第3章 3客のティーカップ
第3章 3客のティーカップ
案内されたのは古びた洋館だった。
「この家は妻の形見のようなものです」
老人はそれ以上語らなかった。その代わり、いつの間にかたどたどしい口調は消えていた。
応接間に通されると、テーブルの上にはティーカップとティーカップが3客、それに、スコーンとジャムが用意されていた。
「……ホームズ………」
ワトソンが口を開いた。
「老人は一人暮らしのはずでは?」
「それに、我々の訪問は先ほど決まったはずだ」
「その通りだ、ワトソン。我々と老人以外の人の気配はない。しかし……」
ホームズは言葉を切り、テーブルの上へと視線を落とした。
「この準備は“待っていた者”のものだ」
彼はゆっくりと一歩近づき、ティーカップの一つに指先を触れた。
「温かい。しかも、つい今しがた注がれた温度だ。蒸気の立ち方から見ても、我々がこの部屋に入る数分前——いや、数十秒前といったところか」
ワトソンが息を呑む。
「そんな馬鹿な……。我々はずっと老人と一緒にいたじゃないか」
「その通りだ」
ホームズは静かに頷いた。
「彼は一度も我々の視界から外れていない。キッチンに立ち寄った様子もなければ、合図を送る仕草もない」
そう言って、スコーンに目をやる。
「焼き上がりの状態も新しい。外側の乾き方が均一で、まだ内部の湿り気が抜けきっていない。保存していたものではない」
ワトソンは思わず振り返る。
廊下には誰もいない。静まり返った家の奥に、人の気配は微塵も感じられなかった。
「……誰かが、我々より先に来ていたのか?」
「可能性としてはある」
ホームズは淡々と言った。
「だが、その場合でも説明がつかない点がある」
「何だ?」
「3客という数だ」
ホームズは指で軽くカップを叩いた。
「主人が客を迎えるなら2客で足りる。予備を用意するにしても、この配置は“最初から三人で飲むことを前提としている”」
ワトソンは黙り込む。
そのとき——
「お口に合うとよいのですが」
背後から、老人の穏やかな声がした。
振り返ると、彼はいつの間にかそこに立っていた。手には何も持っていない。ただ静かに微笑んでいる。
「……今、用意なさったのですか?」
ワトソンの問いに、老人はわずかに首を傾げた。
「いえ。準備は済んでおりましたので」
「済んでいた?」
「ええ。お二人が来られることは、分かっておりましたから」
その言い方には、確信以外の何も含まれていなかった。
ホームズは椅子を引き、ゆっくりと腰を下ろした。
「なるほど」
短くそう言って、カップを手に取る。
「では、いただくとしよう」
ワトソンが慌てて続く。
紅茶の香りはごく自然だった。スコーンも、何の変哲もない味がする。
だが——
ホームズはカップの縁を見つめたまま、ほんのわずかに目を細めた。
「興味深いな」
その声は、いつもより低かった。




