第95話:【エレナの戦術分析】
【あらすじ】
2-2のまま迎えた後半終盤。SBリスボンFCが仕掛ける猛攻に、バルシーノも総力を挙げて対抗する。刻一刻と変化する戦況の中、ピッチ上の選手たちが導き出した答えとは――。そして氏真が見せる「ボールを持たない」新たな可能性が、試合を大きく動かしていく。
1.空転する疾風
シウダ・エスポルティバのピッチを叩く雨脚が、さらに強まる。
2-2の同点に追いつかれたポルトガルの雄、SBリスボンFC。
「¡Pásala rápido!((もっと早く出せ!)」
背番号11、黒豹エミリアーノがピッチを踏みしめながらポルトガル語で叫ぶ。
相手監督ルイス・マルティンスの指示のもと、リスボンFCは奪った瞬間に前線へ球を打ち込む「即時縦化」の強度を、再びギアを上げて高めてきた。
エミリアーノは単に直線的に走るのではない。
一度幅を取ってから、バルシーノの右CBカレス・モンテロの死角を突くように、斜め奥のスペースへ爆発的な初速で侵入を開始する。
今度こそ、再び突き放す――。
リスボンFCの全選手が、その縦への速さを疑うことなく連動した。
だが、バルシーノのベンチ前で腕を組むジョゼップ・カサス監督の瞳は、冷徹に相手の「縦への習性」を見定めていた。
監督のコートの袖が、わずかに動く。
その静かな合図に、最後方のカレスを中心としたバルシーノの最終ラインが、一気に呼吸を揃えた。
エミリアーノが爆発的な加速で背後へ飛び出し、リスボンのボランチから鋭いスルーパスが打ち出された、まさにその瞬間。
「¡Sube!(上げろ!)」
カレスの怒号とともに、バルシーノのDFライン四人が、示し合わせたように力強く一歩前へ踏み出した。
ざっ!
雨を含んだ芝生が、四人のスパイクによって同時に踏みちぎられる。
ハーフウェイライン付近まで一気に押し上げられた防衛線。
エミリアーノがボールを呼び込んだ位置は、完璧にバルシーノの最終ラインの「裏」――つまり、オフサイドポジションに取り残されていた。
ピーーーッ!
主審の甲高い笛が鳴り響き、副審の旗が空高く上がる。
「……ッ!?」
エミリアーノが脚を止め、悔しそうに空を仰いだ。
バルシーノは、エミリアーノの物理的なスピードを力で止めたのではない。
彼らが最も得意とする「奪った瞬間に縦へ走る」という思考のタイミングそのものを、自らのラインコントロールによって空転させたのだ。
オフサイドによって断ち切られたリスボンの攻撃。
その一瞬のプレーの裏で、リスボンの選手たちの頭脳に、小さな、しかし消えないノイズが走る。
(次もまた、縦へ出せば罠にはまるのではないか……?)
効率的な正解を追い求めるリスボンFCの思考の中に、「ほんのわずかな迷い」が生まれた。
――
2.観客席の解析者
リスボンのボランチが配球の瞬間に、ほんのわずかな迷いを見せた。
ボールを持ち直そうとした、その瞬間だった。
バルシーノのピボーテ、サビエル・フェルナンデスが、蛇のような目にも留まらぬ踏み込みで、その足元へ滑り込んだ。
パシッ!
ボールを鮮やかに刈り取る。
「¡Contra!(カウンターだ!)」
サビエルが前を向く。
そこから始まったのは、リスボンFCの完璧だったはずのブロックを、あざ笑うかのように解体していく、息をもつかせぬダイレクトパスの連鎖――バルシーノ伝統の「ティキタカ」であった。
スタンドの記者席。
戦術ノートを膝の上に広げた女子チームの天才司令塔エレナが、ペンを握る指を止め、息を呑んでその光景を見つめていた。
「……凄いわ」
隣でカメラを構えるルナが、ファインダーから目を離さずに呟く。
「ウジザネ、またボールを触ってないわね……?」
「ええ」
エレナの指先が、戦術ノートの上に刻まれた位置関係を、激しい速さでペンでなぞっていく。
「ウジザネは今、ボールから一番遠い中央のレーンに立っている。でも、彼が相手CBペドロの右肩の死角に立ち続けているせいで、リスボンのセンターバックとアンカーは、ウジザネの動きを警戒して中央を絞めざるを得ないのよ」
エレナの解説通り、最前線の吉良氏真は、一度もボールに触れることなく、ただ絶妙な立ち位置だけで相手守備陣の視線と重心を中央へ強く固定させていた。
「ウジザネがボールを持たずに相手の視線を一つ引きつけているから、サビエル、イネス、ダビアンの三人が、相手の寄せを受ける前に、次の動きを選択できている……!」
エレナの言葉を裏付けるように、ピッチ上では幾何学的なパスワークが炸裂していた。
サビエルから、相手の死角へ潜り込んだイネスへ。
イネスがノーストップのワンタッチで、中盤から湧き出してきたダビアンへ。
ダビアンが相手ボランチを引きつけ、左サイドの「王子」エステバンへ流す。
ト、ト、トンッ。
乾いた球打音が雨音を切り裂き、リスボンFCの可変ブロックが内側からバラバラに引き裂かれていく。
「全員が……次に空く空間を、まったく同じ未来として共有しているわ!」
エレナの瞳に、身震いするような知的感動が漲っていた。
――
3.未来を仕留める者
左サイドを破ったエステバンが、ペナルティエリア内へ強烈なドライブで侵入する。
カバーに入ろうとした相手CBが焦って足を出した瞬間、エステバンは滑らかなアウトサイドでボールを中央へ叩き落とした。
ペナルティエリア中央、完全なる崩し。
そこへ走り込んできたのは、英国の「聖騎士」FWレオン・ラインハルト!
「¡Leon!(レオン!)」
レオンは迷うことなく、右足を深く振り抜いた。
ドガァァァンッ!!
重い打球音がスタジアム中に轟く。
ゴールへ一直線に突き刺さる、強烈なシュート。
リスボンFCの守護神が死に物狂いに手を伸ばし、決死のセービングでその球を弾き返した。
バシィィンッ!
弾かれたボールが、不規則な回転を描きながら宙へ高く舞い上がった。
「弾いたぞ!」
「押し込めぇぇぇッ!」
両チームの選手たちが、宙に舞う球を見上げ、一斉に落下地点へ足を踏み出そうとした。
しかし――ピッチ上の全存在の中で、ただ一人だけ、ボールが弾かれる「前」から、その落下地点へ静かに身体を滑らせていた者がいた。
吉良氏真である。
氏真は、弾かれた瞬間にはもう、その軌道の先に身体を滑り込ませていた。
「速さ」で走ったのではない。
未来が落ちてくる場所へと、あらかじめそこに「居た」のだ。
「な……ッ!?」
倒れ込んだキーパーが、信じられないものを見る目で氏真を見上げる。
宙から落ちてきたボールの勢いを、氏真は右足のインサイドで優しく包み込むように吸収した。
一切の力みのない、脱力のコントロール。
そして、キーパーが立ち上がるよりも早く、伸びてくる相手DFの足が届くよりも早く。
右足のインサイドで、無人のゴールネットの右隅へ、ボールを静かに転がした。
――ザシュッ。
静まり返るシウダ・エスポルティバ。
静まり返ったピッチの中で、白いネットが静かに波打った。
後半40分。
3―2。
FCバルシーノ、勝ち越し。
――
4.チームの結実
「¡Qué gol!(なんてゴールだ!)」
「逆転! 大逆転だぁぁぁッ!!!」
ベンチから選手たちが一斉に飛び出し、ピッチの上で爆発的な歓喜が弾けた。
だが、氏真は派手なパフォーマンスを見せることなく、ゆっくりと息を整え、ユニフォームの泥を優雅に払い落とす。
だが、氏真は派手なパフォーマンスを見せることなく、ゆっくりと息を整え、乱れたユニフォームを静かに整えた。
サビエルやイネスも誇らしげに微笑みながら、ハイタッチを求めてきた。
自分の個人技で奪ったゴールではない。
全員が同じ未来を共有し、全員が思考を重ね合わせた末に生まれた、最高の結末。
(……これだ)
氏真は胸の内で、静かな満足を覚えていた。
一人で全員を従えるのではない。
己の一歩で全員の知性を引き出し、最後はストライカーとして、その未来を完成させる。
これこそが、現世において己が辿り着くべき姿なのかもしれない。
ピーーーッ! ピーーーッ! ピーーーーーーッ!
アディショナルタイムを凌ぎ切り、試合終了の長いホイッスルが響き渡った。
3―2。
ユースCLの激闘を制し、グループステージ2連勝を飾ったFCバルシーノ。
自慢のシステムを破られたリスボンFCの黒豹エミリアーノは、悔しそうに芝生を見つめた後、氏真へと歩み寄り、無言でユニフォームの交換を求めてきた。
氏真が爽やかに応じると、エミリアーノは短く、
「次は勝つ」
と言い残し、トンネルへと消えていった。
――
5.密着と分析の追撃
試合後のクラブハウス。
激闘の熱冷めやらぬ通路で、汗を拭う氏真の前に、二人の少女が立ちふさがっていた。
一眼レフを抱えたルナと、戦術ノートを抱えたエレナである。
「ウジザネ! 今日の試合の分析、完璧に終わったわ!」
エレナがペンを指先でくるりと回しながら、戦術ノートを氏真の目の前へ突き出してきた。
「後半のあなたの『ボールを持たない位置取り』、相手CBの死角を完璧に計算し尽くしていたわね。今日の勝利の真のキーマンが誰だったか、私のこのノートが完全に証明しているわ!」
「ちょっと待ちなさいよ、エレナ!」
横からルナが割って入り、カメラの液晶画面を氏真に見せつける。
「理論だけじゃサッカーは伝わらないわ! ほら見て、ウジザネ! 決勝点を決める直前のあなたのこの表情! 相手キーパーが諦めた瞬間のこの表情を撮れたのは、私のカメラだけなんだから!」
「写真は感情論よ、ルナ。フットボールの本質は空間の支配にあるわ」
「なによ! 私はウジザネの『物語』を撮ってるのよ!」
二人の少女が氏真を間に挟み、戦術ノートとカメラの液晶を交互に突きつけ合いながら、バチバチと小さな火花を散らし始めた。
氏真はタジタジになりながら、苦笑いを浮かべて後退りする。
「ふ、二人とも……二人とも素晴らしい分析と写真だよ」
「誤魔化さないで! どっちがウジザネを一番理解してるの!?」
二人が同時に詰め寄ってきた、その時であった。
「あ、ウジザネ! 疲れたでしょ? これ、私たちで作った勝利記念の新作よ!」
ルナとエレナが、まったく同じタイミングで、背後から怪しげなボトルを取り出した。
中に入っているのは、以前よりもさらに輝きを増した【ショッキングピンクゴールド色】の液体――新作『エリクシール・ロサ・プレミアム』であった。
「「はい、ウジザネ! どっちから飲むの!?」」
完璧にハモった声で、二本同時に毒々しいボトルを突きつけられる氏真。
周囲を通りかかるカレスやダビアンたちが、
「うわ……また出た……」
「あれはヤバい……」
と哀れみの視線を向けて去っていく。
氏真は冷や汗を流しながら、二本のボトルと二人の少女の熱い視線を交互に見つめた。
(……ふむ。ピッチの盤面を読むより、二人の意図を読む方が、遥かに難しいようだな)
「……これは、下手に選べば大変なことになりそうだ……」
ぽつりと漏れた少年の呟きが、雨上がりのバルセロナの空に虚しく響き渡っていた。
【次回予告】
激戦の余韻も束の間、日本から届いた早川姉妹の緊急連絡。そしてユースCL第3節、クロアチアの雄FCザグレブの荒々しい「骨を砕くデュエル」が氏真を襲う!
第96話:【東欧の可変陣形】次なる天下へのパスを回せ!




