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第21話 左の日

 足もとで、霜柱が崩れる音がした。


 しゃく、しゃく、と運動靴の底の下で細い氷の柱が折れていく。駐車場のアスファルトの切れ目から先、土のところだ。夜のあいだに地面から伸びた霜柱が、朝の光を受けて白く光っていた。


 十二月十五日、日曜日の朝七時だった。


 息が白かった。吐くたびに、目の前に小さな雲ができて、すぐに消えていく。空は晴れて、雲一つなかった。


 塀の前に三号球を置いた。


 ボールは冷たかった。夜のあいだ、玄関の土間に置いていたせいで、表面の革が硬く冷えている。持ち上げると、ひやりとした感触が指先に貼りついた。


 右足で蹴った。


 ぽん、と乾いた音がした。夏の湿った音とは違う、冬の音だった。ボールは塀の腰の高さにある薄茶色の大きなしみに当たって、まっすぐ戻ってきた。


 右足の裏で止めた。


 置き直して、右足で蹴る。戻ってくる。止める。蹴る。止める。


 右は、もうほとんど外れなかった。


 五月に父と三号球を買ってから七か月。雨の日と練習の日のほかは、ほとんど毎日この塀の前に立った。右足で蹴った回数は、たぶん何千回にもなる。自由帳には毎日、蹴った回数を書いていた。百、百五十、二百。秋には一日に三百を超える日もあった。


 足が覚えた。左足をボールの横に置く。こぶし一つぶん。膝を曲げる。右のつま先を外へ開く。足首を固める。考えなくても、体がその形になる。


 左足に替えた。


 ボールを置く。今度は右足をボールの横に、左のつま先を外へ。蹴った。


 ボールは塀の右のほうへ逸れた。


 しみから一歩ぶん右に当たって斜めに跳ね返り、駐車場の端のほうへ転がっていく。俺は追いかけて拾い、戻ってきた。


 もう一度。今度は左へ逸れた。もう一度。また右。


 まっすぐ行かなかった。


 左足で蹴ると、何かが足りなかった。足首がぐらつく。膝が内側に入る。右足なら体が勝手になる形に、左足ではならない。頭では、左右を入れ替えるだけだと分かっている。それだけのことが、体にはできなかった。


 五月に自由帳に書いた。りょうあし。


 右足と左足を同じだけ使う。利き足ができてしまう前に、両方の足にボールを覚えさせる。そう書いたのは俺だった。


 それなのに、右ばかり蹴ってきた。


 分かっていた。左で蹴るとまっすぐ行かない。まっすぐ行かないと、ボールを追いかけなければならない。追いかけると、蹴る回数が減る。右なら、戻ってきたボールを止めて、すぐにまた蹴れる。気持ちがいい。だから右ばかり蹴った。左はいつも、最後に少しだけだった。


 今朝は左の日にしようと決めていた。


 先週の練習の終わりに、園田さんがみんなを集めて言ったのだ。三月の終わりに、低学年の交流戦がある。市の運動公園にいくつもの少年団が集まって、一年生も何人か出られる。


 誰が出るのかは二月に決めるという。一年生のあいだで、その話を知らない子はいなかった。


 左で二百回。右はなし。


 蹴った。逸れた。拾った。蹴った。逸れた。拾った。


 指先がかじかんできた。手袋をしてくればよかった、と思った。ボールを拾うたびに、冷たい革が指に貼りつく。指の先が赤くなっていた。息を吹きかけても、すぐに冷える。


 五十回を過ぎたあたりで、ボールがしみの真ん中にまっすぐ当たって、まっすぐ戻ってきた。俺はそれを左の足の裏で止めようとして、止めそこなった。ボールは俺の後ろへ転がっていった。


 拾って戻り、また蹴った。逸れた。


   ◇


 八十回を過ぎたころ、足が言うことを聞かなくなってきた。


 左の足首がじんじんと痛んだ。寒さで硬くなった体で、慣れない蹴り方を何十回も繰り返したせいだろう。蹴るたびに、足首の外側に鈍い痛みが走る。十回に二回はまっすぐ行っていたボールが、十回に一回になった。


 もっと、やれ。


 頭のどこかで声がした。四十歳の頭の声だった。まだ八十回だ。二百回と決めたのだろう。左ができないのは、右ばかりやってきた自分のせいだ。交流戦に出たいなら、その分を取り返さなければいけない。蓮は両足で蹴れる。陸だって、左で蹴れる。痛いくらいで、やめてどうする。もっと、やれ。


 一度目の人生で、俺はそういう大人だった。決めたことはやり通す。痛くても、疲れていても。仕事で何度も夜を明かした。そうやって、できなかったことをできるようにしてきた。少なくとも、そう思っていた。


 蹴った。逸れた。足首がずきりと痛んだ。もう一度蹴ろうとした。


 やめろ。


 別の声がした。それも四十歳の頭の声だったが、別のところから聞こえてきた。何百本も読んだ、子どもの体と練習の話のところからだ。


 小さい子の練習は、短く。疲れて崩れた形で何百回繰り返しても、崩れた形を覚えるだけだ。痛みが出たら、やめる。


 俺はボールを足もとに置いたまま、動かなかった。


 もっとやれと、やめろ。二つの声が頭の中でぶつかっていた。どちらも俺の声で、どちらも俺が正しいと思っていることだった。


 左の足首は、じんじんと痛んでいた。足もとのボールを見た。冷たくて硬い三号球。白に青の模様は、もうほとんど見えない。七か月分の土の色がしみこんでいる。


 やめよう、と決めた。


 決めた瞬間、胸の中にいやな感じが広がった。逃げた、という感じだった。二百回と決めたのに、八十回でやめる。左ができないまま、やめる。一度目の俺なら、絶対にやめなかった。


 それでも、やめた。


 やめるのも練習のうちだ。理屈ではそう分かっていた。分かっていても、やめるのは、続けるよりずっと難しかった。


 ボールを拾い上げた。指先は冷たさで、もうほとんど感覚がなかった。


 玄関の戸が開いて、母が顔を出した。


「さく、もう、おしまい?」


「……うん」


「寒かったでしょ。入りなさい。ココア、作ったから」


 居間は石油ストーブで暖められていた。ストーブの上で、やかんがしゅんしゅんと湯気を立てている。テーブルにマグカップが一つ置いてあって、茶色い、甘い匂いがした。


 両手でマグカップを包んだ。熱かった。かじかんだ指に、熱さがじわじわとしみこんでくる。指の先が痛いくらいにじんじんした。一口飲んだ。甘くて熱いものが、喉から胸まで落ちていった。


 母が向かいに座った。自分のカップのお茶を、ふうふう吹いている。


「今日は、早かったのね。いつもは、もっと長くやってるのに」


「……左、やってたから」


「ひだり?」


「左の足。まっすぐ、いかないから」


「ふうん」


 母はそれ以上訊かなかった。お茶を一口飲んで、窓の外を見た。霜柱の光る駐車場と、塀の薄茶色の大きなしみ。


「ねえ、さく」


「うん」


「クリスマス、なにがほしい?」


 マグカップを持つ手が止まった。


 なにが、ほしい。


 答えが出てこなかった。ほしいものなら、いくらでもあった。左足でまっすぐ蹴れる足。蓮に届く足の長さ。父が、二〇一八年より先も生きていること。どれも、クリスマスに母に頼めるものではなかった。


 それならと、六歳の子どもが頼むようなものを考えてみた。ゲーム。小さな車の模型の、新しいモーター。クラスの子たちが休み時間に話しているもの。卵の形をした小さなゲーム機。


 どれも、ほしくなかった。ほしくないものをほしいと言うのは嘘で、嘘をついて母に何かを買わせるのは、いやだった。


 それに、一度目の人生で、俺は母に何かをねだったことがあっただろうか。小さいころはあったのかもしれないが、覚えていない。大人になってからは一度もなかった。何かをほしいと誰かに頼むやり方を、俺はもう忘れてしまっていた。


「……とくに、ない」


 母は黙った。それから、笑った。口は笑っているのに、目の端だけが下がっていた。


「そっか。とくに、ないか」


 母は俺の頭に手を伸ばして、髪をくしゃっと撫でた。それから立ち上がって、台所に戻っていった。


「じゃあ、サンタさんに、おまかせしようかな」


 台所から母の声がした。明るい声だった。


 俺はマグカップを両手で包んだまま、母の背中を見ていた。少しだけ寂しそうな背中だった。


 ココアはまだ温かかった。けれど、さっきほど甘くは感じなかった。


   ◇


 その日の練習は、左の足首をかばいながらどうにか終えた。


 園田さんの四対四で、俺は右足でしか蹴らなかった。左の足首は、夕方にはもう痛まなくなっていた。寝る前に足首を回してみると、かすかにつっぱる感じが残っているだけだった。


 夕食のあと、父が新聞のテレビ欄を広げていた。


 いちばん下の深夜の欄に、赤いボールペンで小さな丸がつけてあった。父のつけた、角ばった丸だ。俺は横からのぞいた。午前零時三十分。アジアカップ、準々決勝、日本対クウェート。


 知っていた。


 中東で開かれているアジアの大会で、四年前に日本が初めて優勝した大会の次の回だ。日本はこの準々決勝で負ける。〇対二。一度目の人生で、古い試合の記録を調べていたときに見た覚えがあった。


「お父さん、また夜中に起きるつもりなのよ。明日、仕事なのに」


 母があきれたように言った。父は何も答えずに新聞を畳んだ。


 俺は自分の部屋に上がった。


 机の上の目覚まし時計を手に取った。入学祝いにもらった、ベルのついた丸い時計だ。いつもは七時に合わせてある。裏のつまみを回して、針を一時に合わせた。試合が始まるのは零時半。一時に起きれば、前半の終わりから父と並んで観られる。それくらいなら、六歳の体も許してくれるだろう。それから、ベルの音がくぐもるように時計を枕の下に押しこんだ。


 九時に寝て七時に起きる。五月から一日も崩していない約束を、今夜だけ自分で破ることにした。


 父は一人で観るつもりなのだ。


 明日の朝、もう一度左をやろう。今度は五十回だけ。痛くなる前に、やめる。


 そう決めて、目を閉じた。


 枕の下で、ベルがくぐもった音を立てた。


 慌ててつまみを押して音を止めた。部屋の中は真っ暗だった。カーテンの隙間から、街灯の光が細く差しこんでいる。夜の真ん中の冷たい空気だった。


 布団の中で耳を澄ました。家の中はしんと静まりかえっていた。冷蔵庫の低い音も、外を走る車の音も聞こえない。


 いや、何かが聞こえた。


 ずっと遠くで、大勢の人の声のようなざわざわした音がする。その上に、低く抑えた男の声が重なっている。テレビの音だった。ぎりぎりまで音を小さくしたテレビ。


 布団から出た。廊下は凍えるほど寒かった。裸足の足の裏に、床の冷たさが突き刺さる。俺は階段の上から、下をのぞいた。


 階段の下の暗がりが、青く明るくなったり暗くなったりしていた。テレビの光だった。


 明かりを消した居間で、父が一人でテレビを観ている。


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