第27話 新しい一年生
校門の脇に、見たことのない車が四台並んでいた。
五月の二つ目の日曜日だった。朝の九時少し前。校庭の端に、ぶかぶかのTシャツを着た小さな子どもたちが、親に手を引かれて固まっている。六人か、七人。すね当てがまだ白くて、靴の裏の突起も減っていない。誰も校庭の土を踏もうとしないで、親の脚のあいだから、こちらを見ていた。
一年前、俺もあそこにいた。
母に連れられて、校庭の端で、誰とも目を合わせずに立っていた。違ったのは、俺だけが中身を四十年分持っていたことくらいだ。それでも足がすくんだのを覚えている。
今日の母は、お茶当番だった。大きな水筒を二本と紙コップの袋を下げて、テントのほうへ歩いていく。新しい一年生のお母さんたちに「おはようございます」と頭を下げて、すぐに何か話しはじめた。去年は母も、ああして誰かに話しかけられたのだろう。
「よーし、集まれー」
園田さんが首のタオルを振りながら、一年生と二年生を一つの輪にした。
「今日から、一年生が入ります。二年生、ひとりずつ、名前言ってあげて」
二年生が順番に名前を言っていく。蓮は「こまいれん!」と叫んでから、なぜか片手を挙げてポーズを取った。一年生たちが少し笑った。陸は「やじまりく」と言って、背の高さで一年生たちを驚かせた。岳は「……きたむら、がく」と、ほとんど聞こえない声で言った。
「みかみ、さく」
俺が言うと、一年生の中でいちばん大きい子が、俺の頭のてっぺんから足の先までをじろじろ見た。
「にねんせいなのに、ちっちゃい」
大人たちが「こら」と言い、何人かの子が笑った。
俺も笑った。本当に、ちっちゃいのだ。その子はもう、俺よりこぶし一つぶん背が高かった。あとで園田さんが名簿を見ながら呼んだので、大塚樹という名前だと分かった。蓮と同じ、四月の生まれだそうだ。
笑いながら、頭のどこかで背の順を並べ直していた。二年生の中で、俺はいちばん前だ。一年生と混ぜても、たぶん前から何番目かだろう。
一年生の最後の一人は、母親の後ろに隠れたまま出てこなかった。肩までの髪で、Tシャツの胸にうさぎの絵がついている。女の子だった。
「ほら、かなで。お名前、言いなさい」
母親に背中を押されても、女の子は母親のスカートをつかんで離さない。園田さんが「いいよいいよ、あとで」と手を振ったとき、ひかりが輪から出ていった。
ひかりは女の子の前で、膝を折ってしゃがんだ。園田さんがいつもする、あのしゃがみ方だった。目の高さを、その子にそろえる。
「わたし、ひかり。にねんせい」
ひかりは右手を出した。女の子はひかりの顔と手を何度も見比べた。それから、スカートをつかんでいないほうの手の指先だけで、ひかりの手に触った。
「かなでちゃん、ね」
女の子はうなずかなかった。でも、首も振らなかった。
ひかりは満足そうに立ち上がって、女の子の手を引いて輪に戻ってきた。宮下奏、と園田さんの名簿にはあった。去年入った一年生で、女の子はひかり一人だった。ひかりが手を離さないのは、たぶん、そのせいもある。
◇
走って、体操をした。一年生たちは校庭を三周するあいだに、二人が歩きだし、一人が座りこんだ。座りこんだのは、一年生の中でいちばん小さな男の子だった。園田さんが走っていって、横に並んで歩いてやっていた。その子を見て、岳が顔を上げたのを、俺は見ていた。
列の先頭では、蓮が一年生たちのほうを向いて、後ろ向きに走っていた。小さな子の横を歩きながら、園田さんが「前、見て走れー!」と叫ぶ。蓮は三歩だけ前を向いて、また後ろ向きに戻った。その蓮に並ぼうとした樹は、二周目の途中から、腕ばかりが大きく回っていた。
体操が終わると、大河原監督がやってきた。紺のジャージに、首から銀色の笛。一年生たちが急に静かになった。
「対面パス。二年、手本を見せろ」
監督は二年生の顔をざっと見回した。
「三上。矢島」
「えー、おれもー!」と蓮が言ったが、監督はそちらを見もしなかった。蓮は口をとがらせて、すぐに足もとのボールをつま先で転がしはじめた。
陸と顔を見合わせた。陸は目をぱちぱちさせてから、ボールを一つ抱えて前に出た。
五歩離れて向かい合った。一年生たちが二年生の後ろに、ずらりと並んで見ている。樹がいちばん前で、腕を組んでいた。監督の真似らしい。
陸がボールを転がしてきた。
右足の裏で止めた。止まった。ボールは足の下でぴたりと動かなくなった。
軸足の左を、ボールの横に置く。右のつま先を外へ開く。足首を固める。足の内側の、いちばん平らなところで押し出す。
ボールはまっすぐ転がって、陸の右足の前で止まった。陸が止めて、返してくる。俺が止めて、返す。
一往復、二往復。
一年前の五月、同じ校庭で、蓮と五歩離れて向かい合った。来たボールは足の裏の手前をすり抜け、蹴ったボールは蓮の一歩右へ逸れた。十本蹴って、まっすぐ行ったのは二本だった。「さく、どこ蹴ってんの」と、蓮は悪気なく笑った。
今、ボールは行って、戻ってくる。
足の内側に、何かが積もっている気がした。塀の前で毎朝蹴ってきた回数。雨の日に居間で転がした回数。数えれば数字になるけれど、数字ではない何かだった。重さのようなものが、足首から膝のあたりにかけて、静かに溜まっている。
「よし。わかったな。こうやるんだ」
監督が一年生たちに言った。それから「二人組になれ」と言って、もう高学年のほうへ歩いていった。
樹が組んでいた腕をほどいて、隣の子に言った。
「ふつうじゃん」
俺はうっかり笑いそうになった。その通りだった。ふつう、ができるようになったのだ。一年かかって。
陸がボールを抱えたまま、俺のほうに寄ってきた。
「さくくん、いまの、ぼく、うまかった?」
「うん。ぜんぶ、ちゃんと止まってた」
「さくくんのほうが、まっすぐだった」
陸はそう言うと、なぜかうれしそうに、ボールを頭の上に載せて歩いていった。
二人組は、二年生と一年生で組むことになった。園田さんが一人ずつ割り振っていく。俺の相手は樹だった。
樹のボールは強かった。蹴り方は無茶苦茶で、つま先で突くように蹴る。それでも体が大きいぶん、ボールに力が乗る。一本目は俺の右へ大きく逸れ、二本目は膝の高さに跳ねてきた。
俺は止めた。右へ逸れたボールには一歩寄って足の裏で。跳ねてきたボールは、太ももで勢いを殺してから足もとに落として。三本目も、四本目も、五本目も止めた。止めて、樹の足もとへ、まっすぐ返した。
六本目を蹴る前に、樹がボールを足で押さえたまま、俺をじっと見た。
「……ちっちゃいのに、とまる」
「いっぱい、れんしゅうしたから」
「どれくらい?」
毎朝十五分、夕方三十分。一年分を足し上げれば何回になるか、自由帳を見なくても分かっていた。
「……いっぱい」
樹は鼻を鳴らして、六本目を蹴った。さっきより少しだけ、つま先が外を向いていた。
ボールは足の内側の端に当たって、さっきの半分の速さで転がってきた。受けた足に、ほとんど跳ね返らない。樹は「……おそい」と顔をしかめ、七本目はまた突くように蹴った。それも止めて、足もとへ返す。八本目の前に、樹は右足の先を外へ開いてから、軸足を置き直した。
隣では、ひかりが奏と組んでいた。奏はボールを蹴るたびに、ひかりの顔を見た。ボールは三回に二回、ひかりの足もとまで届かずに止まった。そのたびにひかりは自分から走っていって拾い、「いいよ、いいよ。いまの、まっすぐだった」と言った。
何本目かで、奏のボールがひかりの足にちゃんと当たった。ひかりが「ほら!」と言うと、奏はうつむいたまま、靴のつま先で土を一度こすった。
◇
最後は紅白戦だった。一年生と二年生を混ぜて、八人と八人。ビブスで分ける。
ビブスの束はテントの下の母のところにあった。取りに行くと、一年生のお母さんが母に話しかけていた。
「母の日なのに、朝から当番なんて、ねえ」
「うちは、いつもどおりですよ」
母は黄色いビブスを数えて、俺の腕にのせた。
「一年生にも、配ってあげて」
奏はひかりに、頭からかぶせてもらった。うさぎの絵が黄色の下に隠れた。
キックオフの前に、樹が蓮を指さしていた。
「おれ、れんくんから、とる!」
「いいよ!」
蓮はうれしそうに答えた。笛が鳴ると、樹はまっすぐ蓮に突っこんでいった。蓮はボールを足の裏で一度引いて、樹の両足のあいだにちょんと通した。樹はボールを追って振り返り、自分の足にからまって、土の上に尻もちをついた。
樹は一瞬ぽかんとして、それから大声で笑った。
それを合図にしたように、一年生たちが全員、ボールに向かって走りだした。
ボールを持っていたのは蓮だった。蓮が右へ行けば、一年生のかたまりも右へ流れる。蓮が止まれば、かたまりも止まって、つんのめった子がとなりの子にぶつかる。敵も味方もなかった。一年生たちはとにかく、蓮の持っているボールが欲しいのだ。
蓮はそのかたまりを、遊ぶように抜けていった。ボールを足の裏で引いて、くるりと回る。伸びてくる短い足のあいだを、ちょん、ちょんと通していく。一年生たちがきゃあきゃあ言いながら追いかける。蓮も笑っている。
テントの前では、一年生の親たちが並んで声を上げていた。
「いつき、いけー!」
「とって、とって!」
呼ばれた子は、呼ばれるたびに団子の中で振り向く。振り向いたあいだに、蓮はその足もとをボールで通っていった。
団子の外に、一人だけ立っている子がいた。
樹ではない。奏でもない。ビブスが膝まで届いている、いちばん小さな男の子だった。さっき、校庭を走っている途中で座りこんだ子だ。団子から十歩くらい離れたところで、両手をだらりと下げて、ぼんやり立っている。走らない。団子にも入らない。どうしたらいいか分からない、という顔で。
俺はその子から目が離せなかった。
あの春の自分が、そこにいた。
中身の違いはある。俺はあのとき、どこに立てばいいかを知っていた。あの子はたぶん、知らない。それでも、団子の外にぽつんと立つ小さな背中は、同じ形をしていた。
団子が崩れた。誰かが蹴りそこねて、ボールが団子の外へ転がり出た。その子のほうへ。
その子は自分のほうへ転がってくるボールを見て、目を丸くした。それから慌てて片足を上げて、ボールの上を空振りした。ボールはその子の足の下を抜けて、ゆっくりと転がっていった。
その子は片足を上げたまま、しばらく固まっていた。それから、きょろきょろとまわりを見た。
誰も見ていなかった。団子はもう次のボールを追っている。
俺は見ていた。団子の端で、岳も一度だけ、その子のほうを振り返っていた。
何か言おうかと思った。こっちに立てばいい。ボールが来たら、足の裏で止めればいい。言えることは、いくらでもあった。
言わなかった。
入学したばかりの春、俺は昼休みの校庭で空振りをして、誰にも見られなかった。それがいちばんこたえた。こたえたから、また同じ場所に立った。自分で決めて、立った。
その子は空振りした自分の足を見下ろしていた。それから、足を下ろして、半歩だけ団子のほうへ動いた。また止まった。どこへ行けばいいか考えているのが、背中で分かった。
俺はその子から目を離して、自分の位置に戻った。
団子の真ん中で、蓮がボールを持ったまま、相手の一年生を三人まとめて振りきった。そのままゴールの前まで運んで、ころんと蹴りこむ。
「よっしゃあ!」
蓮が両手を挙げると、一年生たちが歓声を上げた。敵も味方も関係なかった。点を取られた側の一年生まで、蓮のほうへ駆け寄っていく。
「れんくん、すげー!」
「いまの、どうやったの!」
蓮が自分の陣地へ走って戻ると、一年生たちが、その後ろをぞろぞろとついていった。小さな体操服とぶかぶかのビブスが、蓮の背中にくっついて、校庭の上を一列に横切っていく。親鳥のあとを追う雛みたいだった。
蓮は振り返って、それを見て、また笑った。
団子の外の、あの小さな子だけが、ついていかなかった。さっきより半歩だけ団子に近いところに立って、自分の足もとをじっと見ていた。




