第97話:【雨中の共鳴】
【あらすじ】
ユースCL第3節、敵地ザグレブで1点をリードするバルシーノ。しかし後半、突如降り始めた豪雨が、繊細なパスワークを誇る彼らの戦い方を一変させる。泥濘のピッチと猛攻に苦しむ中、ジョゼップ監督が下した決断とは――。そして、雨中のピッチに立つ氏真を見つめるエステバンの胸に、ある変化が芽生え始める。
1. 泥濘の気配
スタジアム・マクシミールの上空を覆っていた鉛色の雲が、後半の開始とともにさらに低く垂れ込めてきた。
1―0。
前半にレオン・ラインハルトが奪った虎の子の1点を携え、、後半のピッチへ向かうバルシーノ。ジョゼップ監督は後半開始と同時に、疲労の見える前線へ「王子」エステバン・ロサーノを投入した。
「追加点を奪いにいくぞ!」
キャプテンのトニ・ラマジェが咆哮する。
エステバンは南米仕込みの強いキープ力で前線の起点になろうとした。だが、東欧の巨城ミラン・コヴァチを中心とするFCザグレブの可変陣形は、後半に入っても微塵も揺らぐことはなかった。
そして、後半10分を過ぎた頃。
ポツリ、ポツリと落ちてきた冷たい雫は、瞬く間に視界を白く染める大粒の豪雨へと姿を変えた。
ざざざざざっ――!
滝のような雨が芝を激しく叩きつける。
スタジアムの芝生はあっという間に水分を含み、ピッチのあちこちに黒光りする水たまりが生まれ始めた。
「¡Cuidado con el suelo!(足元に気を取られるな!)」
サビエルが叫ぶ。
だが、バルシーノの誇る繊細なパスワーク――ティキタカが、牙を抜かれ始めていた。
濡れて重くなったボールは、転がした瞬間に水たまりで急激に減速する。晴天時なら通っていたはずのダイレクトパスが、相手の手前で失速し、ザグレブの分厚いプレッシングの餌食になっていく。
スペースを広く使おうとすればするほど、選手間の距離が離れ、パスが水たまりに捕まるリスクが増大する。
バルシーノのパスの血流が、泥濘の中で完全に寸断されようとしていた。
――
2. 狙撃手の弾道と痛恨の踏み込み
「Daj mu loptu!(ボールを預けろ!)」
ザグレブの監督スチパン・ルチッチの太い声が雨音を突き破る。
ザグレブは後半から、背番号9のFWイヴァン・オリッチを前線へ投入していた。
普通なら誰もが避ける水たまりへ、オリッチだけが迷わず踏み込んだ。
ボールは水を噛んで失速する。
だが、その失速こそ、オリッチが待ち望んでいた。
後半25分。
中盤でサビエルのパスが水たまりで失速したその瞬間、ザグレブの選手が鋭くインターセプト。ボールはすぐさま前線のオリッチへと送られた。
CBカレス・モンテロが激しく間合いを詰める。
だが、オリッチは水を含んで重くなったボールの側面に左足を滑らせるように触れ、ボールの勢いを殺した。
カレスの足が一瞬だけ濡れた泥に滑り、体勢がわずかに浮く。
その刹那。
オリッチは左足を鋭くコンパクトに振り抜いた。
雨粒を弾き飛ばす、狙撃手のような地を這う弾道。
飛びついたGKトニ・ラマジェの手の先をかすめ、ボールは濡れた左サイドネットの内側へと突き刺さった。
――ドガンッ!
1―1。同点。
「Idemo!(よし、行けぇ!)」
ザグレブの選手たちが狂喜乱舞し、スタジアムが地鳴りのような歓声に包まれる。
バルシーノの選手たちの顔に、焦りの色が濃く広がった。
ジョゼップ監督は失点直後、試合を立て直すための準備を急ぐ。
「氏真、イグナシオ! アップのピッチを上げろ!」
前線のレオンとイネスを下げ、最前線に氏真、中盤の底に今節フベニルBから昇格したばかりの守備的MFイグナシオを投入する準備を進めさせる。
だが――交代カードが切られる直前の後半30分。
悲劇が起きた。
同点に追いつかれ、前へ圧力を強めてきたザグレブのアタッカー陣。
ペナルティエリアの右隅で、相手ウイングが鋭く切り返した。
カバーに入ったバルシーノのCBフェラン・トーレスが、焦りから前へ一歩早く潰そうと深く踏み込んだ。
ズザッ!
濡れた芝に足を取られ、フェランの軸足が滑る。
伸ばした足が、切り返した相手の足首とまともに交錯してしまった。
ピピッ――!
主審が迷うことなくペナルティスポットを指差した。
「¡No!(嘘だろ……!)」
フェランが泥にまみれた顔を両手で覆う。
PKのキッカーは同点ゴールを決めたオリッチ。
トニ・ラマジェがゴールライン上で両腕を広げ、最後の威圧を放つ。
それでも、オリッチの瞳は揺れなかった。
次の瞬間、左足から放たれた一撃が豪雨を切り裂き、ゴール中央上段へ突き刺さった。
後半31分。1―2。
逆転。
冷たい豪雨が降り注ぐ中、バルシーノはアウェイの地で、絶望の淵へと突き落とされた。
――
3. 泥濘の4-5-1
「氏真、イグナシオ、入れ!」
キックオフ再開の笛が鳴る直前、ジョゼップ監督の鋭い声が落ちた。
後半32分。
レオンとイネスが下がり、14歳の吉良氏真と、泥臭い守備職人イグナシオがピッチへと足を踏み入れる。
ジョゼップ監督が命じたシステム変更は――4-5-1。
FWを氏真のワントップ一枚にし、中盤を5枚へと増員。
ボランチの中央にサビエル、その両脇をテンテと新加入のイグナシオが固める。そしてトップ下にダビアン・シヴァとエステバン・ロサーノを並べる中央集中型の布陣であった。
「ウジザネ、頼むぞ……!」
交代したイネスが、濡れた氏真の肩を叩いてベンチへ引き揚げる。
氏真は静かに頷き、ピッチの中央へ走った。
泥に足を取られ、体力が削られたチームメイトたち。
だが、氏真の黄金の瞳には、諦めの色など欠片もなかった。
(雨を嫌がるのではない。雨がもたらす摩擦と抵抗のすべてを、こちらの理合に組み込めばいい)
氏真がピッチに入ったことで、バルシーノの陣形に劇的な変化が起きた。
単なる守備固めの4-5-1ではない。
新しく入ったイグナシオが中盤の底で泥臭くボールを回収し、相手のプレッシャーを受け止める防波堤となる。
これにより、サビエルが一列前でボールを受けられるようになり、中央のダビアン、エステバン、そして最前線の氏真との距離が、雨の中でもボールをつなげるほどまで縮まった。
晴天時のようにピッチを広く使うのではない。
豪雨の中でパスミスを防ぐため、中央の4人が密集し、パスを出してからボールが止まる前に、次の選手が触れられる距離でボールを動かす。
泥濘のピッチに適応した、新しい中央突破の形。
サビエルからダビアンへ。ダビアンからエステバンへ。
水たまりを避け、浮き球を交えたダイレクトのワンタッチパスが、ザグレブの強固なブロックの内側をスルスルと通り抜け始めた。
――
4. 王子の執念と無言の走路
後半40分。
バルシーノの反撃がザグレブのゴール前へと迫る。
サビエルからの縦パスを、中央で受けたのはエステバンだった。
エステバンの前には、すでに相手の巨漢CBミラン・コヴァチが壁のように立ちはだかっている。
最前線では、氏真がコヴァチの死角となる左斜め奥のスペースへ静かに滑り込んでいた。
氏真がフリーでいる。
だが――それでもエステバンは、ゴールを見た。
(俺が……俺が決めてやる! 俺がこのチームのエースだ!)
エステバンは氏真へのパスコースがありながら、強引に右足を振り抜いた。
雨で重くなったボールが、コヴァチの分厚い太腿に当たり、大きく枠を外れてゴール裏へと消える。
「くそっ……!」
エステバンが濡れた前髪を乱暴にかき上げ、悔しさに顔を歪めた。
ザグレブの選手たちが時間を稼ぐようにゆっくりとゴールキックを蹴る。
残り時間は、アディショナルタイムを含めてもあと僅か。
焦るエステバンの横を、氏真が通り過ぎた。
氏真は「パスを出せ」と怒ることも、声を荒らげることもしなかった。
ただ、エステバンの瞳をじっと見つめ、静かに息を整えただけだった。
その澄んだ眼差しに、エステバンの胸がドクンと跳ねた。
(あいつ……俺を責めないのか……?)
後半44分。
バルシーノのラストアタック。
自陣深くでイグナシオが泥だらけになりながら相手FWのボールを奪い取り、サビエルへ預ける。
サビエルがダイレクトで浮かせたパスを、ダビアンが頭で前方のエステバンへ落とした。
ペナルティエリア手前の中央。
ボールを足元に収めたエステバンの前に、再び巨城ミラン・コヴァチが立ちふさがる。
コヴァチの身体の向き、長いリーチ。シュートコースは完全に消されていた。
エステバンはもう一度、強引に右足を振ろうと身体を捻った。
だが――その瞬間、エステバンの視界の隅に、青と臙脂の影が滑り込んできた。
吉良氏真だった。
氏真はコヴァチの巨大な身体の背後、まさにコヴァチが右足を踏み出そうとしたその死角へと、半歩だけスッと移動した。
相手CBの重心が傾いた刹那、氏真の姿がふっと視界から消えた。そして次の瞬間、エステバンの右足が描く軌道の先にだけ、その姿が浮かび上がる。
氏真は声を出さない。
ただ、身体の開き方と、右足の爪先の向きだけで、エステバンへ明確に語りかけていた。
『ここへ、流せ』――と。
エステバンの脳裏に、電撃のような閃きが走った。
(……そうだ。俺が撃つんじゃない。俺のパスで、あいつに仕留めさせるんだ!)
エステバンの天性のファンタジスタとしての本能が、右足を振り抜かせた。
スッ――。
水飛沫とともに放たれたのは、コヴァチの股下を鮮やかにすり抜ける、針の穴を通すようなグラウンダーのスルーパスだった。
――
5. 雨中の共鳴
氏真が走り込む。だが、ボールは水を噛み、予測した軌道からわずかに沈んだ。
それでも氏真は迷わない。
乱れた軌道に、自らの一歩をそっと重ねた。
「なにっ……!?」
振り返ったコヴァチの顔が、驚愕に引きつる。
飛び出してきたザグレブのGK。
雨水が跳ね上がるペナルティエリア中央。
ボールは水を含んで重く、足元でわずかに跳ねていた。
だが、氏真は、ボールの不規則なバウンドを右足のインサイドで柔らかく吸収すると同時に、軸足の膝を深く曲げて泥濘の抵抗を受け流す。
GKが身体を投げ出して飛び込んでくる、その直前。
右足のインサイドで、ボールを静かにゴールの隅へ送り出した。
――ザシュッ。
水飛沫をあげながら転がったボールが、泥にまみれたゴールネットの左隅を静かに揺らした。
後半46分。2―2。
同点。
「¡Golazo!(同点だぁぁぁッ!!)」
静まり返っていたアウェイのベンチから、控え選手たちが雨の中に飛び出し、歓喜の咆哮を上げた。
氏真は泥だらけになった膝を払い、ゆっくりと立ち上がった。
そこへ、雨に濡れた髪から水滴を飛ばしながら、エステバンが猛然と走り込んできた。
「ウジザネェェェェッ!」
エステバンが氏真の身体を抱き上げ、雨の中で絶叫した。
「見たか! 俺のパス! あの瞬間、お前がそこへ来るのが見えたんだ!」
「ああ、最高のパスだったよ、エステバン」
氏真は少年の柔らかな笑顔を浮かべ、エステバンの背中をポンと叩いた。
雨音の向こうで、二人の視線がもう一度だけ重なった。
ピーーーッ! ピーーーッ! ピーーーーーッ!
試合終了の長いホイッスルが、冷たい雨空に響き渡った。
2―2。
敵地での過酷な死闘をドローに持ち込み、貴重な勝ち点1をもぎ取ったFCバルシーノ。
雨に濡れた14歳のストライカーは、泥濘の中でまた一つ、欧州の戦い方を覚えた。
―― ユースCL|第3節終了 FCバルシーノ 2勝1分(7point)――
【次回予告】
国内リーグ戦。エステバンは、自分より年下の氏真にチームのテンポを変えられていくことに苛立っていた。だが、その「余白」に触れるほど、眠っていたファンタジスタの本能が目を覚ましていく――。
第98話:【エステバンの葛藤】次なる天下へのパスを回せ!




