第25話 フェンスの外
目が覚めると、父はもういなかった。
三月三十日、日曜日。六時半。階段を降りると、台所で母がお弁当を詰めていた。食卓の父の席には、空になった湯のみが一つ置いてあるだけだった。
「お父さん、朝早くから現場ですって。日曜なのにね」
母はおにぎりを握りながら言った。
「……うん」
そうか、と思った。昨日の夜、父は新聞を読んでいて、俺と目が合っても何も言わなかった。交流戦、いつだ、と訊いたのは、ただ訊いただけだったのかもしれない。
期待していたわけではなかった。そう思おうとした。
母は今日のお茶当番だった。台所の床に、大きな水筒が二本と紙コップの袋が並んでいる。母が冷蔵庫のいちばん下の段から紺色の水筒を出して、俺に渡した。昨日の夜、自分で麦茶を入れた水筒だ。冷たくて、重かった。
玄関でトレーニングシューズを履いた。紐を結ぶ。きゅっと締めて、ちょうちょ結びにする。昨日の夜に何度も練習したとおりに、指がちゃんと覚えていた。
立ち上がると、つま先の隙間はもうほとんどなかった。
「さく、行くよ。陸くんのお母さん、もう来てるから」
玄関の外に、陸の家の大きな銀色のワゴン車が停まっていた。後ろの座席から陸が手を振っていて、その隣に岳が座っていた。岳は手を振らなかったけれど、俺を見て小さくうなずいた。
◇
市の運動公園のグラウンドは、若宮小の校庭の三倍はありそうだった。
土のグラウンドを白い線で四つに区切ってあって、それぞれに小さなゴールが二つずつある。ゴールには白い網が張ってあった。周りを緑色の高い金網のフェンスが囲んでいる。フェンスの外は遊歩道と芝生の広場で、何本も並んだ桜の木の枝先に、薄桃色の花が咲きはじめていた。
朝の空気は冷たかったが、空は晴れていた。
いくつもの少年団が集まっていた。赤いシャツ、緑のシャツ、青いシャツ、黄色いビブス。グラウンドの周りに保護者たちのテントが立ち並び、どこかのお母さんたちが大きな声で笑っていた。
一日に三試合。八人と八人。
最初の試合は、紺色のシャツの知らない少年団だった。
俺は外に立った。団子の外、右の少し後ろ。
ボールは来なかった。団子はずっと左に寄っていた。紺色のシャツの子たちは、右から来るボールを全部、自分たちの団子の中に引きこんだ。一度だけこぼれてきたのを、足の裏で止めて、首を振って陸に出した。陸のシュートはゴールキーパーの正面だった。
〇対〇で終わった。
二試合目は赤いシャツの少年団だった。七月に、陸に初めてパスを出した試合の相手だ。
ボールは二回来た。一回目は止めて、ひかりに出した。ひかりは相手の二年生に体ごとぶつかられて、ボールを取られた。二回目は、止めた瞬間に後ろから足を出されて奪われた。
蓮が一点を取った。赤いシャツの大きな二年生に、二点を取られた。一対二で負けた。
昼休みに、テントの下で母のおにぎりを食べた。母は紙コップに麦茶を注ぎながら、ときどきこちらを見ていた。俺は紺色の水筒の麦茶を少しずつ飲んだ。
フェンスの外を何度か見た。遊歩道を、犬を連れた人が歩いていた。ジョギングをしている人もいた。芝生の広場で、家族連れがお弁当を広げていた。
作業着の色はなかった。見るのを、やめた。
三試合目は二時からで、相手は緑のシャツの少年団だった。
去年の五月、俺が初めて出た練習試合の相手だ。団子の外で足の下をボールに抜かれ、パスを取られ、監督に「立ってるだけなら、いらん」と言われた試合。緑のシャツの子たちも、一年分大きくなっていた。
監督が俺たちを前に並べた。
「最後だ。ボールに行け。負けるな」
いつもの言葉だった。それから、監督の目が俺の上で一瞬だけ止まって、すぐに次の子へ移っていった。
お前は、そこにいろ。二月に模造紙の前で聞いた声を、思い出した。
笛が鳴った。
団子ができた。緑と黄色が一つのかたまりになる。土ぼこりが、春の日差しの中に白く舞い上がった。
俺は外に立った。右の、少し後ろ。団子から七歩。団子が動けば、七歩のまま、俺も動いた。
一年前の四月、昼休みの校庭で空振りをした場所と、同じ場所。白線はない。けれど立ち位置は同じだった。団子との距離も、団子の向きも、ゴールが左の前にあることも。
岳は団子の中にいた。
キックオフの前に、岳が俺のほうを見た。去年の六月から、いつも俺の左隣に半歩下がって立っていた岳だった。
「……ぼく、あっち、いく」
岳は、団子ができるはずの真ん中のほうをあごで示して、俺の返事を待たずに走っていった。今日は隣に来なかった。
前半は〇対〇だった。後半も、ずっと〇対〇だった。
ボールは三回、俺のところに来た。三回とも止めて、首を振って、出した。三回とも点にはならなかった。緑のシャツの子たちは、去年よりずっと上手くなっていた。去年の白いはちまきの子が今年もいた。その子は、もうはちまきをしていなかった。代わりに、去年は聞かなかった大きな声で、味方を前へ前へと追い立てていた。
グラウンドの端で、園田さんが腕時計を見た。
「あと、二分!」
団子が緑のゴールの前で揺れていた。俺はまだ団子の外にいた。七歩。
団子の端で、岳がボールを追っていた。
相手はあの白いはちまきの子だった。去年の五月、俺の弱いパスを奪って、俺の頭の上を越えるボールを蹴った子だ。今も二年生で、岳より頭一つ大きかった。その子の肩が岳の肩にぶつかった。岳の体がよろけた。
去年の岳なら、ここで止まっていた。ランニングの二周目で座りこんだ岳。もういい、という顔をした岳。
岳は止まらなかった。
よろけた足を踏みとどまらせて、もう一度足を出した。二人の足がボールの上でぶつかった。
ボールが岳の足に残った。
競り勝った。
岳が顔を上げた。団子の外を見た。右の、少し後ろを。
俺を見た。
岳の右足がボールを蹴った。つま先に近いところで。不格好に。
ボールが浮いた。
団子の端から、斜め後ろへ。人の頭より少し低いところを、ぐらつきながら飛んでくる。右の、後ろ。こっちだ。
胃のあたりが、すっと軽くなった。
知っているボールだった。
ボールは俺の二歩手前で一度はねた。勢いを落としながら、右へ転がる。俺の体の前を、左から右へ横切っていく。
ゴールは左の前。
首は、振らなかった。
誰かを探そうとは思わなかった。蹴る、と体のほうが先に決めていた。
左足をボールの横に置いた。
こぶし一つぶん。
一年前は、ここがボール一個ぶん遠かった。左足は考えるより先に、ボールのすぐ横に下りていた。左の足首は、ぐらつかなかった。十二月の霜の朝に、何度もぐらついた足首だった。
膝が曲がった。突っぱらなかった。
右のつま先を外へ開いた。
開いたまま、閉じなかった。
足首を固めた。
右足の内側、いちばん平らなところにボールが来た。
当たった。
ぱん、と乾いた音がした。
ボールの重さが、足首から膝へ、腰へ、まっすぐに伝わってきた。九月の昼休みに知った感触だった。けれど、もっとまっすぐで、もっと確かだった。
ボールが飛んだ。
低く。地面をすべるように。左の前へ。ゴールの左の隅へ。
緑のシャツのゴールキーパーが跳んだ。手を伸ばした。
ボールは、その指先のさらに向こうを抜けていった。
白い網が揺れた。
ボールは網の奥をふわりと膨らませて、ゴールの中の土の上にころりと落ちた。
入った。
一瞬、何も聞こえなかった。団子の叫び声も、保護者たちの声も、園田さんの声も、全部が遠くなった。俺は右足を振り抜いた形のまま、片足で立っていた。一年前と同じ形だった。
足もとを見た。溝はなかった。トレーニングシューズの突起が土をしっかりつかんで、きれいな足跡が二つ並んでいた。ゴールの中を見ると、白い網の向こうにボールが転がっていた。
四十年。一度目の人生で、何千試合も観た。何万本ものゴールを画面の向こうで観た。巻き戻して、止めて、線を引いて、説明した。自分で入れたことは、一度もなかった。
今、入った。
熱いものが腹の底からこみ上げてきた。喉を突き上げ、目の奥を焼いて、勝手に声になって口から出ていった。
「——入った」
小さな声だった。自分の声とは思えないくらい、かすれていた。
「入った……!」
二度目は、もっと大きな声だった。
うれしかった。どうしようもなく、うれしかった。体じゅうがうれしかった。右足の内側がじんじんして、膝ががくがく震えた。目の前がにじんで、ゴールの白い網がぼやけていた。
やっておけばよかった、と四十年思っていた。
やった。やっと、やった。
音が戻ってきた。わあっ、という声が、いっぺんに押し寄せてくる。
振り向くと、岳が走ってきていた。団子の端から、まっすぐに俺のほうへ。いつもどこか重たそうに走っていた岳が、ばたばたと手足を振り回して、全力で走ってくる。顔が真っ赤で、口が大きく開いていた。
「みかみくん!」
岳が俺の名前を叫ぶのを、初めて聞いた。
岳は俺の目の前で止まりきれずに、そのままぶつかってきた。俺は受け止めきれずに後ろによろけた。岳の腕が俺の首に回った。
「はいった! みかみくん、はいった!」
岳の後ろから、蓮が走ってきた。
「さく! いまの、なに!」
蓮は岳ごと俺に飛びついてきて、三人で土の上に倒れた。蓮が俺の頭をぐしゃぐしゃにかき回した。
「さく、じぶんで、けった! いまの、なんだよ、もう!」
ひかりが走ってきた。結んだ髪がほどけかけている。ひかりは倒れている三人の上に、えいっと乗っかってきた。
「さくくん、ほんとに、きたね」
陸が最後に走ってきて、長い腕で全員の上から覆いかぶさった。
「ずるい! さくくん、ぼくに、ちょうだいって、いったのに!」
重かった。
四人分の重さが俺の上に乗っていた。土の匂いと、汗の匂いがした。誰かの膝が脇腹に当たって痛かった。誰かが笑っていた。全員が笑っていた。
俺も笑っていた。泣きながら、笑っていた。
「朔くーん!」
グラウンドの端から園田さんの声がした。両手を口の横に当てて、叫んでいた。
「ナイスゴール!」
四人の腕のあいだから、グラウンドの端が見えた。大河原監督が立っていた。
腕を組んで、首から笛を下げた、いつもの立ち方で。こちらを見ていた。
監督がうなずいた。一度だけ、誰にも分からないくらい小さく。
監督はすぐに腕時計に目を落とした。
◇
みんなの腕の下から、どうにか顔を出した。息が苦しかった。顔じゅうが土と涙と汗でぐしゃぐしゃだった。蓮がまだ何か叫んでいた。
岳はまだ俺の首に腕を回していた。その岳が、俺の耳もとで小さく言った。
「……みかみくん、そこにいると、おもった」
息を切らした、かすれた声だった。顔を見ると、岳はもう俺を見ずに、照れくさそうに土の上の自分の靴を見ていた。左のつま先の穴は、新しい靴に替わってもうなかった。
去年の六月、岳は団子の外の俺の隣に来た。ここ、いい? と言って。それから毎週、俺の隣に立って団子を見ていた。ボールがどこからこぼれてくるのか。俺がどこに立つのか。岳は、ずっと見ていたのだ。
顔を上げると、グラウンドの向こうに緑色の高い金網のフェンスがあった。
その外に人が立っていた。遊歩道の桜の木の下、金網のすぐ外側に灰色の作業着が見えた。膝のところが白っぽく擦れている。
父だった。
フェンスの網に指をかけて立っていた。いつからそこにいたのか、分からなかった。昼休みにフェンスの外を見たときには、いなかった。三試合目が始まったときにも、たぶんいなかった。いや、いたのかもしれない。俺が見るのをやめてから。
グラウンドの反対側のテントの下で、母がこちらを見て手を叩いていた。泣いているように見えた。母は、フェンスの外の父には気づいていなかった。
父は誰にも言わずに来ていたのだ。朝から現場だ、と言って。日曜なのに、と母に言わせて。交流戦、いつだ、と訊いたきり、何も付け足さずに。
父は手を振らなかった。声も上げなかった。七月の朝のように跳び上がりもしなかった。
目が合った。グラウンドの端から端まで、五十歩はあったかもしれない。それでも、父が俺を見ているのが分かった。俺だけを見ているのが。
俺も手を振らなかった。振れば、母が気づく。みんなが気づく。知られたら、それはもう、父だけのものではなくなってしまう。耳の奥で、しゅっ、しゅっ、と夜中の空気入れの音がした気がした。
だから、見ていた。岳の腕の下から、蓮の肘の横から、ひかりの髪のあいだから。泥だらけの顔で、涙のにじんだ目で、フェンスの外の父をただ見ていた。
金網にかけた父の指が、動いた気がした。親指が網を軽く押した。
一年前の四月、入学式の帰り道で、俺は校庭のすみの白い枠を振り返った。網のない、錆の浮いた、ただの枠。一度目の四十年、俺はずっとあの枠の外にいた。
今日、俺は枠の中にいて、フェンスの外に父がいた。
審判の笛が鳴った。試合がもう一度始まるのだ。みんなが俺の上からばらばらと離れていき、蓮が手を引っ張って立たせてくれた。
立ち上がって、もう一度フェンスのほうを見た。父はまだそこにいた。
父は、黙って、見ていた。




