第96話:【東欧の可変陣形】
【あらすじ】
ユースCL第3節、アウェイでFCザグレブと激突するバルシーノ。サビエルとイネスの初先発コンビが鮮やかに先制点を奪うも、ザグレブは可変する陣形と激しい球際の攻防で反撃を開始。1点のリードを守るバルシーノを、東欧の強豪が容赦なく追い詰めていく――。
1. バルカンの冷風と初陣の二人
バルカン半島の不穏な雲行きと、湿り気を帯びた冷たい秋風が、スタジアム・マクシミールの濃緑の芝を吹き抜けていた。
ユースCL・グループステージ第3節。
敵地ザグレブに乗り込んだFCバルシーノ・フベニルAの選手たちは、アウェイ特有の地鳴りのような歓声に包まれていた。
ベンチシートに腰掛けた14歳の吉良氏真の隣には、過密日程による疲労を考慮されて控えに回った「王子」エステバン・ロサーノが、不機嫌そうに腕を組んで座っている。
「……重苦しい空気だな、氏真」
「そうだね。芝が雨上がりのように少し粘り気を含んでいる。ボールの転がりがほんの僅かに鈍るかもしれない」
氏真の眼差しは澄んでいた。
この敵地でジョゼップ・カサス監督が下した決断は、前節でチームに新たな息吹をもたらした二人――2歳年上のMFサビエル・フェルナンデスと、3歳年上のMFイネス・カスティーニャを、フベニルAで揃って初スタメンとしてピッチへ送り出すことだった。
中盤の底に立つサビエル。左インサイドハーフに位置するイネス。
「¡Vamos, chicos!(行くぞ、みんな!)」
最後方からキャプテンの守護神トニ・ラマジェの声が響き渡る。
ピーーーッ!
主審の長いホイッスルが鳴り響き、バルシーノのキックオフで前半が始まった。
立ち上がり、ピッチの呼吸を握ったのはバルシーノだった。
前半4分。自陣深い位置でボールを受けたサビエルが、相手の寄せを右足のインサイドで優しくいなし、ワンタッチで前方の広いスペースへ球を滑らせた。
吸い寄せられるように、その球筋の先へ顔を出したのはイネスだった。
イネスは相手ボランチの死角からスッと抜け出すと、足裏でボールの底を滑らせるようにして前を向く。相手DFの重心がわずかに浮いたその一瞬を見逃さず、極上のスルーパスをペナルティエリア内へと通した。
「¡Leon!(レオン!)」
そこへ走り込んでいたのは、FWレオン・ラインハルト!
レオンは相手GKの踏み込みを見極め、右足のインサイドでゴール左隅へと静かに叩き込んだ。
――ザシュッ!
前半5分。FCバルシーノ先制! 1―0。
「¡Golazo!(よし、先制だ!)」
ベンチの控え選手たちが立ち上がり、鮮やかな連携に拍手を送る。
フベニルB時代から築き上げてきたサビエルとイネスの呼吸が、欧州最高峰の舞台でも見事に結実した瞬間だった。
――
2. 重層なる可変と中盤の溜め
だが――東欧の強豪FCザグレブが、その一撃程度で瓦解することはなかった。
「Podignite liniju!(ラインを上げろ!)」
ザグレブの監督スチパン・ルチッチが、ベンチ前で太い腕を振る。
失点を喫した直後から、FCザグレブの選手たちの陣形が一変した。
ポゼッション時、相手のボランチが一列下がり、二人のセンターバックの間に滑り込む。
3-2-5。
さらに局面によっては3-1-6。
幅をいっぱいに取った左右のウイングバックが、バルシーノのサイドバックを押し潰すように最前線へと張り付いてくる。
「¡Baja!(下がれ!)」
ボランチのテンテが悲鳴のような指示を飛ばす。
さらに異質なのは、ザグレブのスカウト網がバルカン諸国や南米から発掘した、個の打開力に長けたアタッカー陣の「中盤での溜め」だった。
中央でボールを受けたザグレブの10番、南米出身の小柄なMFマティアスが、足の甲をふっと脱力させてボールをピタリと止め、バルシーノのプレッシングを静かに引き寄せる。
無理に寄せれば、いとも簡単にワンタッチで叩かれてサイドへ展開される。寄せなければ、その小さな「溜め」を起点に、前線へ一気に5、6人が波のように走り込んでくる。
「くそっ……! 捕まえきれない!」
テンテが濡れた芝に足を取られながら叫ぶ。
立ち上がりに先制点を奪ったバルシーノだったが、時間の経過とともに、ザグレブの重層的なプレッシングと「個の溜め」によって、自陣深くまで押し込まれていった。
――
3. 巨城の壁と反撃の影
前半20分を過ぎる頃、ザグレブの攻撃は多様な波となってバルシーノのゴールを脅かし始めた。
中盤でテンテが囲い込まれて球を奪われると、ザグレブのMFマティアスが躊躇なく強烈なミドルシュートを放つ。
バシィィンッ!
CBカレス・モンテロが身体を投げ出し、必死のブロックでコースを逸らした。
ザグレブのコーナーキック。高身長の選手たちが一斉にペナルティエリア内へ雪崩れ込む。鋭いクロスが中央へ供給されるが、GKトニ・ラマジェが咆哮とともに前へ飛び出し、相手FWの頭上から両拳でパンチングで弾き飛ばした。
「¡Aguanta!(耐えろ! 耐え抜くんだ!)」
トニ・ラマジェが濡れた顔を拭い、味方を鼓舞する。
自陣に釘付けにされながらも、身体を張り、泥にまみれて失点を防ぐバルシーノの守備陣。
だが、バルシーノもただ黙って耐えていたわけではない。
前半32分。自陣でトニ・ラマジェが弾き返したこぼれ球を、テンテが泥臭く回収。すぐさま前方のサビエルへ預けた。
サビエルは相手のカウンタープレスが到達する直前、ワンタッチで左斜め前へ素早く球を逃がす。
そこから始まったのは、この日最も美しい反撃のパスワークだった。
サビエルからイネスへ。イネスが相手ボランチを引き寄せてから、前線のレオンへ縦パスを入れる。
完璧なタイミング。
「いける……!」
ベンチの控え選手たちが身を乗り出す。
レオンがペナルティエリア手前で前を向き、右足でシュート体勢に入った。
勝利を決定づける追加点――そう誰もが確信した、その一瞬だった。
ドスッ。
重い足音が響き、レオンの目前に巨大な「影」が立ちふさがった。
FCザグレブのキャプテンであり、190cmを超える巨漢センターバック、ミラン・コヴァチである。
コヴァチは力任せに飛び込んできたわけではなかった。
レオンが右足を踏み込む手前、コヴァチは自分の大きな身体の傾きと肩の向きをわずかに変え、レオンの視界に入る左側のコースを完全に塞いでいたのだ。
レオンの脳は、無意識のうちに「空いている右側」へシュートコースを変更させられていた。
コヴァチは最初から、その右側のコースへ右足を伸ばして待っていたのだ。
パンッ!
コヴァチの伸ばした右足の爪先に球が当たり、シュートは虚しく失速してGKの胸に収まった。
相手の選択肢を力で叩き潰すのではない。巨体そのものを一枚の壁へと変え、逃げ道を静かに削りながら、最後に残された道へ相手を誘い込む。まるで、見えない罠を仕掛けるような知的な守備だった。
「……あいつ、恐ろしいな」
ダビアンが、ゴール前からコヴァチを睨みつけた。
「大きいだけじゃない。こちらの身体の向きを見て、最初から選択肢を絞り込んでいやがる」
レオンは悔しそうに顔を覆い、コヴァチは表情一つ変えずに自陣のラインへと引き返していった。
――
4. 観測者の瞳と綻びの予感
ベンチの最前列。
ベンチコートのフードを深々とかぶり、静かにピッチを見つめる少年がいた。
吉良氏真である。
氏真は声を上げることもなく、ただ静かにピッチを見つめていた。ザグレブの選手たちが織りなす動き、その一歩、その間、その連鎖が、ひとつずつ氏真の脳裏へ収まっていく。
レオンのシュートがコヴァチに防がれたその瞬間、氏真の視線がわずかに鋭くなった。
(……今の一瞬)
前半に見続けてきた光景が、氏真の中で一本の線へとつながり始めた。
ザグレブの強さは、決められた形を忠実になぞることではなかった。
スペインやドイツのように、選手の立ち位置や動きを細かく定め、その形を崩さずにボールを運ぶ。そんな整然とした美しさとは、どこか違う。
ボールを受けた者が考える。その動きを見た者が応える。
そして、その応えを見た別の者が、さらに一歩先へ踏み込む。
誰かが合図を出すわけではない。
それぞれが、目の前の一瞬を読み、自ら次の一手を選んでいる。
――その連鎖が、ザグレブの攻撃だった。
中盤でマティアスがボールを受ける。
テンテが身体を寄せた。
普通なら、そこでボールを逃がす。
だが、マティアスは違った。肩と肩が激しくぶつかる。
それでも倒れない。
相手の力を受け止めながら、足先だけでボールをわずかに引き、身体の向きを半歩だけ変える。
その小さな動きを見逃さず、右のウイングバックが走り出した。
中央では別のMFが前へ出る。逆サイドの選手は内側へ絞る。
誰かに命じられたわけでもない。それなのに、三つの判断が一本の攻撃へと繋がっていく。
激しい接触を恐れない強靭な身体。
その身体からは想像もつかないほど繊細なボールタッチ。
荒々しさと優雅さ。
相反する二つの性質が、ザグレブというチームの中では奇妙なほど自然に溶け合っていた。
(……なるほど)
ベンチの氏真は、静かにその光景を追っていた。
決められた形に従っているのではない。
一人ひとりが、目の前の状況を読み、最善と思った一手を選んでいる。
だから、一人を止めても終わらない。
その選手が塞がれば、別の誰かが新しい道を見つける。
(これは……規則のチームではない)
氏真の視線が、マティアスから、その周囲を動く選手たちへ移っていく。
(判断する者たちの集まり……か)
その強さは、本物だった。
だからこそ――。
氏真の中に、小さな違和感が残った。
個々が自ら考え、即興で繋がる。
それは、決められた形よりも自由で、予測することが難しい。
だが、人が考える以上。
そこには必ず――迷いではなく、選択が生まれる瞬間がある。
氏真は、その瞬間を見逃さなかった。
まだ、答えはない。
ただ。
鉄壁のように見えるザグレブにも、ほんの僅かな呼吸の乱れがある。
氏真は何も言わず、再びピッチへ視線を戻した。
その目には、静かな興味だけが宿っていた。
――
5. ハーフタイムの静寂
ピーーーッ! ピーーーッ!
二度の笛が、前半の終わりを告げた。
1―0。
バルシーノが、わずかなリードを抱えたままハーフタイムへ入る。
だが、ロッカールームへ引き揚げる選手たちの顔に、先制した喜びはなかった。
サビエルとイネスは荒い息を吐き、カレスは濡れたユニフォームを脱ぎながら大きく肩を上下させている。
テンテもロッカーの長椅子に腰を落とし、額を伝う汗を乱暴に拭った。
先に取ったのは、バルシーノ。
だが、試合を支配しているのは明らかにザグレブだった。
一歩間違えれば、次の瞬間には同点に追いつかれてもおかしくない。
誰も口を開かなかった。
濡れたユニフォームから立ち上る熱気だけが、重たい空気の中に漂っている。
ジョゼップ・カサスが静かにコートを脱いだ。その表情に焦りはない。
だが、監督の眼差しには、前半のすべてが一瞬の映像のように焼き付いていた。
マティアスの「溜め」。そこから始まる即興の連鎖。
激しいデュエルで相手を押し込みながら、足元では驚くほど繊細にボールを操る選手たち。
ザグレブは、決められた形だけで戦っているわけではない。
だからこそ、単純に配置を変えただけでは捕まえきれない。
「……厄介だな」
ジョゼップが、小さく呟いた。
分析担当のコーチがタブレットを差し出す。
前半の映像が、次々と切り替わっていく。
「監督、ザグレブは中央でデュエルを作ってから、二人目、三人目が反応しています。最初の選手を止めても、その瞬間に別の選手が空いた場所へ入ってくる」
「分かっている」
ジョゼップは画面から目を離さなかった。
一人を止める。そこへ別の選手が現れる。その選手へ寄せれば、今度は別の場所が開く。
――まるで、こちらの守備そのものを利用している。
「ならば、追いかけない」
ジョゼップが指先で画面を止めた。
「全部に付き合えば、こちらの足が先に止まる。後半は中央のデュエルを無理に取りに行かず、最初の一手だけを限定する」
コーチが頷く。
「エステバンを入れますか?」
「そうだ」
ジョゼップの答えに迷いはなかった。
「前線で一人でも時間を作れる選手が必要だ。ザグレブに押し込まれ続ければ、最後は必ず崩される」
そして、もう一度ベンチへ視線を向けた。
そこには、フードを深くかぶった14歳の少年がいた。
吉良氏真。
前半、ほとんど身動きもせずにピッチを見つめていた。
ジョゼップは氏真を見つめながら、ほんの一瞬だけ思考を止める。
まだ早い。
この試合で、氏真を後半の早い段階から使う必要はない。
むしろ――。
最後に残しておく。
ザグレブの強度。バルシーノの疲労。
そして、試合終盤に生まれるわずかな空間。
すべてを頭の中で秤にかける。
「……残り十分」
ジョゼップが、誰にともなく呟いた。
その言葉に、分析担当のコーチが顔を上げる。
「氏真を?」
「ああ」
ジョゼップの視線は、まだ氏真から離れなかった。
「ただし、勝負を決めるためじゃない」
一拍。
「試合を落とさないために使う。」
その言葉に、コーチが静かに頷いた。
今はまだ、エステバンの時間。
そして最後の十分には――。氏真の時間が来る。
ジョゼップは戦術ボードへ向き直った。
「後半は、まず耐える。……いや、追加点も狙うぞ」
ジョゼップは一瞬だけ言葉を止め、戦術ボードへ視線を落とした。
「ただし、無理に前へ出る必要はない。ザグレブが前へ出てくるなら、その勢いを利用する」
選手たちの視線が、少しずつ上がっていく。重苦しかった空気が、ほんのわずかに変わった。
勝つために焦るのではない。
この1点を、最後まで手放さない。
そのための後半が始まろうとしていた。
そして、その最後を託す切り札は――。
まだ静かに、ベンチに座っていた。
氏真は何も言わなかった。
ただ、ピッチの映像へ視線を向けたまま、静かに後半の開始を待っていた。
【次回予告】
敵地ザグレブで迎える後半戦。だが、突然の豪雨がマクシミールを泥濘の戦場へと変えていく。崩れ始めるバルシーノのリズム、迫るザグレブの猛攻。そして、雨中のピッチへ送り出される氏真を見たエステバンの胸に、かつてない感情が芽生える――。
第97話:【雨中の共鳴】次なる天下へのパスを回せ!




