、続いた。
十一回目は、右へ逸れた。駐車スペースの端まで転がっていくボールを、拾いに行かずにしばらく見ていた。
ボールは端の草に寄りかかって止まった。その手前を、アリが一列になって横切っていた。列は茶色いボールの前で二つに分かれ、向こう側でまた一本に戻っていく。一匹だけがボールの表面をのぼりかけて、すぐに列へ戻った。
十回。左だけで、十回。
数字が消えないうちに書いておきたくて、ボールをそのままにして家に入った。二階で自由帳を開く。五月十八日のページに、ひだり、と書いてある。その下の今日の日付のところに、鉛筆で書いた。
ひだり 10かい
書いてから、鉛筆を持ったまま笑ってしまった。陸に言ったら、なんて言うだろう。たぶん「まっすぐだった!」と言って、それから「つぎは、ぼく、かつ」と言う。何の勝負かも分からないまま。
塀の前に戻って、端で止まっていたボールを拾った。もう一度、左足の前に置く。また一から数えはじめた。
台所の窓が開いて、母が顔を出した。
「さく、さっきから、左ばっかりね」
「火曜日は、左の日」
「じゃあ、水曜日は?」
「……ふつうの日」
母は「なにそれ」と笑って、窓を閉めた。閉める前に、もう一度だけ俺の左足を見ていた。




