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「そんな……」
途方に暮れるように保は声を漏らした。
自分が絶望的な状況に陥っているのをまざまざと再認識させられたような気分だった。
保は異世界どころか外国にも行ったことない。ましてや、滅多なことでは遠出もしない。同じ大学には、ゴールデンウィークを利用して自転車やバイクで旅に出たり、貯めたバイト代で海外旅行に行く者もいた。そんな彼らからしてみれば、保は間逆に位置する。家で本を読み、テレビで好きな番組を眺める。たまの外出は、最低限に留めて、出費を抑えるために寄り道なんてもってのほかだ。
そんな保がいきなり世界に飛ばされた。保は徐々に、息が詰まるような気持ちになってくる。
「あ、そ、そういえば、トオガは俺に対して何も言って来なかったですよね!? 別にみんながみんな人間に差別意識を持っているわけではないでしょう!?」
元の世界でも、行動には至らない差別は多く存在していた。もしもそういう差別なら、しばらく我慢すれば解決の糸口が開けるのではないかと前向きな気持ちで保は問いかける。
アキホは険しい表情で首を横に振った。
「トオガ君は特別よ。昔、外の世界に住んでいたから、彼らよりずっと人間におおらかなだけ。まともに彼らに遭遇していたなら、石を投げられるだけじゃ済まないわよ。トオガ君がどんなに頑張ってタモツ君を守ろうとしても、憎しみを抱いている者達が圧倒的に数で勝るわ。何より、この村で唯一人間に理解のあるトオガ君を危険に晒してもいいの?」
トオガは村の人間達に狙われた自分に優しくしてくれるだろうか、と考える。しかし、根拠はなくとも、全力で守ってくれそうな気がした。トオガの背中に隠れて、ボロボロに傷ついていくトオガを想像を振り払うように頭を掻いた。
「それは、だめですね。……じゃあ、俺はどうしたらいいんですか」
しばらくアキホは考えるように保の顔を見れば、ベッドから立ち上がり机の脇に置かれたバックからある物を取り出した。
「私だって、わけの分からないこの世界に来て誰かに助けてもらったのよ。私だって鬼じゃないし、タモツ君の境遇を他人事だって思えない。……今度は私が助ける番が回って来たようね。さあ、これを使いなさい」
アキホから差し出された物は、便利な道具でもなければ、闇を切り裂く伝説の剣でもない。カチューシャに大きな黒い丸を二つ付けただけのデザインの――○ッキーマウスの耳の玩具だった。
※
勇気を振り絞った保はアキホと一緒にテントの外に出た。外に出ることによって、保は否が応でも落胆をしてしまう。
緑の濃い密林に、見たことのないカラフルな色の鳥、当たり前のように地面から突き出した大樹は現代日本で見つかるならちょっとした観光地としてもやっていけるだろう。アキホと一緒の空間が元の世界を感じさせる時間だったが、一度外に出てしまえば、結局のところここはどう考えても違う世界なのだと強制的に実感させられる。
あれから短くない時間、アキホと一緒にテントにいたのだが、トオガがずっと待っていてくれていたようで、テントから顔を出した保に笑顔で近づいて来た。
「無事だったか、タモツ! ……て、どうしたんだよその耳! いきなり生えてきたのか!?」
騙される奴いたのかよ、と心の中でツッコミをいれるが、これに対して説明は一切できない。保が目線でアキホに助けを求めれば、当然のようにして注釈に入る。
「……忘れた? 最初から生えていたでしょ、その耳。ウルフェス族の中にもいるけど、気持ちが落ち込むと耳が垂れるのよ」
トオガ興味深げに保の耳を見た後に、でも、とアキホの言葉の後に付け足した。
「――耳が二つあるのは珍しいな。人間の耳と獣の耳」
そこまで言われて、保は咄嗟に耳を隠した。今の状態は人間でもこちら側の種族でもない状態だ。なおさら、怪しくなるんじゃないのか。いやいや、こういう凡ミスをアキホがするわけがない。あれだけ自信に満ちた表情をしていたじゃないかとアキホを見れば、その顔にはだらだらと冷や汗が流れていた。
まだ人間なら良かったかもしれないが、トオガの表情はみるみる内に険しさを増していく。
「お、おいおい、冗談はやめてくれ。最初から俺には耳が二つあっただろ」
「そこまで記憶になかったかな? ……なあまさかとは思うが、タモツは魔神の類じゃないんだよな?」
「ま、魔神?」
聞きなれない言葉に頭の中がオーバーヒート気味になりつつ、必死にこの状況を変えるための言葉を保は模索する。
たださすがに二年以上旅をしているだけあって、アキホには『魔神』というものを理解しているようで、保を庇うようにアキホ一歩前に出た。
「物騒なことを言わないで、トオガ君。彼はギララ族よ。魔法薬師の私が保証するのだから信じなさい」
「うぅ……まあ先生には恩もあるし、何より医者や先生は嘘はつかないからな。……すまん、タモツ! お前のことを疑ってしまった!」
「そそそ、そうよ。さあ目立つといけないし、これを付けておきなさい、タモツ君」
ぐいとアキホの手によって保は首を傾けられて頭に布が当たる感触がしたかと思えば、頭回りが強く締め付けられた。痛みから解放されて、慌てて手を伸ばせば何か布が巻きつけられている。
「これ……ハチマキ?」
保は直接自分の状態をはっきり見ていないのでちゃんとしたことは分からないが、ハチマキは本来なら額から後頭部に巻かれるものだが、今は額から耳を通りうなじ付近で結ばれている。
「ハチマキといよりは、カチュームてやつね」
「ああ、あの女の人が巻いているようなヘアバンドか。……まあしょうがねえな」
偽物の耳を表に出して、本物の耳をこのヘアバンドで隠す。
心許ないが、こればっかりは諦めるしかない。この耳の問題は、早急に解決しないといけない。トオガだからこそ何とかなったかもしれないが、他に勘の鋭いウルフェス族に会ったら今度こそ駄目かもしれない。
「そういや、アキホはどうしているんだ?」
トオガに聞こえないように保は顔を寄せてアキホに聞いてみる。顔を近づけてみるが、やはりそこには耳らしきものは見当たらない。もしかして、髪を長くして隠しているのではないかとも考えたが、そういった雰囲気もなさそうだ。
「私は、一時的に人間の体の一部を消す薬を使っているの。作るのにも時間がかかるし、犯罪目的に利用する奴も少なくないから、世の中にはあまり出回ってないのよ」
「……そんな便利な物があるなら、どうして貸してくれないんだ」
「そんな便利な物が、簡単に手に入ると思ったら大間違いよ」
どうしてこんなやり方しかできないのだと保は膝をつきたくなるが、この理不尽な状況でも頑張ろうとする己を世界で唯一褒め称え、気合という名前の根拠のないエネルギーをガソリンにして行動に移すことを決意する。
当面の目標はウルフェス族の集落を脱出することだ。ウルフェス族は身体能力が高く、まず見つかれば人間の足で走って逃げることはほぼ不可能らしい。
アキホも前にウルフェス族が森の獣を狩る光景を見たことがあるらしいが、まるでワイヤーアクションを見ているようだったという。木を足で駆け上がり、獣の牙を紙一重で回避し、暴れまわる巨大な獣の背中にしがみつき、鋼のような獣の皮膚を強靭な肉体によって放たれる槍の一振りによって獣を殺す。
確かに薄い布の服の下からでもトオガの筋肉は見事なものだった。保としても、あの胸に偶然抱かれた経験から考えても鋼鉄のような胸板だったことを覚えている。
「おーい、二人して内緒話はやめてくれよ! 俺も混ぜてくれよ、な、な、なっ!」
顔をぐいぐい近づけてくるトオガからやんわりと逃げるようにして保とアキホは距離をとる。
脈絡のないくしゃみのように、トオガに自分の正体を告げたいと考えた。トオガは確かに見た目は屈強な男だ。でも、少年のような輝きを持つその目を見ていると、信じてやりたいと思ってしまう。もしかして、トオガなら受け入れてくれるのではないかと淡い期待を抱く。
「トオガ、実はさ聞いてほしいことがあるんだけど」
「急になんだよ? 今晩の夕食の話なら、出会った記念に盛大に祝ってやるから感謝しろよ」
「タモツ君、何を言うつもり?」
アキホを無視して、保は一度開いた口を動かす。
「俺の正体なんだけど――」
「――待て、タモツ」
トオガは保に向かって、手の平を見せていた。同時に、トオガは緩んでいた表情を引き締めており、大きくなった瞳で見せる表情はウルフェス族の戦士の顔だった。
尋常じゃない様子に、戸惑う保とアキホは、今から言い出そうとしていたことを忘れてトオガの次の言葉を待つようにして別人のようになったその顔を見ていた。
「悲鳴が聞こえる。もしかしたら、何か起きているかもしれない」
「悲鳴だって? 俺には何も聞こえないけど」
「タモツ君、ウルフェス族は耳もいいのよ。私達には聞こえない声や音が感じ取れても、おかしくないわ」
トオガの言った悲鳴を聞くことに集中しているのか、両手を耳のところに当てている。これはもしかして、レーダーのようにして周囲の音を感知しているのだろうか。
「やっぱり悲鳴だ! 俺、助けに行って来る!」
音を探るトオガの姿に魚群探知機のソナーのようなイメージを抱いてぼぉとしていた保は急に走り出したトオガに驚き、尻餅をついてしまう。次に顔を上げる時には、トオガは木を登り、次の枝から枝へと駆け出していた。
「いったいなんだってんだよ……」
小さくなるトオガの後姿を見送っていた保の耳に、おかしいわ、というアキホの呟きが聞こえた。
「――他のウルフェス族がどこにもいない」
言われて周囲を見回せば、確かにそれらしい姿は発見できない。干したままの洗濯物が不気味に風に揺れ、どこかでスープを煮ているのか香ばしい香りがし、半分開いたままだった民家の扉が今ゆっくりと閉じた。
家の中に入っているのではないかとも思ったが、眉間に皺を寄せるアキホを見ていると自ずと、この状況がおかしいと実感を帯びてくる。
驚きの許容量を超えすぎて、驚くこともできずに流されるままでいた保にもこの不気味な静けさは確かにおかしいと思わせた。
――そんな時だった。
トオガの向かった方向から、大きな爆煙と共に轟音が響き渡ったのは。




