第28話 蓮の足
「蓮くん。あれ、もういっかい、やって」
公園の土の広場で、俺は蓮に頼んだ。
五月十八日の日曜日、昼過ぎだった。練習から帰ってお昼を食べ、三号球を持って公園に来ると、蓮が先に来ていた。自転車を生け垣に立てかけて、一人でボールを蹴っている。ブランコでは、ひかりが立ちこぎをしていた。
蓮はボールを足の甲で蹴り上げては、落ちてきたところをまた蹴り上げていた。
「ご、ろく、なな……あっ」
ボールは脚に当たって、生け垣のほうへ逃げた。拾いに走りながら、蓮は俺に気づいて「さく! はちかい!」と叫んだ。数えたのは七までだった。
「あれって、どれ?」
「けさの。こうやって、腰が下がって、足が、くるって」
俺は自分の腰を落として、足首をひねってみせた。午前中の紅白戦で、蓮が相手の子を二人まとめて置き去りにしたときの動きだった。団子の外から見ていた俺には、蓮の腰が沈んだ瞬間、二人の体が同時に同じほうへ傾くのが見えた。糸で引かれたみたいに。
蓮は首をかしげて、それからぱっと顔を明るくした。
「あー、あれ! いいよ! さく、まもって!」
蓮はボールを足もとに置いて、俺の前に立った。俺は三歩離れて、腰を落とした。
蓮が来た。
最初の一歩はゆっくりだった。ボールを足の裏で転がしながら、俺のほうへまっすぐ近づいてくる。俺が右足を出そうとした瞬間、蓮の腰がすとんと沈んだ。体が左へ傾く。つられて、俺の重さも左へ流れる。その瞬間には、蓮の右足首がくるりと返って、ボールは俺の右側を抜けていた。
振り返ったときには、蓮はもう三歩先にいた。
「もういっかい」
「いいよ!」
二回目も、三回目も同じだった。分かっていても、体が持っていかれる。蓮の腰が沈むと、俺の体はどうしてもそちらへ動いてしまう。四回目は、沈むのを待たずに右へ足を出してみた。蓮は沈まずに、そのまま左を抜けていった。
「蓮くん、それ、どうやるの」
「どうって」
蓮はボールを足の裏で止めて、空を見上げた。考えている顔だった。蓮が考えている顔を見るのは珍しい。
「ぐって、やって、ぴゅっ」
「……ぐって?」
「ぐって、やるの。そんで、ぴゅっ」
蓮は自分でも分かっていないらしかった。ただ、ボールが来たらそうなる。相手が来たらそうなる。言葉にしたら、ぐって、やって、ぴゅっ、になる。
ブランコのほうから、ひかりが笑う声がした。
「れんくん、それ、せつめいに、なってない」
「なってるよ!」
蓮は言い返して、それから急に思い出したように俺のほうを向いた。
「さく、しってる? おれ、はっさいに、なった!」
「……おめでとう」
「さくは? いつ、はっさい?」
「らいねんの、さんがつ」
「おそっ!」
蓮は腹を抱えて笑った。来年の三月、という遠さが、ただおかしかったらしい。目尻に涙までためていた。
「わたし、じゅうがつ!」
ブランコの上から、ひかりが叫んだ。誰も訊いていなかった。
俺も笑った。笑いながら、その遠さを足もとで測っていた。同じ二年生で、十一か月。蓮の一歩と、俺の一歩の差。
◇
陸が来たのは、それからまもなくだった。家が公園の生け垣の向こうにあるので、ボールの音が聞こえると、たいてい出てくる。生け垣のこちらとあちらで、通う小学校が分かれるのだという。
「なにしてんの」
「いちたいいち。りくも、やろ」
蓮が言うと、陸はすぐに生け垣のそばでサンダルを脱いで、二つ並べた。二歩幅のゴールだ。去年の夏に俺が置いてみせたゴールを、陸はもう自分のものにしていた。ブランコから降りてきたひかりが、「わたし、キーパー」と言って、サンダルのあいだに立った。
俺は広場の端に座って、蓮と陸の一対一を見ていた。
蓮の足もとばかり見ていた。蓮がボールを運ぶとき、一歩ごとにボールに触る。右、右、左、右。陸の前で腰を沈めて、右へ抜けるまでに、蓮は三歩しか使わなかった。俺が同じところを行こうとしたら、たぶん四歩かかる。一歩足りないぶん、ボールに触る回数が一回減る。一回減れば、ボールは足から離れる。
サンダルをゴールにしたので、陸は裸足だった。蓮が近づくたびに、陸の足が土の上で小刻みに踏みかえる。二回抜かれて、三回目に陸は脚をいっぱいに伸ばし、足の外側でボールに触った。「さわった!」と陸が叫び、「さわった、だけ!」と蓮が言い返す。蓮はこぼれかけたボールを拾い直して、そのまま陸の脇を抜けた。
蓮がサンダルのあいだに蹴りこむと、ひかりが横っ飛びして、届かずに土の上を転がった。
「れんくん、てかげんして!」
「しない!」
ひかりは膝の土を払いながら、なぜかうれしそうだった。
生け垣のツツジはもう盛りを過ぎて、しおれた花のあいだに赤い花がいくつか残っていた。ひかりはその一つを抜いて、花の根もとをくわえて吸った。
「あまい」
陸がまねして二つ抜き、蓮はひとつかみむしって、ひかりに「とりすぎ!」と言われた。俺も一つ吸ってみた。青くさい草の味のあとに、薄い甘さが舌の先に残った。
交代のとき、俺は立ち上がった。
「蓮くんの、まね、する。陸くん、まもって」
陸は長い腕を広げて、俺の前に立った。去年より、また背が伸びていた。
俺はボールを足の裏で転がしながら、陸に近づいた。蓮の動きは頭の中で何度も巻き戻してある。最初の一歩はゆっくり。相手が足を出そうとした瞬間に、腰を落とす。体を左へ傾けて、相手の重さを引っぱる。そこで右足首を返して、右へ抜ける。
陸が足を出しかけた。
今だ。腰を落とした。体を左へ倒した。右足首を返した。ボールは右へ出た。
出すぎた。ボールは俺の足を離れて、陸の横をころころと転がっていった。俺の体はまだ左に傾いたままで、ボールについていけなかった。陸はボールを見送ってから、ゆっくり歩いていって拾った。
「もういっかい」
二回目は、ボールが出なかった。足首を返したつもりが、足の内側がボールの上をかすめただけだった。ボールはその場にとどまって、俺だけが右へ一歩出た。とん、と陸の足がボールを取った。
三回目は、陸の肩にぶつかった。
体を左へ倒して、陸の重さを引っぱるはずだった。陸は引っぱられなかった。俺の肩が陸の腕に当たって、はじかれたのは俺のほうだった。体が浮いて、尻から土に落ちた。
尻の下の土が冷たかった。手のひらに砂がめりこんでいた。
「あ、ごめん」
陸が腕を広げたまま、困った顔で俺を見下ろした。
「陸くんは、わるくない」
本当に、陸は何もしていなかった。立っていただけだ。立っているだけの陸に、俺のほうがぶつかって、はじかれたのだ。
「さく、だいじょうぶ?」
蓮が駆けてきて、手を出した。俺はその手をつかんで立った。蓮は俺の顔をのぞきこんで、本当に心配そうに言った。
「さく、たいへんそう」
蓮には本当にそう見えたのだ。蓮なら、ぐってやってぴゅっ、で済む。それを俺は体じゅうに力を入れて、それでもできずに転んでいる。
「……うん。たいへん」
サンダルのゴールの前で、ひかりがこちらを見ていた。
「さくくん、いま、さんかいめ」
数えていたらしい。それから、ひかりは少し考えて付け足した。
「でも、さっきより、はやかった」
俺は足もとを見た。
土の上に、靴の跡が残っていた。蓮がさっき俺を抜いたあたりに、蓮の靴の跡がある。腰を沈めたところで、つま先の跡が深くえぐれていた。踏みこんだ重さが、そのまま土に残っている。
その横に、俺の跡があった。同じように踏みこんだはずの場所なのに、跡は浅かった。靴の裏の突起の形が、うっすらと土に押されているだけだ。
深さが違った。
蓮の動きは蓮の体でできていた。八歳になったばかりの、学年でいちばん早く生まれた子の重さと歩幅。腰を沈めたときに相手を引っぱれるのは、引っぱるだけの重さがあるからだ。足首を返したときにボールがついてくるのは、その一歩が届くからだ。
同じ動きを俺の体でなぞっても、同じものにはならない。体重が足りないぶん相手は引っぱられず、歩幅が足りないぶんボールは逃げる。体重も歩幅も、練習では増えない。少なくとも、今は。
悔しかった。
蓮のドリブルを、きれいだと思った。あんなふうにやりたいと思った。でも、あれは蓮のものだった。蓮の体と、蓮の感覚の中にしかない。俺が何千回まねをしても、俺のものにはならない。
「さく、もういっかい、やる?」
蓮がボールを持ってきた。
「……ううん。蓮くん、やって。ぼく、まもる」
「いいよ!」
蓮はうれしそうにボールを置いた。それから日が傾くまで、俺は蓮に抜かれつづけた。抜かれながら、蓮の腰が沈む瞬間だけを見ていた。
ひかりはブランコの柵に腰かけて、俺が抜かれるたびに数を言った。
「じゅういち」
「じゅうに」
サンダルのゴールの横から、陸が「いまの、じゅうさん」と口をはさみ、「じゅうに!」とひかりが言い返す。二人が言い合っているあいだに、蓮はまた俺の右を抜けていった。
「じゅうさん!」
今度は二人の声がそろった。腰を落としつづけた太ももの前が、じわじわと熱くなっていた。
何十回目かで、気づいたことが一つあった。蓮は腰を沈める前に、ほんの一瞬だけ、ボールに目を落とす。足もとのボールを確かめるように。その一瞬のあとで、体が沈む。
途中で、蓮がボールを止めて訊いた。
「さく、なんで、まもるほう、ばっかり、やるの?」
「……みてるの。蓮くんの、あし」
「へんなの」
蓮はそう言って笑い、また俺を抜いていった。
気づいても、俺の足はその一瞬に間に合わなかった。広場の真ん中の柱時計が四時を指すころには、ひかりも陸も、俺が何回抜かれたか数えるのをやめていた。
◇
家に帰ると、玄関で母が俺の半ズボンを見て眉を上げた。
「どうしたの、そのお尻」
見ると、半ズボンの尻が土で茶色くなっていた。
「ころんだ。蓮くんの、まね、して」
「まねしたら、ころぶの?」
「……ころぶ」
母は声を上げて笑って、「洗濯機に入れときなさいよ」と言った。
父の車はなかった。日曜も現場らしい。駐車スペースの奥のブロック塀まで、五歩。
三号球を足もとに置いて、塀の前に立った。
夕方の光が塀を斜めに照らしていた。腰の高さに、ボールの跡が丸く重なっている。一年分の跡だ。そのまわりには、一年前の散らばった泥の跡が、まだうっすらと残っていた。
ボールを足の裏で転がしながら、塀のほうへ一歩ずつ近づいた。最初の一歩はゆっくり。塀の手前で腰を落として、体を左へ倒す。右足首を返す。
ボールは右へ出すぎて、駐車スペースの端の雑草の中へ転がっていった。
拾いに行って戻ってきて、もうやらなかった。蓮が使わないものは何だろう、と考えた。
蓮は何でもできる。右でも左でもボールを運べる。速い。強い。考えないで、体が先に動く。俺が蓮と同じものを持とうとしても、蓮のほうが先に、もっと大きく持っている。
それでも、蓮が決めるのはいつも右足だった。
四月の紅白戦の五点も、去年からの何十点も、最後のひと蹴りは右だった。左でボールを運ぶことはあっても、左で決めるところは見たことがない。蓮は左を使わなくても、右だけで決められるのだ。
左。
俺は二階へ駆け上がって、自由帳の今日の日付の下に「ひだり」とだけ書いた。それから、もう一度塀の前に戻った。
左足で蹴った。足の内側で、まっすぐに。ボールは塀に当たって、ぽん、と鈍い音を立てた。戻ってきたボールは、左足ではなく右足の前へ来た。右足の裏で止めた。
塀には届く。冬のあいだに、左右交互で二十回続くようになった。でも、それは止めて返すための左だった。決めるための左は、まだ一度も蹴ったことがない。
もう一度、左で蹴った。今度は少し強く。ボールは塀の跡の重なりから、こぶし一つぶん右に当たって、また右足の前へ戻ってきた。
台所の窓から、母が「さく、ごはん」と呼んだ。
俺は戻ってきたボールを、今度は左の足の裏で止めた。




