2
バニーガールに手を引かれて、通路を少し歩けば、ロビーに出た。
カウンターにはタキシード姿の男性が二人。キツネのようなツリ目の男性に、熊のように大柄な男。女の子に危険があれば、この男が飛び込んでくるのだろうかと想像するが、どうせ、ちんこが凄いとかなんとか言われて何とかなりそうな気がする。とかいうおかしな思考になる時点で、保はかなり暴走気味かもしれない。
「最低レベルの危機からの脱出方法だな」
「ん? お兄さん、何か言いましたか?」
「いや、独り言です」
危険は回避できたのはいいが、ここでお金が払えないで追い出されるなら、再び絶体絶命のピンチに逆戻りだ。あのストーカー気質な男が、ほんの数分標的がいないだけで諦めるとは保には思えなかった。下手したら、ここまで追いかけてくるかもしれないという気持ちが保を焦らせる。
財布を取り出せば、幸いにもATMから下ろしたばかりの万札が数枚入っていた。今月の支払いに必要なものだが、背に腹は代えられない。できるなら、このテの店はもっと心にゆとりがある時に来たかったものだ。
カウンターに近づいてみたが、料金表らしきものは見つからない。もしかしたら、とんでもない高級店に入ってしまったのかと一瞬意識が遠くなる。
ロビーは何となく埃っぽいし、香水の香りなのか今まで嗅いだことのない臭いをカウンターの先の通路からぷんぷんと漂う。保自身、こういうところには行ったことはないが、テーブルにテレビ、十年以上前に流行ったバスケットの漫画なんかを見ると、この異空間の中での日常の一部に少しホッとする。
「あの、ここって……そういうお店ですよね……?」
「ええ、そういうお店ですよ、お客様」
キツネ顔の男がニュッとさらに目を細くして笑う。
あたかも慣れた風に振る舞いたいところだが、こういう場所で恥じをかくのは死ぬほど辛いというのは相場が決まっている。ただでさえ、羞恥心を煽る場所で恥じをかけば、忘れられないトラウマになる。思慮深く考えた上で、保は素直に聞いてみることにした。
「こういうお店て初めてなので、ちょっとよく分からないのですが……」
「とりあえず、ここにサインをお願いします」
保が質問しても、キツネ顔は表情の変化乏しく書類を差し出す。表情が乏しいとは言ったが、それこそキツネの面を張り付けたような顔をずっと維持したままなのだ。
言われるがままにペンを握った保は、名前と年齢の欄にペンを走らせる。
真情保、二十歳。個人情報とかの管理はちゃんとされているのか心配にもなるが、だらだら十数行に渡って書かれた規約の欄を飛ばして了承の四角の箱にチェックを入れる。
「はい、ありがとうございます。では、こちらが身分証になります」
会員証ではなく身分証という言い方をするのだろうかという疑問もあるが、キツネ男の言う通りに、とりあえず、身分証を受け取っておく。
プラスチックのような素材のカードが出てくるかと考えていたが、差し出されたのは画用紙のような熱さの茶色の紙だった。八センチから十センチほどの大きさのカードには見たことのない文字、今まで生きてきた中では僅かとも記憶にもない記号、運転免許証なんかで顔写真が来る位置に木の年輪のようなぐるぐるとた渦巻く線を囲むように、縦に長い三角形がいくつも並んだこのマークが、おそらく太陽を模したものだと気付くのには、そう時間はかからなかった。
「では、彼女の後ろからついていってください」
渡された怪しげな身分証を財布に直しせば、さっき保を案内したバニーガールの女性の後ろ追う。
不思議な雰囲気の店だが、保の中ではよそとは比べることもできない。何はともあれ、これからはめくるめく時間だ。
あの男に追いかけられたことは災難だったが、ここまで来たら卒業するしかない。素人童貞とか不名誉な称号を手にすることにもなるが、保にとっては一向に構わない。よくよく考えてみれば、散々自分のことを苦しめ続けた保の保は、こういう場所でこそ開花するのではないのだろうか。高校生の頃は、もうAV業界でしか生きていけないのではないかと、身売りをする生娘のような気持ちで嘆いていたが、いざ重ねてきた予行練習を発揮できるとなれば興奮を隠せない。
兄貴、お袋、親父、犬のカリ(名前)、とうとう卒業するよ。バックミュージックは、是非とも仰げば尊しでお願いします。
目の前を歩くバニーガールのプリプリ動く尻の躍動感を目に焼き付け、心の準備を整えた保は壁に突き当たる。
「さあ、お客様。行ってらしゃいませ~」
言われるがままに保が扉の前に立つ。
木製の古い扉だった。押せば軋み、ドアノブを回せば取れてしまうのではないかと考えるほど年季を感じさせる。保のイメージは、西部劇に出てくる酒場のスイングドアを連想させた。
生唾を飲み込み、保は扉を開いた。
扉を開きながら、考える。
そういえば、今日は何かと運が悪かった。
朝の星座占い、血液型占いも最下位だったし、結ぼうとした靴紐は急に切れた。仕方なく運動靴を持っていたので履き替えて外に出れば、黒猫の親子が集団でネズミをハンティングしているのを目撃し、大学に行けば唯一の憩いのスポットだった中庭の木陰でカップルがイチャつき、誰一人として会話をしないまま帰宅しようとすれば、宗教関係の大学非公認の危険なサークルから勧誘され、何とか逃げ切れば待ち構えていたような急なゲリラ豪雨。ようやく飛び込んだ居酒屋で仕方なく食事をしていたら、あの男に追いかけられて……今に至る。
掘り返せば、もっとたくさん辛い出来事が起きているのだが、基本的に運が悪いのが信条保という男だった。股間の大きさと引き換えに、保は運という運を根こそぎ奪われたのだ。保の運とか奇跡とか神がかり的なものは、全て股間に集約されていた。
そんな保は、再び悪い予感というものを感じていた。
それでも不運に慣れ親しんだ保は、料金設定に合わない女性が出てきてごめんなさいする程度だろうと高を括っていた。
「あ、そういえば、これお金ていつ――」
トン、と背中を押された。振り帰れば、ウサミミを揺らして女の子はぴょこぴょこ手を振っていた。
女の子に背中を押されるなんて何年振りだろう。あ、そんな経験なかった。と神速で走馬灯のような時間を終えた保は扉の先に辿り着いた。
ちょっと暑苦しい場所だな、と保はまず思った。それに、何だか生き物臭くて、店に入った時から感じていた今まで嗅いだことのない臭いが強くなった気がした。地面も室内の床にしてはやたらゴツゴツしているし、まるで砂利の上でも歩いているようだ。
絶対に緊急事態が起きているのだが、保は決して目を開けることなく、全ては演出だと強制的に自分を納得させる。
保はもじもじと手を擦り合わせて伏し目がちに扉の先で待っていたであろう異性に言った。
「あ、あの、初めてなんで優しくてくだしゃい! やだもう、噛んじゃった! てへぺろ!」
どちからといえば、てへぺろというよりも、ぐへべろん、という感じの笑顔の保だった。
「――気持ち悪いな、兄ちゃん」
女性のセールストークが出るのを予想していた保は、前方から聞こえた重低音ボイスにぎょっとした。
「声低すぎる!? チェンジだ! ……え」
見上げた光景の先には、決して小さな風呂場があるわけでも、大人二人が寝るには小さすぎるほどのベッドがあるわけでもない。
保の前には、浅黒いというにはグレーに近い肌色に緑色の髪をした二メートル近い大柄の男が腰を曲げて顔を近づけていた。
「どっから来やがったんだよ、人間の兄ちゃん。それにしても、すげえ怪我してんじゃねえか」
「ニンゲン……?」
よく見れば、片眉を吊り上げた男の頭の上には犬ような耳が二つ生えていた。そして、本来なら人間の耳があるはずの位置は平になっており、すっぱりと切り落とされたようだが、切られたにしては、あまりに自然すぎる。まるで、産まれた時から耳なんてなかったような顔の形をしていた――。
「――ぁ」
ぐらりと保が前のめりに倒れ込めば、目の前の強面の男が受け止めた。鉄のような頑丈な胸板に保の顔が埋まる。女性の胸ではなく、男の胸に抱かれるという現実をひしひしと実感する。
「逞しい胸板ですね……」
「本当に気持ちの悪い兄ちゃんだな」
というやりとりを最後に、保の意識は深い闇の底に放り込まれたのだった。




