第23話 メンバー表
枕もとに、何かが置いてあった。
十二月二十五日の朝だった。まだ薄暗い部屋の中で、赤と緑の包装紙で包んだ箱が枕の横にちょこんと座っていた。リボンが少し斜めに結んであった。
布団の中から、しばらくそれを見ていた。何も頼んでいなかった。とくに、ない、と母に言った。それなのに、箱はそこにあった。
起き上がって、箱を膝の上に乗せた。包装紙を端からそっとはがす。テープを爪で一つずつ、破らないように。四十歳の頭が、そういうはがし方をさせた。六歳の子どもなら、たぶんびりびりに破くのだろう。
ふたを開けた。靴だった。
白い小さな運動靴に見えた。けれど、靴底に細かい突起がびっしりと並んでいる。土の上で滑らないための突起だ。サイドに青い線が二本。かかとには少し厚いクッションが入っていた。
子ども用のトレーニングシューズだった。サッカーをする子どもが、土のグラウンドで履く靴だ。
手に取ると、軽かった。新しい布とゴムの匂いがした。靴底を裏返して、突起の一つを親指で押してみた。
押してから、気がついた。
五月のスポーツ用品店。三号球を選んだあと、レジへ向かう途中で、父が子ども用の靴の棚の前で足を止めた。小さなトレーニングシューズを一つ手に取り、裏返して靴底を親指で押した。それから、何も言わずに棚に戻した。
俺はあのとき、ボールを抱えたまま、その親指を見ていた。
包装紙を四つに畳んで、箱と一緒に抱えて階段を降りた。今日は二学期の終業式だった。
「あら、おはよう。サンタさん、来た?」
台所の母が振り向いて、俺の腕の中の箱を見て笑った。それから、箱の上できっちり四つに畳まれた包装紙に目を留めた。テープの跡まで内側に折りこんである。
母はその包装紙を少しのあいだ見ていた。それから角を指でそろえて、顔を上げた。
「……履いてみた?」
「まだ」
「履いてごらん」
居間の床に座って、トレーニングシューズを履いた。紐を結んで、きゅっと締めて、立ち上がる。
少し大きかった。つま先に指一本ぶんくらいの隙間がある。歩くと、かかとが浮いた。
「ちょっと、大きい」
「すぐ大きくなるから。春には、ちょうどよくなるわよ」
母はそう言って、フライパンの目玉焼きをお皿に移した。
父はもう食卓についていて、作業着で新聞を広げていた。俺がトレーニングシューズを履いたまま食卓の横に立っても、新聞から目を上げなかった。
母が父の背中を見た。それから俺を見て、黙って笑った。
「……おとうさん」
「ん」
「……これ」
父は新聞の上から、ちらりと俺の足もとを見た。白い、大きすぎるトレーニングシューズ。
「サンタだろ」
それだけ言って、父はまた新聞に目を戻した。
ありがとう、がまた喉で止まった。五月に三号球を受け取ったときも、言えなかった。
新聞を持つ父の手を見た。右手の親指が、新聞の端を軽く押さえていた。
◇
一月の体育は縄跳びで、昼休みは鬼ごっこだった。
前跳びは最初、二十回しか続かなかった。縄を回す手と跳ぶ足が合わず、腕ごと大きく回して、どすん、どすんと跳んでいた。ひかりが二重跳びに挑んでは縄に引っかかり、笑いながら「もう一回」と言うので、俺もつられて跳んだ。一月の終わりには、前跳びが百回続くようになっていた。
冬になって昼休みのサッカーをする子は減り、代わりに校庭じゅうで鬼ごっこをした。追いかけて、逃げて、急に向きを変えて、また走る。前歯のない子——前歯はもう全部生えそろっていた——に急に右へ曲がられて、転びそうになって笑った。何も考えていなかった。
塀の前にも立ちつづけた。朝、学校に行く前に十五分。帰ってきてから、日が暮れるまで三十分。十二月の左の日から、長くはやらないと決めていた。痛くなる前に、やめる。
右足で蹴って、戻ってきたボールを左足の裏で止める。左足で蹴って、戻ってきたボールを右足の裏で止める。右、左、右、左。
十二月には三回目か四回目で、ボールが駐車場の端へ転がっていった。一月の半ばには十回続いた。
そのうち、左で蹴ったボールが右へ逸れたとき、戻ってきたボールに、考える前に右足が届いていた。鬼ごっこで急に曲がられたときの足だった。
左は、毎朝五十回だけにした。痛くなる前にやめた。休んだ次の朝は、前の日より、左の足首がぐらつかなかった。
二月の初めには二十回続いた。自由帳に書いた。
「れんぞく 20かい」
春の自由帳の最初のページを思い出した。けいかく。りょうあし。ボールにさわる、まいにち。はやくねる。すくないにんずう。四つとも、まだ続いていた。
ある朝、塀の前で右と左を交互に蹴っていると、父の車が駐車場から出ていくところだった。白い車は、いつもよりゆっくりと俺の横を通り過ぎた。運転席の父が、窓越しに俺の足もとを見ていた。右、左、右、左。車は止まらずに、角を曲がっていった。
トレーニングシューズは、少しずつ足になじんでいった。
初めて練習に履いていった日、園田さんが俺の足もとを見て、「お、いい靴じゃん」と言った。しゃがんで、靴底の突起を指でなぞる。「これ、土のグラウンドだと、全然違うよ。止まるとき、滑らないから」
本当だった。霜で固くなった朝の土の上でも、突起がちゃんと地面をつかんだ。止まろうとすれば止まれた。向きを変えようとすれば、変えられた。
かかとが浮かなくなったのは、二月の半ばだった。足が大きくなったのだ。
◇
二月の二つ目の日曜日は、紅白戦だった。
三月の終わりの交流戦まで、あと一か月半。十二月に園田さんがその話をしてから、低学年の紅白戦はどこか目つきが違っていた。誰が出られるのか。一年生は何人なのか。そういう話を、子どもたちは練習の前にひそひそとしていた。
その日、大河原監督は高学年のほうへ行かなかった。低学年のコートの端に立って腕を組み、最初から最後まで見ていた。
団子ができた。俺は外に立った。けれど、一つの場所にはもう立っていなかった。団子が右へ寄れば、右の少し後ろへ。左へ寄れば、左の少し後ろへ。ボールを持った味方が顔を上げたとき、すぐに見える場所へ。十月の四対四で覚えた、一秒ごとに変わる「そこ」だった。
団子からボールがこぼれてきた。左足の前に。
左の足の裏で止めた。十二月までは、左ではうまく止まらなかったボールだ。首を振る。右の奥に、蓮が一人で走りこんでいた。右足の内側で、蓮の走る先へ転がした。蓮は走りながら蹴って、外した。「うわっ」と頭を抱えて、それから笑って、自分の位置に戻っていった。
団子の中で、岳がボールを奪い合っていた。
二年生と体をぶつけ合い、一度は自分の足にボールを残した。顔を上げた。俺を探しているのが分かった。けれど蹴ったボールは、俺のずっと手前で別の二年生の足に当たって、また団子の中へ戻っていった。岳は唇をかんで、もう一度団子の中へ入っていった。座りこまなかった。
二度目にボールが来たのは、相手のゴールの近くだった。
止めて前を見た。ゴールまで十歩もない。キーパーの二年生は団子のほうを向いていた。
蹴れば、入るかもしれなかった。
首が先に回っていた。左に陸がいた。俺は陸に出した。陸のシュートはキーパーの足に当たって、外へ出た。
「さくくん」
近くにいたひかりが、走りながら俺を見ていた。
「なんで、けらないの?」
答えられなかった。
六月の泥の校庭で、ひかりは「なんで、さくくんは、いつもそこにいるの」と訊いた。あのときは答えにならない答えを返した。今度は、それすら出てこなかった。外れたら、と思ったのか。もっと空いている誰かがいたからなのか。自分でも分からなかった。
ひかりは俺の答えを待たずに、団子のほうへ走っていった。
三度目は、受ける前に横から来た。
体の大きい二年生だった。ボールを受けようと足を出したところに、その子の肩がまともにぶつかった。体が浮いた。次の瞬間には、固い土の上に横向きに転がっていた。肘と腰が地面にこすれて熱かった。
コートの端で、監督の顔がこちらを向いたのが分かった。
痛かった。目の奥がじんとした。四月の俺なら、このまま座りこんでいたかもしれない。
膝をついて立ち上がった。肘の土を払って、団子の右の少し後ろへ、もう一度走った。さっきまで立っていた場所へ。
団子が崩れて、ボールが転がってきた。右足の裏で止めて、首を振って、蓮に出した。
蓮が決めた。
「よっしゃあ!」
蓮の声が校庭に響いた。黄色いビブスの子たちが蓮に駆け寄っていく。俺は膝についた土を、もう一度払った。
顔を上げると、コートの端で、監督の組んでいた腕がほどけていた。
ほどけた腕は、すぐにまた組まれた。いつのまにか監督の横に園田さんが立っていて、俺のほうをあごで示しながら何か言っていた。声はここまで聞こえなかった。監督は園田さんのほうを見ずに、短く何か答えた。
◇
次の日曜日、校庭のすみの朝礼台に、白い模造紙が一枚貼り出されていた。
黒いマジックで大きく「低学年交流戦 メンバー」と書いてある。その下に二年生の名前が並び、その下に一年生の名前が並んでいた。
子どもたちが模造紙の前に群がっていた。自分の名前を見つけた子が、わあっと声を上げる。見つけられなかった子が、黙って離れていく。
俺は少し離れたところから模造紙を見た。
一年生の欄。こまい れん。やじま りく。あずま ひかり。きたむら がく。
その下に、みかみ さく。
ひらがなで、黒いマジックで、ほかの名前と同じ大きさで書いてあった。
模造紙の前で、ひかりが俺の名前を指さして振り返り、にっと笑った。岳は、自分の名前と俺の名前を交互に見ていた。蓮が「さく、おれと、おなじ!」と叫んだ。
俺は模造紙の前に行けなかった。足が地面に貼りついたように動かず、新しい靴の中で、足の指だけが何度も土をつかみ直していた。
足音が近づいてきた。
振り向くと、大河原監督だった。紺のジャージに、首から銀色の笛。腕は組んでいなかった。監督は俺の横で立ち止まり、模造紙のほうを見たまま、俺のほうは見なかった。
「三上」
「……はい」
五月に「立ってるだけなら、いらん」と言った声だった。その声が今度は何を言うのか、分からなかった。
監督は少しのあいだ黙っていた。それから、模造紙を見たまま言った。
「お前は、そこにいろ」
それだけだった。監督はもう歩きだしていた。紺のジャージの背中が、子どもたちのあいだを抜けて、校庭の真ん中のほうへ遠ざかっていった。
そこにいろ。
団子の外、右の少し後ろ。四月からずっと立ってきた場所。突っ立ってるな、と言われた場所。いらん、と言われた場所。転がされても、走って戻った場所。
新しいトレーニングシューズの先で、霜柱の溶けかけた土をそっと踏んだ。しゃく、と小さな音がした。




