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第2章 霧中の邂逅

第2章 霧中の邂逅


 硫黄の匂いをわずかに含んだ箱根の霧が、公園の輪郭を曖昧にしていた。

 その薄白い中に、一人の老人がベンチに腰掛けている。周囲には人影はなく、まるでそこだけ時間が取り残されたかのようだった。

 ホームズは足を止める。

 老人は、二人の存在に気づいていたらしい。ゆっくりと顔を上げ、こちらを見た。

「シャーロック・ホームズさん、ですね?」

 日本語だった。

 だが、問いかけの意図は明確に伝わる。

 ワトソンがわずかに眉をひそめる前に、老人は軽く頭を下げた。

「失礼しました。初めてお見かけする顔なものですから……おそらく、と思いまして」

 言い直すように、今度はたどたどしい英語へと切り替える。

「I thought… you might be… Sherlock Holmes」

 ホームズは一歩だけ近づいた。

「興味深い。あなたは私を知っているのですか?」

「あなたらしくない問いかけですね。おとなりの御友人が詳しく記録なさっているではありませんか。何故、現代の箱根におられるかは存じませんが」

 老人が静かに微笑んだ。

 ワトソンは、ホームズが老人に一本とられたことに驚いたと同時に、可笑しくも思い、笑いを堪えるのに必死だった。

 ホームズはわずかに肩をすくめ、気を取り直すように老人の全身へと視線を滑らせた。

「なるほど。ではこちらも、少々無粋な“記録”をさせていただきます」

 ホームズは一歩だけ距離を詰めた。

 あなたの年齢にしては背筋が伸びている姿勢は、長年“人前で見られる”ことを意識してきた者の習慣だ。軍人にも見られるが――あなたの場合、靴がそれを否定している」

「靴…ですか?」

「よく磨かれてはいるが、規律的な手入れの痕跡がない。軍隊式ではないということだ」

ホームズは続けた。

「次に手元の本。開いているページは同じだが、指が頻繁に縁をなぞっている。あれは読むためではない。“考えを整理する”癖だ」

「それが職業とどう関係する?」

 ワトソンが口を挟む。

「決定的なのはそこではない。彼の右手の人差し指と中指を見たまえ。わずかに黒ずんでいるだろう」

 ワトソンは目を細めた。

「インクか?」

「その通り。だが単なる筆記ではない。長時間、チョークやペンを扱ってきた者の特徴だ。しかも――」

 ホームズはわずかに笑った。

「指先の使い方が繊細すぎる。職人ではない。言葉や概念を扱う仕事だ」

「つまり作家?」

「いや、彼は“聞き手”を常に意識している。私たちに無意識に視線を送り、何かを測るように観察している。あれは教える者の目だ」

 ワトソンは腕を組んだ。

「なるほど……では学校教師か」

「それに近い。だが彼の服装はやや古風で、肘の擦り切れたジャケットを丁寧に着続けている。収入よりも“知的習慣”を優先してきた人物だ。初等教育よりも、もう少し上の段階――」

 ホームズは結論を口にした。

「あなたは長年、学校か大学で教鞭を執っていた。おそらくは教師、あるいは教授だ」 

 ホームズの視線が、老人の上着の袖口に止まった。

「家事はあまり得意ではないらしい。袖口にわずかな染みがある。洗濯の際に落としきれていない。つまり、長年それを担っていた人物が別にいた」

 老人の表情が、ほんのわずかに揺れる。

「奥方だ。だが、今はここにはいない。……いや、“いない”のではなく、“もういない”」

 短い沈黙が落ちた。

 ワトソンが息を呑む。

 老人は目を伏せ、しかしすぐに穏やかな顔へと戻った。

「……よく分かりますね」

「観察の結果に過ぎません」

 ホームズは淡々と言った。

「一人暮らしだ。部屋は整っているが、どこか均一すぎる。生活に“揺らぎ”がない。二人で暮らしていた痕跡だけが、静かに残っている」

 老人はゆっくりと息を吐いた。

「……なるほど。あなたがホームズさんであることに、疑いの余地はなさそうです」

 その声には、どこか安堵のような響きがあった。

 ホームズはそれに答えず、わずかに目を細める。

「さて——」

 口調がわずかに変わる。

「では本題に入りましょう。あなたはここで何をなさっておられるのですか? そして——」

 霧の奥へと視線を向ける。

「なぜ“迷っていない顔”をしているのに、こんな場所におられるのですか?」

「実は長い間あなたをお待ちしていたのです。とても長い時間……」

「もしお時間があれば、拙宅にお越し願いたいのですが。お茶を飲みながら詳しくお話し致します」

 ホームズは、**長い間…**という言葉に興味をそそられ、老人の招待を受けることにした。 


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