第22話 十二月十六日、午前零時半
階段のいちばん下で、少しだけ迷った。
廊下はしんと冷えていた。裸足の足の裏から、冷たさがすねのほうまで這い上がってくる。すりガラスの向こうで、青白い光がゆっくりと揺れていた。
四月の夜中にも、ここに立った。父が和室の押し入れの前にしゃがんで、古いボールに空気を入れていた夜だ。しゅっ、しゅっ、という音を、俺はこの廊下で聞いていた。父が誰にも見せないつもりでしていることを、見てしまったと知られるのが怖くて、声をかけられなかった。あのときは、戸を開けなかった。
居間の戸を、そっと開けた。
部屋の明かりは消えていた。石油ストーブも消えていた。冷えきった部屋の中で、テレビの画面だけが光っていた。
青白い光が天井と壁を塗っては、また色を変える。画面の中は夜の競技場だった。緑の芝の上を、青いユニフォームと白いユニフォームが走っている。音はほとんど聞こえないくらいに絞ってあって、実況の声が、遠くの誰かの話し声のようにかすかに漏れている。
ソファに父がいた。
パジャマの上に綿入れの半纏を着て、肩から毛布をかけている。膝の上で両手を組んで、画面を見ていた。テレビの光が、父の顔を下から青白く照らしていた。
俺は戸口に立ったまま、動けなかった。知っている、と思った。この光景を知っている。
明かりを消した部屋。テレビの光だけ。ソファに一人。画面の中の夜の競技場。
四十歳の、あの夜の俺だった。
二〇三〇年の夏の夜、俺は明かりを消した部屋で、一人でワールドカップの中継を観ていた。テレビの光が天井と壁を塗っては、色を変えていた。窓の外で、知らない誰かが声を上げていた。テーブルの上で、缶ビールがぬるくなっていた。
今ソファにいるのは、三十四歳の父だった。同じ形で、同じ光の中に、一人で。
父はずっと、こうしていたのだろうか。一度目の人生で、俺が二階で眠っているあいだに。夜中の遠い国の試合を、明かりを消して、音を絞って。誰にも、一緒に観ようと言わずに。
床がきしんで、父が振り向いた。
「……起きたのか」
低い、少し驚いた声だった。
「……うん」
早く寝ろ、と言われると思った。明日は学校だろう、と。
父は何も言わずに画面のほうへ顔を戻し、それから、肩の毛布の端を持ち上げた。自分の右側に、子ども一人分の隙間ができた。
俺は父の右隣に座った。父が持ち上げていた端を下ろすと、毛布が俺の肩にかかった。毛布の中は、父の体温で温かかった。
◇
画面の隅に点数が出ていた。〇対一。白いユニフォームが勝っていた。
前半のうちに一点を取られたらしい。俺が来る前に、父はその一点を、この暗い部屋で一人で観たのだ。
試合は日本が攻めていた。青いユニフォームが、相手のゴールの前に何度もボールを運ぶ。けれど最後のところで、白いユニフォームの足が伸びてくる。シュートは枠を外れるか、相手のゴールキーパーの手に収まった。
父は黙って観ていた。七月の朝のように身を乗り出したり、立ち上がったりはしない。声も上げなかった。ただ、膝の上で組んだ手に、ときどき力が入った。日本のシュートが外れるたびに、父の指が自分の手の甲をぎゅっと押した。
知っている。この試合は日本が負ける。〇対二。二点目がいつ入るのかも、たぶん覚えていた。後半が始まって、まもなくだ。
俺は黙っていた。七月の朝も、知っていて黙ったまま父の隣で観た。あのときは少しも苦しくなかった。父が跳ね上がって叫ぶのを、隣で見ていられた。
今夜は、少しだけ苦しかった。父は負ける試合を観ている。勝つと信じて、シュートが外れるたびに手の甲を押している。この試合がどう終わるのか、隣の六歳の息子が知っていることを、父は知らない。
前半が終わった。父は立ち上がらず、俺も毛布の中から動かなかった。後半が始まった。
二点目が入った。
白いユニフォームの選手が、ゴールの前でボールを押しこんだ。画面の中で、白いユニフォームたちが抱き合い、青いユニフォームの選手たちが芝の上に膝をついていた。
父が長く息を吐いて、組んでいた手をほどいた。毛布の中で、父の肩が下がったのが分かった。
残りの三十分あまりは長かった。日本は最後まで攻めて、一点も返せなかった。
試合終了の笛が、かすかに聞こえた。画面の中で、青いユニフォームたちが一人、また一人と芝にしゃがみこんでいった。
「……負けたな」
画面を見たまま、父が言った。
「うん」
それきり、しばらく二人とも黙っていた。実況の声が負けた選手たちのことを何か話していたが、音が小さすぎて聞き取れなかった。
父がリモコンに手を伸ばした。テレビを消すのだと思った。けれど父の手は、リモコンを持ったまま止まった。芝にしゃがみこんだ選手たちを、父はまだ見ていた。
「朔は」
名前を呼ばれた。父が俺の名前を呼ぶことは、ほとんどなかった。おい、とか、お前、とか。そもそも話しかけられること自体が少なかった。四月から何度呼ばれたか、数えられるくらいだ。
父は画面を見たままだった。
「サッカー、好きか」
短い問いだった。好きか。答えようとして、口を開いた。
好きだよ、と言えばいい。六歳の子どもならそう言うだろう。父がいちばん聞きたい答えも、たぶんそれだ。少年団に入って、毎日塀に向かって蹴って、夜中に起きてきて隣で試合を観ている息子だ。好きに決まっている、と父は思っているかもしれない。
好き、なのだろうか。
一度目の人生で、俺はサッカーが好きだった。好きだと思っていた。毎週試合を観て、分析して、本を何十冊も読んだ。人に一時間でも話せた。
けれど、それは観ることが好きだったのだ。分かることが好きだったのだ。
二度目のこの八か月で、俺は初めて自分でボールを蹴った。空振りをした。足の下を抜かれた。監督に、いらん、と言われた。膝をすりむいた。岳を運べなかった。蓮に三歩届かなかった。左足は今も、まっすぐ行かない。
それから、父と駐車場でボールを転がし合った。陸に一本、パスを出した。夏の公園で声を出して笑った。蓮と、見ないでボールをつないだ。
それが好きということなのか、分からなかった。
十月に、園田さんに訊かれた。上手くなるから好きになるのか、好きだから上手くなるのか。あのときも答えられなかった。今も、分からない。
ただ、一つだけ分かっていることがあった。
「……わかんない」
父の横顔が動いた気がした。
「でも、やりたい」
毛布の中で自分の手を握って、もう一度言った。
「やりたい」
好きかどうかは分からない。けれど、やりたい。明日の朝も塀の前に立ちたい。左足でまっすぐ蹴れるようになりたい。団子の外で、来たボールを止めて誰かに出したい。いつか自分で、あの枠の中にボールを入れたい。
一度目の四十年で、俺は一度もそう思わなかった。やっておけばよかった、と思うだけだった。思ったときには、もう遅かった。
今は、遅くない。
父はしばらく黙っていた。画面の中で中継が終わりかけ、競技場の外の映像に切り替わる。遠い国の夜の空。
「……そうか」
父が言ったのは、それだけだった。四月の夕食で少年団のことを訊いたときと、同じ言葉だった。
けれど、同じ声ではなかった。
四月の「そうか」は、何かを飲みこむような硬い声だった。今夜の「そうか」は、もっと低くて柔らかい。何かをそっと置くような声だった。
父がリモコンのボタンを押した。画面が消えて、居間は真っ暗になった。
◇
暗闇の中で、父はすぐには立ち上がらなかった。
俺も動かなかった。毛布の中は温かくて、父の肩が俺の肩に触れていた。
目が暗さに慣れてくると、カーテンの隙間から入る街灯の光で、父の横顔がぼんやりと見えてきた。
鼻の線。あごの線。少し伸びかけたひげ。三十四歳の父の横顔。
その横顔に、別の横顔が重なった。
二〇一八年の春の初めだった。
病院の白い部屋。窓際のベッド。父は枕を背中に当てて、上半身を斜めに起こしていた。頬がこけて、首の筋が浮いていた。肌の色は乾いた土のようだった。点滴の管が、細くなった腕にテープで留めてあった。
ベッドの横の小さなテレビで、Jリーグの開幕戦をやっていた。
俺はパイプ椅子に座って、携帯電話で仕事のメールを返していた。父がテレビを観ているのは知っていた。一緒に観ようとは思わなかった。俺はサッカーに興味がなかった。
「……今年、ワールドカップだな」
テレビを見たまま、父が言った。
「六月、ロシアか。……観られるかな」
俺は携帯電話から顔を上げなかった。
「観られるよ」
そう言った。何も考えずに、父の顔も見ずに。
観られなかった。父は六月が来る前にいなくなった。
ロストフの夜、俺は一人の部屋で、父のファイルを膝に乗せてテレビの前に座っていた。日本が二点を取り、三点を返されて、最後の一点が入ったとき、俺は立ち上がることもできなかった。
観られるよ、と言った自分の声を、何度も思い出した。
言えなかったことが、いくつもあった。一緒に観よう、と言えばよかった。あのベッドの横で携帯電話を置いて、父と並んでJリーグの開幕戦を観ればよかった。下手でもいいから、サッカーの話をすればよかった。父が何を見てきたのか、訊けばよかった。二〇〇二年の切符のことを謝ればよかった。
ありがとう、と言えばよかった。
何一つ言えないまま、父はいなくなった。
暗闇の中で、俺は父の横顔を見ていた。今、この人の顔は乾いた土の色をしていない。頬もこけていない。毛布の中で触れている肩は、温かくてしっかりしている。
この人は、まだ何も知らない。二十二年後に、自分の体の中で何が起きるのか。それが見つかったときには、もう遅いということも。
俺だけが、知っている。
毛布の中で、両手の指を一本ずつ折った。一九九七、一九九八、一九九九。両手が握りこぶしになる。開いて、もう一度折る。二〇一六で、また握りこぶしになる。
二十二年。両手を二回使っても、まだ足りない。
四月には、その長さが怖かった。気がついたら四十になっていた。気がついたら、父はいなかった。二十二年も同じように過ぎてしまうのではないかと。今は、少し違った。
二十二年は長い。長いから、間に合う。どうすればいいのかは、まだ分からないけれど。六歳の子どもが何を言えば、大人が病院へ行くのか。そもそも、そんなことを言えるのか。言ったところで、信じてもらえるのか。分からないことだらけだった。それでも、二十二年ある。観るだけでは終わらせない。
今度は、間に合わせる。
「……寝るか」
毛布を俺の肩に残したまま、父が立ち上がった。暗闇の中で、父の手が俺の頭の上に、ほんの一瞬だけ乗った。重くて、大きくて、少しだけ冷たかった。すぐに離れた。
父は居間を出ていった。廊下を歩く足音が、階段を上っていく。
俺は父の毛布にくるまったまま、暗い居間のソファに座っていた。
握りこぶしにした両手を、毛布の中でゆっくりとほどいた。




