第26話 あの一本
雷が鳴るたびに、教室の窓が白くなった。
そのたびに誰かが「うわあ」と声を上げ、つられてみんなが笑う。窓ガラスには、雨に打たれた桜の花びらが何枚も貼りついていた。先週の金曜日には満開だった校庭の桜は、始業式の朝の雷雨で、ほとんど散ってしまった。
二年生の教室は、一年生の教室の真上だった。廊下に貼られた名前の紙を見ると、クラスは一年生のときのままで、担任も田村先生だった。先生は眼鏡の奥の目を細めて「みんな、ちょっとずつ大きくなったわね」と言った。
教卓に積んであった新しい教科書が、列ごとに前から回ってきた。こくごの本は表紙がまだ硬く、開くと新しい紙のにおいがした。前のほうで誰かが本に鼻を押しつけて「あたらしい、におい」と言い、何人もがまねをした。
机のまわりでは、男の子たちが同じ話をしていた。
「せんしゅうの、モンカプ、みた?」
「みた! デンキチ、でんき、ばりばりって」
前歯の子が両手を広げて、体をぶるぶる震わせてみせた。黄色い小さな怪物が電気を出すところのまねらしい。一年生の春に一本抜けていた前歯は、もう大人の歯にそろっている。小さな怪物をカプセルに入れて連れて歩く『モンスターカプセル』は、ゲームとカードのあと、先週の火曜日の夕方からテレビのアニメになった。みんなはモンカプと呼んでいる。
知っていた。男の子たちが机の上で見せ合っているカードの絵も、ゲームの中の怪物の名前も、四十年分の頭のいちばん底のほうに残っている。一度目の二年生の俺は、ちょうどこの教室の後ろの隅で、ああいうカードを机に並べていた。休み時間になると校庭へ走っていく子たちを、窓から見たこともなかった。
駒井蓮のことも、そのころの俺は「足の速い、隣のクラスの子」としか覚えていなかった。運動会でいつも一番を走っている子。それだけだ。
「さくくん」
斜め前の席から、ひかりが振り向いた。
「さくくんちのテレビ、モンカプ、うつる?」
「うつるよ」
「みた?」
「……ちょっとだけ」
「ちょっとって、なに」
ひかりは不満そうに唇をとがらせて、前に向き直った。結んだ髪の先が、机の端で跳ねた。
田村先生が手を叩いた。
「はい、じゃあ、二年生になって、がんばりたいこと。ひとりずつ、言ってみましょう」
前の席から順番に立って言っていく。かけ算。さかあがり。なわとびの二重とび。忘れものをしない。前歯の子は「モンカプ、ぜんぶ、おぼえる」と言って先生を困らせ、教室じゅうが笑った。
ひかりの番が来た。ひかりは椅子をがたんと鳴らして立ち上がった。
「サッカーで、いっかい、いれる」
「サッカー?」
「うん。わたし、まだ、いっかいも、いれたことないから」
先生が「がんばってね」と言うと、ひかりは真剣な顔でうなずいて座った。
俺の番だった。立ち上がってから、何を言うか決めていなかったことに気づいた。両足で蹴れるようになる。毎日ボールに触る。頭に浮かぶのは、一年前に自由帳の一ページ目に書いた計画の言葉ばかりだった。
「……はやく、ねる」
一拍おいて、教室がどっと沸いた。前歯の子が机を叩いて笑っている。先生は眼鏡の奥で目を丸くして、それから「それも、大事ね」と笑ってくれた。座りながら、机の端を指でこすった。四つの計画のうち、いちばん子どもらしく聞こえるのを選んだつもりだったのだ。
また窓が白くなった。少し遅れて、腹の底に響く音がした。
窓の外の校庭は、雨で一面に煙っていた。西の端の子ども用のゴールが、白い枠だけ浮かんで見える。三月三十日、市の運動公園で、俺が初めてボールを入れたのと同じくらいの大きさの枠だった。
◇
新しい学年の最初の練習は、四月十二日の土曜日だった。
学校が休みの土曜日の朝、九時。校庭の雨の跡はすっかり乾いて、隅の桜の枝には、もう若い葉が出はじめていた。
低学年の集まりは、ずいぶん小さくなっていた。ひとつ上の学年はみんな三年生になって、校庭のサッカーの側の向こう半分で、中学年の練習に混ざっている。こちら側にいるのは、二年生になった俺たち九人だけだった。新しい一年生が入ってくるのは、去年と同じ五月らしい。
整列して、おねがいします、と頭を下げた。校庭を三周走って、体操をした。
そのあいだずっと、俺は待っていた。
誰かがあの日のことを言うのを。三月三十日の最後の試合、残り二分。岳が競り勝って、俺が右足の内側で蹴って、白い網が揺れた。あのとき蓮は俺の頭をぐしゃぐしゃにかき回し、ひかりは上に乗っかってきて、陸は「ずるい」と叫んだ。園田さんは「ナイスゴール」と言った。
誰も言わなかった。
蓮は春休みに行った遊園地の話をしていた。陸は家の車の話をしていた。陸の母の運転する銀色のワゴン車で一緒に来た岳は、いつものようにみんなから離れたところで靴の紐を直していた。園田さんは「春休み、蹴ってたか?」とみんなに訊いて、「けってない!」「ゲームしてた!」という返事にのけぞって笑った。
当たり前だった。二週間前の、低学年の交流戦の、一点だ。大人だってそんなに覚えていない。フェンスの外にいた父も、あの日のことは一度も口にしていない。
分かっているのに、少しだけ足もとが寒かった。あの一本は、もう俺の中にしかないのだ。
体操で隣になった岳が、前屈をしながら俺の足もとをじっと見ていた。
「……みかみくん、くつ、ちいさい?」
言われて見下ろすと、トレーニングシューズのつま先が、親指の形にうっすらと盛り上がっていた。クリスマスの朝、枕もとに置いてあった靴だ。父が選んだ靴だった。
「……だいじょうぶ」
岳は小さくうなずいて、自分の靴に目を戻した。岳はときどき、誰も見ていないところを見ている。
園田さんの四対四が三十分あった。悪くなかった。止めて、首を振って、出す。秋から続けてきたことが、体の中でちゃんと回っていた。
九人なので、四対四は一人ずつ交代で休んだ。岳が左から押し出してきたボールは、乾いて固まった土の凸凹で細かく跳ねた。右の内側で迎えながら足を引き、跳ねをおさめる。顔を上げて、陸の長い脚の横を通して、右の奥の蓮の足もとへ転がした。
それから紅白戦になった。五人と四人。俺は四人のほうで、蓮は五人のほうだった。
黄色いビブスは五人のほうが着た。陸がかぶると、裾はへその上までしか届かない。蓮がそれを指さして「りく、おなか!」と叫んだ。四人のほうの岳は何も言わずに俺の左に来て、手を伸ばせば届くくらい後ろに立った。
笛が鳴って最初のボールが転がると、蓮が持った。
蓮は団子の真ん中で、ボールを足にくっつけたまま向きを変えた。一人目の伸ばした足の外を抜けて、二人目の肩を背中でいなした。前に出たキーパーの子の横を、ころりと転がして、決めた。一点。
五分もしないうちに、二点目が入った。三点目は、陸が出したボールを蓮が受けて、そのまま走りこんだ。四点目は、俺の目の前で取られた。俺が足を出すより一歩早く、蓮の右足がボールを持ち去っていった。
俺が触ったのは、一度だけだった。団子からこぼれてきたボールを、右足の裏で止めた。首を振ると、ひかりが左の空いたところへ走っていた。足の内側で、ひかりの前へ転がした。ひかりは走りながら思い切り蹴って、ボールはキーパーの子の膝に当たって外へ出た。
「あー!」
ひかりは両手で頭を抱えて、その場でじたばた足踏みをした。
数えるのはやめようと思った。思っているのに、頭が勝手に数えていた。
五点目は、終わり近くだった。
こぼれたボールを、蓮が拾った。俺たちの四人のうち三人が、いっせいに蓮へ寄っていく。俺は寄らなかった。団子の外、右の少し後ろ。三人が蓮へ寄れば、その背中のほうが空く。蓮が誰かに出すなら、そこしかない。
俺はそこにいた。
蓮は俺を見なかった。
一人目の前で、ボールを止めた。止めたように見えた。一人目が足を出した瞬間には、ボールはもうその足の反対側にあった。二人目が体を寄せてくる。蓮の体が一度沈んで、二人目の重さをそのまま横へ流した。三人目は、蓮の足首がくるりと返ったのを見て、自分で尻もちをついた。
ボールは網のない子ども用のゴールの真ん中を通り抜けて、校庭のフェンスの下まで転がっていった。五点目だった。
俺は右の少し後ろに立ったまま、それを見ていた。悔しい、と思うより先に、きれいだと思ってしまった。足首の返し。重心の沈み方。三人のあいだを抜けていく線。同じ二年生の子が土の校庭で、何も考えずにその線を引いた。
蓮は両手を挙げて、自分の陣地に走って戻っていった。途中で一度振り返って、俺にもにかっと笑ってみせた。
自分で入れられるから、蓮は入れた。それだけのことだった。
終わりぎわに陸がもう一点押しこんで、紅白戦は六対〇で終わった。整列のあとで、園田さんが俺たちをしゃがませた。
「五月になったら、新しい一年生が入ってくるからな。今度は、おまえらが先輩だ」
「せんぱい!」
蓮が真っ先に叫んで、何人かが真似をした。陸が「せんぱいって、なにするの」と訊き、園田さんは「どう思う?」と笑って訊き返した。陸は首をかしげたまま、答えを探すように空を見上げていた。
◇
練習が終わって、ひかりと途中まで一緒に帰った。
ひかりの家は、住宅地の真ん中の公園のそばにある。俺の家とは、田んぼの一本道に出る手前の角までが同じ道だった。
角の手前の古い家の庭に、屋根より高い竿が立っていた。上から黒い鯉、赤い鯉、小さな青い鯉が三つ。ひかりは立ち止まって、一匹ずつ指さして数えた。
「いち、に、さん、し……ご」
数え終わると、俺のほうを振り向いた。
「れんくん、ごてん!」
ひかりは片手を広げて、指を五本立ててみせた。
「……うん」
「すごいね。わたし、ぜろてん。さくくんも、ぜろてん」
「うん」
「ふたりで、ぜろてん」
ひかりはなぜかそれがおかしかったらしく、ひとりで笑って、角のところで「じゃあね」と手を振った。結んだ髪を揺らして、公園のほうへ走っていく。
家に帰ると、母が台所で焼きそばを炒めていた。
「おかえり。どうだった?」
「蓮くんが、ごてん」
「あら。さくは?」
「ぜろ」
「そう」
母はそれ以上訊かずに、焼きそばを大きい皿と小さい皿に分けた。食卓の父の席には、箸も置かれていなかった。
「お父さん、今日も現場ですって。土曜なのにね」
この春から、父は休みの土曜日にもよく出かけるようになった。四月から新しい家を建てる仕事が急に減って、そのかわりに古い家の水回りや壁を直しに呼ばれるのだと、母は言っていた。
母は小さい皿のほうに紅しょうがを少しのせて、俺の前に置いた。
夜、布団に入る前に、自由帳を開いた。
三月の誕生日に、母が買ってくれた三冊のうちの一冊目だ。表紙にサッカーボールの写真がついている。一冊目は、まだ何ページも使っていなかった。
新しいページに、鉛筆で書いた。
れん 5 さく 0
書いてから、しばらくその数字を見ていた。
机の引き出しから、パンダの表紙の古い自由帳を出した。一年生の五月から使ってきた、最初の自由帳で、表紙の角はもう丸くすり切れている。最初のページに、けいかく、とひらがなで四行。めくっていくと、寝た時間と起きた時間と塀に蹴った回数が、毎日ずらりと並んでいた。九月の五十メートル走の記録の紙も、まだ挟まっている。十一秒八。
あのころと比べれば、今の俺はずいぶん遠くまで来ていた。止まらなかったボールが止まる。まっすぐ行かなかったパスが、まっすぐ行く。左と右で交互に蹴って、二十回続く。三月には、一点を入れた。
去年の俺には、勝っている。
蓮は四月の生まれだ。この四月で、もう八歳になったはずだった。俺が八歳になるのは、来年の三月だ。同じ二年生で、一年近く違う。背が違う。歩幅が違う。体の重さが違う。ぶつかったときに、どちらがはじかれるかが違う。
誰のせいでもない、生まれた月の差だ。七歳と八歳の一年は大きくても、十七歳と十八歳の一年は、もうそれほどでもない。
待てばいい。体の差は、待てば縮む。だから今は焦らずに、できることを毎日積んでおけばいい。
そう思っていた。
鉛筆を筆箱に戻して、ぱちんと蓋を閉めた。階段の下で玄関の戸が開いて、父の「ただいま」が小さく聞こえた。




