第98話:【エステバンの葛藤】
【あらすじ】
国内リーグ第6節シエダムFC戦。「王子」エステバンは、14歳の氏真がチームの呼吸を操る姿に苛立ちを抱える。だが、氏真が生み出す空間の余白に触れるにつれ、エステバンの中に眠るファンタジスタの本能が目覚め、得点への衝動を研ぎ澄ませていく。
1. 晴天のピッチと苛立ちの王子
地中海の眩い秋陽が、シウダ・エスポルティバの鮮やかな緑芝を照らし出していた。
敵地ザグレブでの豪雨の死闘から数日。
国内リーグ戦・第6節。FCバルシーノ・フベニルAがホームに迎えたのは、同じバルセロナに拠点を置くシエダムFCであった。
ピッチサイドの掲示板に並ぶ先発メンバー。最前線のセンターフォワードの位置に、背番号29――吉良氏真の名前が刻まれていた。
国内リーグ戦での、初スタメン抜擢。
ウォーミングアップを終え、トンネルからピッチへ姿を現した選手たちの中で、背番号10を背負うエステバン・ロサーノは、不機嫌そうにスパイクの紐を締め直していた。
(……チッ、あいつが最初から入るのかよ)
エステバンはアルゼンチンの名門ユースから海を渡り、プロ契約を勝ち取った自負がある。カンテラの「王子」として、チームの中心は常に己でなければならなかった。
前節のザグレブ戦、泥の中で氏真へのパスを選択し、引き分けを手繰り寄せた。その判断が正しかったことは頭では理解している。
だが――18歳のプライドは、4歳も年下の14歳の少年に、チームのタクトを握られているような感覚を容易には受け入れられずにいた。
「¡Vamos a ganar!(勝ちにいくぞ!)」
GKトニ・ラマジェの太い声が青空に響き渡る。
ピーーーッ!
主審のホイッスルとともに、シエダムFCのキックオフで試合が始まった。
――
2. 見えざる余白
対戦相手のシエダムFCは、ボールを保持して主導権を握るポゼッションと、連動したハイプレスを信条とするチームだった。
だが、その連動は、日々バルシーノが磨き上げているものには及ばなかった。
開始早々、シエダムFCのFWセルヒオとMFダニエルが前線から激しい圧力をかけてくる。
だが、バルシーノのピボーテ、サビエル・フェルナンデスは、そのプレスをあざ笑うかのようにワンタッチでいなした。
「¡Muévete!(動け!)」
ベンチ前で腕を組むジョゼップ・カサス監督の鋭い指示が飛ぶ。
監督の意図通り、バルシーノの中盤は滑らかに回転し始めた。
そして、その中心で誰よりも異質な動きを見せていたのが、最前線の吉良氏真だった。
氏真は前線に張り付くのではなく、相手のセンターバック二人の視野の境界線へ、ふっと身体を引いた。
相手CBのラウールが、氏真の動きに釣られて半歩だけ前に吊り出される。
その瞬間――エステバンの目の前に、広大な「余白」がぽっかりと生まれた。
(……まただ)
エステバンは苛立ちを覚えながらも、身体が勝手にその空間へと加速していた。
サビエルから、降りてきた氏真へ鋭い縦パスが入る。
氏真はボールをトラップすることなく、右足のアウトサイドで柔らかく触れた。
ボールは、相手CBの背後に生まれた余白へ滑り込んでいく。
ラウールが反転するより早く、トップスピードに乗ったエステバンがそこへ飛び込んだ。
エステバンの前には、誰もいない。
「¡Esteban!(エステバン!)」
エステバンはペナルティエリア左角から右足を振り抜いた。
強烈なカーブを描いたシュートが、相手GKの手を弾いて右サイドネットを揺らす。
――ザシュッ!
前半8分。1―0。
「¡Golazo!(なんてゴラッソだ!)」
スタンドから歓声が沸き起こる。
エステバンは拳を突き上げながらも、視線を氏真へと向けた。
氏真は笑みを浮かべ、拍手を送っている。
(あいつ……俺が欲しい場所に、寸分の狂いもなくボールを落としやがった……)
自分が決めたゴールだ。だが、そのシュートに至るまでの道筋は、すべてあの14歳の少年の立ち位置によって用意されていた。
苛立ちと、抗いようのない心地よさが、エステバンの胸の中で激しくせめぎ合っていた。
――
3. 目覚めるファンタジスタ
ジョゼップ監督の修正は、すぐさま効果を現した。
相手のプレスの弱点を見抜き、サイドチェンジのタイミングとインサイドハーフの立ち位置を指示通りに修正させる。そのすべてが的中し、シエダムFCの陣形は面白いように切り裂かれていった。
前半21分。
中央でボールを受けたエステバンは、今度は自らタクトを振るった。
氏真が右奥へ斜めに走り込むことで相手DF二人を引き連れ、中央に生まれたスペースへダビアン・シヴァが飛び込んでくる。
エステバンは右足の甲でボールを柔らかく浮かせ、相手DFの頭上を越えるノールックパスを通した。
ダビアンがダイレクトで右足を振り抜き、ゴール右隅へ叩き込む。
2―0。
エステバンの鮮やかなアシスト。
そして前半38分。
再び氏真の「引き出す動き」が炸裂する。
自陣深くからのビルドアップ。相手の中盤が前がかりになった瞬間、氏真が中央の狭い隙間へ顔を出した。
シエダムFCの守備陣が氏真を囲い込もうと密集した、その一瞬。
氏真は背後も見ずに、左足のヒールでボールを斜め前方へ流した。
そこには、すでにトップスピードで走り出していたエステバンの姿があった。
「嘘だろ……」
相手GKが絶望の声を漏らす。
エステバンはペナルティエリア内に侵入し、飛び出してきたGKの頭上を鮮やかなチップキックで破った。
――ザシュッ。
前半39分。3―0。
エステバンのこの日2点目。氏真は前半だけで2アシストを記録した。
だが、氏真自身のシュート数は「0本」。
味方が絶好調であることを見極め、自らは黒子として空間を整え、エステバンを輝かせることに徹していた。
ピーーーッ!
前半終了のホイッスルが鳴る。
ロッカールームへ戻る通路の中、エステバンは荒い息を吐きながら、前を歩く氏真の華奢な背中を見つめていた。
(年下に操られてるなんて、認めたくねえ……。だが、あいつがいると……俺のやりたいプレーが、全部形になっちまうんだ)
眠っていたファンタジスタの本能が、氏真の創り出す余白によって目を覚まし始めていた。
――
4. 静寂なる王の登場
ロッカールームのドアが開き、ジョゼップ監督が告げた。
「氏真、前半で交代だ。今日は十分な仕事をした」
氏真は濡れたタオルで汗を拭い、少年の素直な笑みで頷いた。
「はい、監督。ありがとうございます」
そして監督の視線は、今節フベニルBから昇格してきたばかりの背番号25へと向けられた。
「フェリペ。後半から右インサイドハーフに入れ。お前のリズムで中盤を支配しろ」
「はい」
短く答えたのは、氏真と同い年の14歳、ハプスブルク家の血を引く「静寂なる王」フェリペであった。
後半開始。
ピッチに立ったフェリペは、フベニルAの初舞台とは思えないほどの落ち着きを見せた。
派手なドリブルや無理な突進は一切しない。
ボールを受ける前に首を左右に振り、味方と相手の位置関係を把握。ワンタッチ、ツータッチで正確無比にボールを散らし、シエダムFCの反撃の芽をことごとく摘み取っていく。
「おいおい……フベニルBから上がってきた奴まで、なんであんなに落ち着いてるんだ?」
スタンドの控え選手たちがざわめく。
フェリペの冷静なタクトにより、バルシーノは後半も完全に試合の主導権を掌握し続けた。
――
5. 歓喜のハットトリック
後半30分。
ジョゼップ監督はさらに前線へ、英国の「聖騎士」レオン・ラインハルトを投入。
そして後半41分、決定的な瞬間が訪れた。
中盤でフェリペが相手のパスを冷静にインターセプト。すぐさま前方のダビアンへ預ける。
ダビアンが右サイドのレオンへ展開。
レオンは持ち前の絶妙な飛び出しでタッチライン際を深くえぐると、グラウンダーの鋭いクロスをゴール前へ供給した。
そこへ、誰よりも速くペナルティエリア中央へ突っ込んできたのはエステバンだった。
エステバンは相手CBのマークを強靭な体幹で弾き飛ばし、右足を一閃させた。
ダイレクトボレーの強烈なシュートがゴールネットの中央を揺らす。
4―0。
「¡Gol!(ゴール!)」
エステバンがコーナーフラッグへ走り、ユニフォームの胸のエンブレムを誇らしげに掲げた。
ハットトリック達成。
3得点1アシスト。
文句なしのプレイヤー・オブ・ザ・マッチの活躍であった。
ピーーーッ! ピーーーッ! ピーーーーーッ!
試合終了の長い笛が鳴り響き、バルシーノの4-0の圧勝が告げられた。
――
6. 王子の矜持と次なる兆し
試合後のロッカールーム。
3得点を挙げたエステバンの周りには、チームメイトたちからの賞賛の声が集まっていた。
そこへ、ジョゼップ監督が歩み寄ってきた。
「エステバン」
「はい、監督」
監督はエステバンの肩に手を置き、静かに告げた。
「来週から、トップチームの練習への参加が決まった。準備しておけ」
室内が一瞬、静まり返った後、歓声と拍手が沸き起こった。
プロ契約を結ぶ18歳にとって、トップチームへの招集は最大の目標への第一歩であった。
「……ありがとうございます」
エステバンは誇らしげに頷いた。
だが、仲間たちとのハイタッチが一巡した後、エステバンは静かにロッカーの隅でスパイクを磨いていた氏真のもとへ歩み寄った。
エステバンは腕を組み、ぶっきらぼうに言った。
「おい、ウジザネ」
氏真が顔を上げると、エステバンは少し視線を逸らしながら口元を歪めた。
「……今日の前半のパス、悪くなかったぞ」
素直になりきれない、王子のプライド。
氏真はその不器用な言葉の裏にある感情を察し、柔らかく微笑んだ。
「ありがとう、エステバン。君のハットトリック、ベンチから見ていて圧巻だったよ」
エステバンはフッと鼻を鳴らし、踵を返した。
「次はトップチームで待ってるからな。……遅れを取るなよ」
背中越しに投げかけられた言葉に、氏真は静かに目を細めた。
仲間たちがそれぞれの高みを目指し、着実に歩みを進めている。
バルセロナの夕暮れが、クラブハウスの窓を茜色に染めていた。
充実した勝利の余韻。
だがその時、日本にいる早川姉妹からのメッセージ通知が、氏真のスマートフォンの画面を静かに点滅させていた。
深夜の自室で愛・舞姉妹とオンラインミーティング。愛のレシピ伝授と舞のデータ分析が交錯する中、画面の隅で咳き込む母・有理の姿を愛が見逃さない。
第99話:【静かなる愛】次なる天下へのパスを回せ!




