1
「――お前、ちんこでかいよな」
「あ?」
高校生になったばかりの頃。
真情保は、免許を取り立てであちこち親の車で行ったり来たりしている大学一年生の兄からそんなことを言われた。
別に兄と禁断の付き合いがあるわけでも、家庭内で性的暴行を受けていたわけではない。家の風呂が壊れて、近くの銭湯に行った時の話だというだけだ。
保と同じくコの字の椅子に座り、ケロリンの湯桶にお湯を溜めて、シャンプーを流した兄からの一言だった。
今まで何百回と見てきたものだから、今さら珍しいとは保は思えなかったが、目撃する度に兄はまじまじと股間を凝視してくるのだ。
「藪から棒になんだ」
「藪から棒……。ちんことかけてるのか?」
「大学生になってからおやじ臭くなったぞ兄貴。短い間に、二度もちんこと言いやがって」
無視して保はシャンプーを開始するのだが、兄はしみじみと「やっぱ、でかいなぁ」と繰り返していた。
保にとって、こういう話は一度や二度ではない。
高校生だか中学生だか、よく覚えていないが、いや、毎年のことだったような気がする。
プールに備えて、保が男子更衣室で水着に着替えていた時のことだ。
こういう場所では必ずといってもいいほど、他者の股間を白昼の下に曝そうと暴走する者がいる。その名は、お調子者。保はいつだって、このお調子者という人種が苦手なのだ。なんせ、保という存在は何らかのイベントのたびにお調子者の標的にされることが多々ある。
最初に狙われるのは、バスタオルほどの長さのタオルを腰から下に巻いた比較的おとなしく、他の男子に比べて強い羞恥心を抱える者達がターゲット。次に、高速で着替えようとする奴。その次は、最初から家でズボンの下に水着を履いて来た奴と段々とグレードを上げていくのだ。
ちなみに、保はバスタオルほどの長さのタオルを腰に巻いているタイプだった。だが、それは羞恥心から来るものではない。
「女みてえなタオルしてんじゃねえよっ」
猿のような顔したクラスメイトが、保の抵抗空しく腰に巻いたタオルをずり下ろした。
当たり前の流れのようにして、猿顔クラスメイトの蛮行を見ていた他の生徒達の時間は停止した。ある者は下腹部を露出させれた為にお前も巻き込まれろと見つめ、ある者はお調子者と同じく笑いのネタにするためにせせら笑い、猿顔のクラスメイトはこれ見よがしに戦利品のタオルを掲げてみせる……はずだった。
保は慌てることも恥ずかしさから悲鳴を上げることもない。ただそっと地面に落ちた腰巻タオルを元通りの位置まで上げた。
「見た?」
全員が機械のようなシンクロした動きでコクリと頷いた。猿顔クラスメイトに至っては、腰を抜かして立ち上がれそうもない。そして、彼らは感慨深げに言うのであった。
「「「ちんこ、でけえな」」」
いい加減、股間の話には飽き飽きしているかもしれないが、保の股間に纏わるエピソードはまだまだ続く。
今度は幼少期の話だ。そもそも、彼が股間の大きさを自覚したのは、幼稚園の頃からだった。
どこにでもいる園児だったが、初めてのプールの日に送り出した母親の憂いを帯びた表情が今でも保は忘れらない。
さて、ここまで来たのなら何となく察することはできるはずだ。
まずすっぽんぽんのままでパンツを脱いだところから始まり、周りの男子が股間のでかさを騒ぎ立てる。この頃の保はまだ普通の少年で、正直この時は泣きそうだったし、隠そうと必死だった。どれだけ必死に隠そうとしても、手の中からこぼれるのだからどうしようもない。
ここまでで終わってしまえば良かったのだが、次の展開から人生を大きく歪ませることになる。
騒ぎを聞きつけた幼稚園の先生がやってきて、これで助かったのだと保は、例のブツをぶらぶらとメトロノームのように揺さぶって先生に泣きついた。
「あんっ」
「あん?」
先生の変な声を聞いた。どこかで聞いたことのある声で、保は記憶の箱の中をひっくり返して思い出そうとしていた。
先生は潤んだ目で保を見た。
「――保くん、大きいねぇ」
その時、保に電撃が走った。誰にも説明できない、衝撃だった。仮面ライダーが実在しないと知らされた時ぐらいの衝撃だ。
一体何が、先生の甘い吐息か、それとも保の保が初めての保を迎えようとしているからなのか説明はできない。正直、自分でも何て言っているのか分からなった。よく分かるのは、それから数年後になるのだが。
頭にまで血流の駆け巡った保は、鼻血を噴き出しながら、そのまま気を失った。視界が真っ白になりながら、保はあの声の正体を思い出していた。
……先生の声は、発情期の近所のチワワと声がよく似ていた。
「もしくは、ママとパパの部屋……から……」
思い出したこと、それから、学んだこともある。
理解はできないが、自分の股間は女性を喜ばせることができるのだと。
保はその時に感じた謎の使命感と共に、成長し、その意味を学んでいくのだった。
※
そして、現在。時間にして、深夜の二時ぐらいだろうか。
保は危機的状況に追い込まれていた。
「――おい、てめえは誰の女に手を出したか分かってんのかぁ?」
大学二年になった保は、浅黒い肌に汚い金髪をした男に胸倉を掴まれていた。これは目立つ場所なら叫び声でも上げれば、まだ救いはあったのだが、ここは繁華街の路地裏だ。
股の下にぶら下がったモノのせいで、常日頃からトラブルに巻き込まれることの多かった保はサークルに入ることもなく、淡々と講義を受けるだけの日々を送っていた。事実、保はそれで満足をしていたし、恋をしようとも考えたが、うまく事が進んでも、絶対に自分のブツを見てしまえば、引かれてしまうと判断したから諦めていた。なので、この名前も知らぬ先輩に絡まれる理由は全く身に覚えがないのだ。
「ちょっと待ってくださいよ、何のことだか知りませんってば! 俺は、バリバリの童貞ですよ!」
言ってて悲しくなるが、背に腹は代えられない。
保は自分の恥辱にまみれた発言で、この問題が無事に解決することを祈ったが、どういう訳か男の顔はみるみる内に赤くなっていった。酔いが回ったというわけではないだろう。
「ふざけるな、嘘をつくなよ! 俺の彼女が言ってたんだぞ……。お前のモノは良かったってよぉ……!」
「はあ!? 今、俺ってば童貞て言ったでしょ! 俺、風俗にも行ったことありませんよ!」
「俺の彼女が風俗嬢だって言いたいのか!」
「――げふぅ!? めっちゃ理不尽!?」
バコン、と保の頭の中でバットが固いものを殴ったような音が響いた。顔に触れてみれば、もう既に腫れていた。兄貴や両親が心配するから、顔に傷は残したくなったのだが、そんな余裕はなくってきているようだ。
保は必死に頭の中の記憶を探す。彼女ということは、数少ない女と関わった記憶。断りきれずに強引に謎のアクセサリーを買わされた宗教勧誘のおばちゃんか、いやいや、男のお母さんなら分かるが、年齢が違いすぎる。
もう一、二発、殴られるのを覚悟して保は聞いた。
「……すいません、本当に思い出せません」
男は舌打ちをして、保の腹を蹴り上げた。ついさっき食べた牛丼を吐き出しそうになるのを堪えて、男の次の言葉を待つ。
「覚えてねえか! 居酒屋でバイトしている奴だよ!」
「居酒屋……あ」
あった。一つだけ、強烈な若い女性との記憶が。
あの時は地元の友達が来ていて、みんなで居酒屋に飲みに来ていたんだ。大学ではぼっちの俺には、数少ない楽しい時間で、すっかり気分の盛り上がっていた為に酔いが回っていた。
尿意を覚えてトイレに行った。そこが問題だった。本来なら、カギを閉めなければいけない便所で鍵を閉め忘れた。その時、大便の途中だった保は、失礼します、というトイレ掃除をしにきた店員の声に驚き慌てて鍵を閉めようと立ち上がった。だが、うっかりミスでトイレのドアを逆に開いてしまったのだ。
あの後、呆然とする女性に何度も謝り、酔いの冷めた保は大急ぎで帰宅することにした。さらに、次の日の二日酔いのせいで、その時の記憶は保の中からすっぽりと抜け落ちていたのだった。
「俺のブツを見たあの子の彼氏か……げほぉ!」
もの凄い勢いで墓穴を掘ったことに気付く間もなく、視界がチカチカと揺れた。再び、男に殴られたようだ。
「やっと思い出したか! この野郎!」
また男に胸倉を掴まれれば、男は自分の顔に保の顔を近づけた。
「……偶然見られちゃただけなんですってば」
「ふざけるのもいい加減にしろ! お前に会った日から、彼女はベッドの上で俺のを見ても溜め息ばかりつきやがるんだ! 仕舞いには別れると言い出しやがった! 事情を聞けば、お前のブツを見たことが原因らしいな! つまりは、お前が嫌がる彼女に無理やり……くそおぉぉぉ――!!!」
「ご、ごひゃいだぁ――!」
殴られ続けたせいで、保の口の周りが腫れたこと、それから歯を折られたせいでうまく喋れなくなっていた。すっかり逆上した男は、このままでは保を殺してしまいそうなほど殺気立っていた。
「……ど、どうひて、俺のこと……」
危険な状況だというのに、気になってことをすぐに聞いてしまうのは保の悪い癖だった。倒れて動けない保をその場に、男は辺りをきょろきょろ見回していたが、鬼の形相で保を睨みつけた。
「俺は店長なんだよ。監視カメラやシフト表を見れば、すぐに分かる。毎晩のようにてめえを探し回ったのは骨の折れたがな……」
「バイトと店長、なるほど……て、まへえぇ!」
男の手には刃渡り十五センチほどの包丁が握られていた。
「寝取った男を殺すんだ、よくある話だろ?」
「よくねえよ、もう一度彼女と考え直へぇ!」
殴られ続けるのを我慢しようと堪えていた保だったが、命を奪われるとなれば話は別だ。カエルのようにすぐさま跳び起きて、近くのゴミ箱を男に向かって投げつければ、怯んだ隙に走り出した。
思った以上にダメージを受けていたせいか、まともに歩こうとしても大シケの船上にでもいるようにまともな歩行すら困難だ。だが、大通りの方にさえ出れば、騒ぎになって誰かが駆けつけてくれる。希望を胸に、たった百数十メートルの距離を必死に進み、L字の突き当りの角を曲がった先は行き止まりだった。
「――待てええぇぇぇ! コラア!」
ドスの利いた男の声が近づいて来る。あれでどうやって接客なんかしていたのだろうか、機会があるならもう一度見に行きたいところだ。
目の前の壁は登れそうもないし、映画のように都合よく非常階段がかかっているわけでもない。スマホは、裏路地に連れ込まれた時点で、足で踏み潰された。もうダメと、徹底抗戦を覚悟したその時だ。
「――お兄さん、お兄さん。今晩、お店はお決まりですか?」
その場に似つかわしくない可愛らしい声が保の耳に届いた。
目の前には保とそう年の変わらない女の子が、看板を手にして立っていた。まず目が行くのは、バニーガール姿、それからウサギの耳。どちらも真っ白で、網タイツだけが黒色をしている。季節は春先だが、夜はまだ寒い。仕事とはいえ、こういう格好は辛かろうと思った保にはあるアイデアが浮かんだ。
「い、行くよ! 早く案内してくれぇ!」
少し舌足らずになりながら、俺は女の子に食い気味に言った。
大きな胸を寄せるようにしてもじもじとした女の子は、小さく頷けば、どうして今まで気付かなかったのか、後ろの扉を開いた。
「では、お一人ごあんな~い」
いやらしい暖色系の明かりとピンクののれんは露骨過ぎる気もするが、藁にも縋る思いで保は扉に飛び込んだ。
※
保が扉に飛び込んだ直後。時間にして、十秒も経過していない。
追いかけてやってきた男は、行き止まりの路地で足を止めた。
「どこにも、いない……」
乗り捨てられた自転車を蹴り飛ばして、放置されたゴミ袋を放り投げた。辺りには、ゴミが散らばるばかりで、人影すら見当たらない。
保を追いかけてやってきた路地には――扉一つなかった。




